Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
†補遺様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載
前回までに『臨界点』と『AIR』を取り上げたことで、連載の方向性にも一段落がついた。ここを折り返し地点と考え、次章からは二十一世紀の美少女ゲームの可能性について考えていきたい。
しかしその前に、これまでの連載がどういう議論を経て、何を明らかにしてきたかということを確認しておきたい。
本連載はそもそも美少女ゲームの風景を再吟味し、その可能性を考え直すことを目的としていた。その鍵となる概念は恋愛であった。今から振り返って述べれば、本連載は、アダルトゲームが恋愛を獲得して美少女ゲームとなり、さらにそれを手放すまでを追いかけてきたのだとも言えるかもしれない。
様々な考え方があるにせよ、恋愛の先にセックスがある、と考えることは自然である。
だが、アダルトゲームが恋愛に辿り着くまでには時間がかかった。単に女性を凌辱するような暴力的なゲームや、そもそもセックスと本質的には無縁なファンタジー作品などがむしろ初期のアダルトゲームでは目立っていたのである。
そんな中で初めて恋愛的なゲームとして現われたのが『同級生』だった。しかし、『同級生』は過渡期的な作品だった。確かに、学生の夏休みという舞台設定がいかにも恋愛的な雰囲気を醸しだしてはいたものの、実際にはナンパによるひと夏の思い出作りこそが主要な目的だった。それはむしろ、モンスターを退治してそのご褒美としてセックスが手に入るようなファンタジー作品と似通っていた。
だからこそ『To Heart』と『同級生』を比較することが必要だった。二つの作品は代表的なPCゲームであると同時に、代表的な恋愛ゲームでもあった。にもかかわらず、そこには大きな差異があった。
というのも、『To Heart』のほうが、形式的な水準において恋愛というものをよく反映していたのである。『To Heart』は、ビジュアルノベルが持つ「選択肢によってエンディングが変わる」という仕組みを、「選択するヒロインによって物語の方向性が変わる」という形に読み替えていた。ということは、単純にヒロインを交換することができないということである。Aというヒロインの攻略が難しいからといって、攻略が簡単なBのエンディングを見たとしても、Aを攻略するという経験の埋め合わせにはならない。
このことは、『AIR』の吟味によって確認された美少女ゲームの定義に照らしてみればより重要である。美少女ゲームとは、ヒロインが主人公を争奪するものだった。ヒロイン側を主体として考えれば、AとBが交換できないのは自明である。
かような形式を完成したのが『To Heart』であり、この形式によって初めて恋愛というものを本質的に取り扱うことができるようになったと考えるべきであろう(※84)。
ここで美少女ゲームの形式が完成したのだとして、むろんアダルトゲームの潮流がこれだけということはなかった。たとえば、アダルトゲームの大人向けという側面、暴力的だとか反社会的だとかいった側面を代表する鬼畜ゲームもまた、美少女ゲームに大きな影響を与えていた。たとえばこのジャンルの代表作である『臭作』や『絶望』には、相互に異なったやり方ではあるが、メタフィクション的な仕組みが実装されていた。このメタフィクション性は、後にノベルゲーム的な美少女ゲームに取り入れられ重要な役割を果たす。後のループものの台頭である。
しかし、メタフィクション性がはからずも鬼畜ゲームの成立においてそれなりに重要な役割を担っているとしても、それが鬼畜ゲームのアイデンティティだと言ってしまうのには問題があるだろう。あらゆるメタフィクション作品が鬼畜的な作品であるはずはないからだ。鬼畜ゲームのアイデンティティはその闇のイメージである。
二〇世紀のアダルトゲームにおける闇のイメージというものは非常に強い存在感を持っていた。こういった作品はむろん今も廃れたわけではないのだが、しかし、萌えの流行やアキバ系の勃興などと同期する形で美少女ゲームにもスポットが当たってしまい、文字通り比較的無害な純愛ものや萌えゲーばかりがフィーチャーされることになった。『レイプレイ』が「性暴力ゲーム」として国際的な問題になったことはまだ記憶に新しいが、このような問題も美少女ゲーム全体のメジャー化に伴って起きたものとして考えるべきだろう。
