Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第五章 臨界点の再点検【5】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
その確認を前提にすれば薄々気づくかもしれない。実は、『AIR』はゲーム的リアリズムを批判している。
ここには二つの根拠がある。一つは『AIR』が、繰り返しによってヒロインが救済されるというような展開を描かなかったことだ。すでにこの時点で美少女ゲーム的正しさからは遠くはなれている。
もう一つは、奇跡に関する内容だ。さきほど説明したように、筆者が考える上では、ゲーム的リアリズムとは、奇跡を合理的に説明する試みである。
たとえば、普通に考えて、複数の選択肢を繰り返し繰り返し選ばされるノベルゲームで、普通にプレイしている分には、一回も間違わずにトゥルーエンドなどに辿りつけるはずがない。辿りつけたとすればそれは奇跡である(※80)。むろん、奇跡というには大仰かもしれないが、しかし、そういった類の現象であることは間違いない。しかし、攻略サイトを見ていれば確実に正しい選択肢を選ぶことができるだろう。
ゲーム形式上のこの構図は、換言すれば神と人間との関係を示唆している。正しい選択肢を知っているものとは、言わば神や預言者の立場にある。神が登場すれば、物語はどんな苦境にあったとしても問題解決するだろう。神は、それが可能だということにされている存在だ。
このとき『AIR』においては、そもそも神に対応する存在が、人間たちに疎まれて疎外された。第二部に登場する神奈備命だ。彼女の恨みや恐怖が、実は観鈴を苦しめる呪いの根源であった。そして、当時から千年後となる現代まで、その呪いを解き放とうとしているのが国崎たちの一族であった。
国崎たちは、神奈を救おうとしたというよりも、むしろその時代時代に現われる呪いの依代を救おうとしたようである。たとえば、国崎は一切神奈のことを知らない。彼は観鈴を救おうとしただけである。そして、その希望は叶わなかった。
ここにはめんどうな混乱がある。もし、観鈴を救えば神奈も救われる、という話であれば問題はたやすいのである。そうではなかった。千年分の力を使っても観鈴は、生死のレベルでは、救われなかったのである。しかし、神奈は、エンディングを見るにどうも解放された可能性が高い。
どういうことなのだろうか。問題が紛糾してきた。ここでは本来の問題の確認にとどめよう。つまり『AIR』では、「繰り返しによって正しい選択肢が選べる」ことができないだけでなく、神の力のような超常現象による救済もまた否定されているのである。
このように『AIR』においては、「主人公とヒロインの密接な関係の制度」としての美少女ゲームが徹底的に脱臼された。これが臨界点の真髄である。
†海岸線の向こうへ
このように『AIR』は、美少女ゲーム形式への挑戦と、泣きゲーとしての完成(※81)という二つの要素を満たした結果、歴史に刻印される作品となった。
この連載にとっても重要なのは、臨界点のその次の展開である。それはここまでKey的パラダイムと言って予見してきたものだ。
Keyだけが全てなのではもちろんない。しかし、Keyという独自の問題が発見されたことは、2000年代の新しい美少女ゲームの流れにとって、旗印的に重要だった。
どういうことか。それは、強いて言えばメジャー化であり、同時に、非18禁化への流れである。しかし、この章はその流れに触れることができない。
あくまでも『AIR』の問題として臨界点を語り、そのことによってこの『臨界点』の章を閉めよう。『AIR』に残されている最後の問題とは、美少女ゲームの外部を描いたということである。それは、極端に言えば、ヒロインと主人公の蜜月からこぼれた存在、すなわち「子ども」を描いたことにある。
『AIR』の第三部では、エンディングの後に見知らぬ子どもたちの姿が描かれる。彼らは堤防に向かって手を振っている。そこには、国崎と観鈴の姿がある。この二人の姿は、第一部の冒頭の様子と全く同じである。
つまり、物語の内部は繰り返しているのだ。当然である。観鈴は肉体的には救われていないから、美少女ゲームとしては、彼女が救われる「正しい」エンディングに至るまで繰り返すしかない。ただ、『AIR』のエンディングはむしろ、そのような美少女ゲームの象徴としての国崎と観鈴に対して、「さようなら」と言いながら手を振っている。そもそも、物語の冒頭で国崎は誰かに「さようなら」と声をかけられており、実はその声が、この物語の最後のシーンから投げかけられた言葉だということが、ここで明らかになるのだ。
このシーンの隠喩はいっけん意味深だが、いまや我々には簡単に理解することができる。眠りこけたまま子どもたちの存在に気づかない国崎は美少女ゲームそのものであり、その国崎と寄り添いながらも子どもたちに手を振り返す観鈴は臨界点である。そして、子どもたちは美少女ゲームの外部である。
子どもたちは歩き出す。どこへ向かっているのかは彼らも分からない。ただ、「海岸線の向こう」が見たいから――と。
このように、外部や未来のイメージが、子どもの形に託されていることには注目すべきである。それは、文学的想像力の水準では、『CLANNAD』や『リトルバスターズ!』に繋がるKey独自の問題の探究を――むろん『AIR』が最初ではないが――開くものであると同時に、メディア的に物語の水準を18禁美少女ゲームから一般的エンターテインメントへと押し上げる働きを担った(※82)。
それは、2000年にて早くも美少女ゲーム的文化のメジャー化の旗印としての機能を担ったものではなかったか。実際、演出技術の進化やパソコンのスペック向上に伴い、単なる紙芝居としての美少女ゲームを遥かに超えた、より広範なユーザーを対象としたエンターテインメント作品がどんどん目立っていったのが間違いなく2000年代の一つの流れだった。
それは、虚淵玄の言葉を借りればまさに美少女ゲームの「カンブリア紀の終わり」(※83)だった。彼のかような発言は示唆的である。というのも、『AIR』によって早くも円熟を見た、葉鍵系というか、セカイ系というか、美少女ゲーム的というか、――そのような系譜はむしろ弱まり、まさにニトロプラスのメインライターであり『Fate/Zero』の著者でもある、虚淵玄が代表するようなエンターテインメントの系譜こそが、むしろ重要な存在感を放っているのが、2000年当時から12年後の未来である、いまの現状ではないだろうか。
文=村上裕一
※80 そして『雫』『痕』などでは絶対に一回でトゥルーエンドにたどり着けないように、選択肢に制限がかけられていた。
※81 泣きゲーの完成形としての姿、蛇足的かもしれないが、泣きゲーとの絡みで言えば、観鈴がゴールする第三部のクライマックスが、BGMの「青空」の名曲ぶりとあいまって、非常に感動的なシーンとして記憶されている。少し意地悪な言い方をすれば、『AIR』の徹底的にヒロインを苛め抜く構造がそれに寄与していることは間違いないだろう。
※82 実際、後のKey 作品である『CLANNAD』『リトルバスターズ!』『Rewrite』 は(後に一八禁版が出されたものもあるが)全て一般向けとして発売された。
※83 『ユリイカ 11月臨時増刊号 総特集* 魔法少女まどか☆マギカ』(青土社、2011年)56pより
関連リンク
波状言論>美少女ゲームの臨界点
http://www.hajou.org/hakagix/
12.01.22更新 |
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