Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第二章 地下の風景【4】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
『臭作』の検討は鬼畜ゲームの主流を把握する上で非常に重要なものの、その主流ぶりが本質的であるがゆえのシミュレーション性などが前景化してしまっており、当然ながらこの一つだけにジャンルを代表させるのは心もとない。そこで、とりあえずもう一つ押さえておきたいのが『絶望 ―青い果実の散花―』(スタジオメビウス、1999)である。メビウスは鬼畜ゲームの代表的ブランドとして知られており、例えば事実上『絶望』を続編とする『悪夢―青い果実の散花―』(スタジオメビウス、1996)は、発売直後から鬼畜ゲームとして大人気を博しており、同時期に市場に並んだ『遺作』(エルフ、1995)、『脅迫 〜終わらない明日〜』(アイル、1996)などとともにユーザーの記憶に刻まれることとなった。
さて、サブジャンル的にいえば「監禁凌辱」ゲームといえるこの作品の背景を簡単に確認すると、ある財閥の御曹司である「紳一」とその手下たちが、ゲーム的な感覚で少女への集団誘拐暴行事件を起こした咎で逮捕され、死刑判決を受け死亡したというところまでが前提である。生前から傍若無人の限りを尽くしていた連中だが、こともあろうに亡霊となって現世に舞い戻り、植物状態の男の身体を手に入れたことから、その男に憑依して現実に干渉できるようになった。かくしていまいちどゲームが始まる。
と、このような説明からも既に明らかであるように『絶望』はもはやただの鬼畜ゲームではない。むしろ、たった二作品の検討では拙速かもしれないが、そもそも「ただの鬼畜ゲーム」などというものは単に外側から反社会的なイメージのレッテルを張っているものが勝手に妄想している基準として以外には存在しないのではないか、とすらいいたくもなるのだが、ともかく『絶望』の亡霊を基軸にした設定は特殊である。
無論、局所的な理詰めで考えればこれらは筋が通っている。例えば、なかなか現実に生きている人間が凄惨な犯罪行為に手を染めるということは難しいのだから、生きているものではなく死者にしよう。実際、フィクションというのは死者が動くような虚構の経験である。さて、しかし死者がそのまま現実に戻ってきただけではないのだから肝心の物理的干渉、即ち暴力はふるえないしセックスもできない。どうしよう。そうだ、植物状態の身体を用意して憑依させればいい。ところで、植物状態に憑依できるのであれば、レイプして人格がおかしくなった少女にも憑依できるのではないか。そして、むしろこれを利用することで、友達関係をたどってより円滑に、より多数の少女に対して凌辱行為を行なうことができるのではないか。と、このように局所的な論理性を穴埋めしていった結果、驚くべき奇形かつ猟奇的な作品が出来上がってしまったのだと推測することはそこまで難しい作業ではない。
と、前置きをしていなかったが、「憑依」は『絶望』の根幹をなすアイディアであるとともにゲームシステムでもある。例えば『臭作』の場合、最終的に明らかとなるメタフィクション設定を考えればなるほど「憑依」というモチーフに目配せが効いていないわけでもないのだが、しかしそれが一種の超能力的なレベルでは機能しないのであって、飛び道具としては基本的にカメラを設置することである種の遠隔操作を達成しそれで盗撮写真を収集するのがせいぜいだった。ところが『絶望』では身体をある程度自由に交換することができるために、必然的に行動範囲が物理的にも質的にも拡張される。例えば、『絶望』は『臭作』とほぼ同じようなスケジューリングシステム、即ち、細やかな時間管理・行動管理を要求するゲームデザインがされており、時間割が5分刻みであるなど見方によっては『臭作』よりも細かいのだが、にもかかわらず、なんと攻略対象が28人も存在するのである。普通のゲームがせいぜい5〜7人のヒロインで済ませていることを考えれば、実に約五倍の人数が登場することとなる。
しかし、どうすればこのようなことが可能になるのか。もちろん、ノベルゲーム的な、ある種の個人的トラウマを世界を揺るがす大問題として取り扱う態度ではこの人数が賄いきれるはずもなく、そもそもアダルトゲームは元はそういうものではなかったということに関しては第一章で確認した。むしろ、アンチノベルゲーム的な発想が人数という形ではっきりとここに押し出されていると考えた方がよいかもしれない。実際、『絶望』はよくできたアドベンチャーゲームである。「憑依」のモチーフによって、シチュエーションに対する選択の幅が増えている。この場所にはこの人物、この人物にはあの人物、というような対応の幅だ。また、『臭作』ではカメラ程度に収まっているアイテムももっと多様に登場していて、例えば「マイナスドライバー」とか、「通帳」とか「貯金」とか「弁当」だとかいったものが存在する。これらの道具はそれがそのまま脅迫材料になるわけではないが、人の行動を左右するフラグ管理アイテムであることは間違いなく、その意味では『臭作』において凌辱を成立させる素材としての盗撮写真と機能は一緒だともいえるだろう。しかし、その素材の多様性こそがゲームの複雑さを演出することにおいて並々ならぬ役割を担うのである。
実際、『絶望』もまた自分がゲームであるということを強く自覚したような枠組を持っている。「憑依」の超常的設定もさることながら、手続きの複雑さそれ自体がゲームの複雑さとして立ち現われている。例えば『臭作』では盗撮のゲーム性が存在していた。これはアダルトゲーム一般がHシーン=イベントシーンの収集を表面的には目的としたメディアであることを取り込んだ設定である。この方向性を『絶望』も完全に背負っており、例えばパンチラ写真を収集したり、凌辱場面をビデオカメラで撮影したりというような演出がある。しかし、むしろそれをよりラディカルに表現している場面がある。思い出して頂きたいが冒頭で本作は「監禁凌辱」ゲームだと言った。『絶望』を象徴するのはまさに通常ゲーム時に何度も眺めることとなる監禁部屋で、攻略=監禁凌辱に成功したヒロインはみなそこに格納され、しかも成功するたびにその部屋に増えていくのだ。28人いるということは、まさに一カットに過ぎない監禁部屋の背景に、28人ものヒロインが敷き詰められるということを意味している。もはや写真ではなく人間そのものが収集の対象となってしまっているということだ。
これは、実はイベントシーンの収集がプレイヤーレベルで考えれば目的なのだから、ゲーム内で写真を収集することはそれの隠喩となっているので批評的だ、というようなある意味で穿った見方を経由した後に見れば、むしろまっとうな展開に見える。監禁凌辱を謳っているのだから、まさにそれをその通りにしただけだ。ゲームをプレイしてみれば、それが「憑依」とそれによる極めて細かい戦略抜きにはありえないことはすぐに分かる。しかし、重要なのは、「憑依」なしでそれをしてしまった場合、それはまさに自分がフィクションであることに安住した素朴な暴力表現であるということだ。この点は「憑依」設定こそないものの前作となる『悪夢』も協調しているところで、こちらの場合は、まだ存命中の紳一が、余命僅かの人生を儚んで「人生最後のゲーム」を実行しようとしたことから監禁凌辱が始まった。もちろん、不治の病に侵されていればかようなことをしていいことにはならないが、この背景設定そのものがプレイヤーの主体をフィクションに馴染ませるための一種の装置として機能しているのである。
文=村上裕一
11.08.13更新 |
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