また、闇のイメージといっても、二〇世紀と二一世紀では異なっている。簡単に言えば前者が強いカルト性を有しているのに対し、後者はそうではない(※85)。
何が変わったのか。一つの仮説として、闇のイメージの表象として「探偵小説的磁場」というものを考案した。アダルトゲームの探偵ものは、しばしば伝奇的な要素を持ち、猟奇的であったりカルト的であったりすることが多い。闇のイメージの構成という点では、探偵ものの作品は大きな役割を果たしていた。
ところで、調査してみると、二一世紀の美少女ゲームにおいて探偵ものはあまり目立たないのだが、それに対して二〇世紀は探偵ものに溢れていたのかと言えば決してそんなことはなかった。後者において重要な役割を果たしたのは菅野ひろゆきの一連の仕事である。探偵ものとしてだけでなく、アダルトゲーム全体に対するその強い影響力は周知のところだろう。つまり、数的な増減はそこまで激しくないが、影響力という点で大きな差が出ているのである。それはまさに象徴的なレベルでの変化だと言うべきだろう。
その象徴的変化を裏付ける一つの事例をエロゲー批評空間の調査に見出した。探偵もののアイデンティティとしてミステリーやハードボイルドという要素がある。これらの評価はむろん二〇世紀においては菅野ひろゆきの一連の作品に与えられているのだが、二一世紀においては探偵ものの作品ではなく、むしろ別な作品に与えられていた。後者を一言で表現するなら、それこそ人気ランキングの上位を占めるような「ヒット作」である。たとえばTYPE-MOONやニトロプラスの一連の作品がそういう評価を受けている。しかし、これらのメーカー作品が体現するような作家性には、かつて雑誌『ファウスト』によって「新伝綺」という新しいジャンル名を与えられていた。このことは我々にとってはありがたい話である。というのも、世紀をまたいだときに起こった闇のイメージの質的変化を、伝奇から新伝綺への流れとして考えることができるからだ。
そのためには新伝綺とは何であるかを確認しなければならないのだが、ここではエンターテインメント化ないしはメジャー化した伝奇作品と捉えておいてもらえればよい。それは、前回の最後において示唆した、美少女ゲーム自体のメジャー化という流れとむろんのこと同期している。
前回、我々は『AIR』に美少女ゲームの臨界を見た。それは、恋愛システムの限界だと言っても過言ではない。恋愛というシステムは、美少女ゲームを定義する強力な制度として機能していた。しかし、例えば探偵小説的作品に恋愛(システム)が必須ではないように、あらゆる物語においてこのシステムが重要な制度ということはない。他方で、恋愛を正確に表現するために物語の装置として美少女ゲームは十分に発達してしまった。その事実が意味するのは、恋愛システムの制限によって純化された美少女ゲームというメディアは、その完成によって、逆説的に恋愛から解放されたということである。
それは、美少女ゲーム自体が恋愛ではないものを求め始めたということを意味しないだろうか。だとすれば、二一世紀において、恋愛ではなく活劇やバトルといったメジャーなエンターテインメントを体現した作品たちが強い存在感を放ったことは、むしろジャンルそのものの欲望の結果なのではないだろうか。
次章以降は、そのような観点に立った上で、二一世紀の美少女ゲームを考察していきたいと思う。
文=村上裕一
※84 この点で、『To Heart』の次に発表されたLeafの作品が、浮気をテーマとした『White Album』だというのは示唆的である。この作品においては、最初の段階からメインヒロインが主人公の彼女として登場する。したがって、彼女以外のヒロインを選択する場合、全ての局面で浮気ということになり、後ろ暗い気持ちを背負わざるを得なくなる。 こういった「恋愛」そのものの問題がどう昇華されるのか――それもまた二十一世紀的問題である。とりわけ、『School Days』や『君が望む永遠』といった作品が重要な役割を担っている。
※85 前者の実例として例えば『黒の断章』のような作品、あるいは『雫』の電波性などがあることには既に触れてきた。しかし、後者の検討はまだなされていないなど、この問題は、残念ながら連載では詳細に展開しきれていない。後々補完していきたいところである。
12.01.29更新 |
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