Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第六章 ノベルゲームにとって進化とは何か【4】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
以上のファンディスクが大好評を博したことからも明らかな通り、かようなスピンオフ的展開は多くのファンに求められていたものだった。しかし、これは必ずしも自明な事態ではない。本編が魅力的な内容であるのだから、必然的な流れとして正統な続編を求める流れが強くなることは十分ありえたし、ファンディスクが受けるにしたって、それはあくまでも番外編としての代物なのだから、それに話題や客足が集中するというのも妙といえば妙である。なぜこういう事態に至ったのだろうか。
もちろん、『月姫』が口コミ中心で人気を博したため、結果的に完結から半年後となる『歌月十夜』の頒布において、ようやくファンの反応が追いついたのだと分析することは妥当だろう。だが、この見方においては、内容などどうでもよかったと考えることになってしまう。
しかし、筆者の見立てでは、このようなお祭り的な内容が求められていたのはほとんど間違いがないのである(※98)。例えば、初期のファンサイトである「げいむ乱舞界」などを見てみると(※99)、なぜか『雫』の登場人物と『月姫』の琥珀が対話する形で『月姫』の感想が展開されている。
この簡単な事実はあまりにも多くのことを示唆している。前回、筆者は『痕』や『To Heart』と比較する形で『月姫』について考えたが、それは何も筆者に独特の発想ではなく、むしろ2000年当時においてはオーソドックスな考え方だったということだ。さらにポイントは、ファンレベルにおいては何の気の衒いもなく、ある種のクロスオーバーが成立していた部分があるということだ。
もちろん、さすがにこれらの作品どころかメーカーも異なるようなキャラたちが、何の疑問もなく同じ世界観に現われ交流するような作品が市場を席巻した、とまで言うつもりはない。しかし、そういう作品がなかったわけではないし、作品に現われないようなファンの思考のレベルでは、これらのジャンルが並べて比較されるような形で認識されていたことは間違いない。たとえば、2ちゃんねるのエロゲー板では、Keyのファンが暴れまくったことが原因で隔離が行なわれ、まきぞえを食う形でLeafも放逐され、Leaf・key板(葉鍵板)が誕生していた。そしてこの時期、『月姫』などの台頭によって急激に存在感を示し始めていたTYPE-MOONは、LeafやKeyと並べられて「葉鍵月」などと称されることが増えていったのである。
同傾向の事例として、「洗脳探偵翡翠」のことも忘れられないだろう。これは、『月姫』の初期版において非常に誤植が多く、その誤植が「お部屋をお連れします」などあまりにも独創的だったために、逆説的な反響を呼んでしまったことから生まれたキャラクター造形である。少し抽象的な言い方をすれば、オフィシャルがある種の二次創作性を取り込んだということである。と同時に、そのように読みたくて仕方がなかった消費者の性向があったことも、十分に伺い知れる話でもあろう。
このような想像力は、それ自体がお祭り的である。さらにいわば、『月姫』人気の勃興は「的」ですらないお祭りそのものだったはずだ(※100)。
だとすれば、内容はこの運動と無関係だったのだろうか。確かに、偶然が幾重にも噛みあった形でムーブメントが生じたことは否定できないだろう。しかし、だからといって『月姫』以外の何でもよかったのかと言えば、そんなことはありえまい。たとえば、先に公開されていた小説「空の境界式」はその時点ではさしたる反響を読んでいなかったし、今や天下を取ったコンテンツである東方projectも、今にいわゆる旧作という形で作品を世に出していたが、まだブームの兆しすらも見せていなかった。そういう、何が受けて何が受けていないかの凹凸も含めて時代性の問題だということができるが、そうはいってももう少し内容上の傾向を見るに越したことはないだろう。
実際、プレイヤーが何らかのお祭りを求めたくなるだろう強い要因が作品に内在している。それは、『月姫』本編の圧倒的なシリアスさである。しかも、これは単にシリアスなのではなく、背徳的・反社会的な要素を多分に含んだ深刻さだ。
たとえば、それは主人公である遠野志貴の造形ひとつ取ってみてもそうだ。モノが壊れやすい線が見えるようになったということは説明した。しかし、それは単なる特殊能力ではない。必ずしもその能力が原因というわけでもないのだが、彼の人格はその能力に対応するかのような破綻を秘めている。いわゆる反転衝動である。
反転衝動とは、文字どおり性格が切り替わることを意味する。その実態はほとんど殺人衝動である。彼は冒頭でアルクェイド・ブリュンスタッドを十七つに切り刻んで殺した。物語の先行きを知るものであれば、彼女が吸血鬼の真祖と呼ばれる極めて貴重で強力な存在であることが思い出されるだろう。だから、モノを殺すという理不尽な力で殺されたのも、そもそも彼女が特別な存在であったゆえのことなのだ、と考えるかもしれない。しかし、彼の殺人衝動はそんな選り好みをしない。たとえば、彼は同級生だった弓塚さつきをその手にかけている。
もちろん事情がなかったわけではない。弓塚さつきは吸血鬼に襲われてしまい、すでに人間ではなく吸血鬼と成り果てていた。そして、志貴の首に噛みつき、彼を自分と同族にしようとした。さつきの正体が吸血鬼であると知った瞬間、彼の理性はなりを潜め、一瞬でさつきの心臓をナイフで串刺しにし、彼女の息の根を止めてしまう。この描写は本当に一瞬である。戦闘などというにはあまりにも淡白すぎる。もちろん、相手はもはや人外なのだから、殺す以外の選択肢はなかったかもしれない。それにしたって、自分に好意を寄せていて、自分としても好意を抱いている相手に対しての行動ではないだろう。しかし、それは仕方のないことである。反転衝動とはそのようなものだ。
このような凄絶さは、もちろんさつきに限ったことではない。というよりも、ルートの担当として存在するあらゆるヒロインにおいて反復される事態だと言うべきだろう。
しかし、さつきを取り上げることでプレイヤーの欲望が分かりやすくなる。彼女は同級生として登場しながら、突然行方不明になり、吸血鬼化し、その割にさして大きな尺を与えられることもなく、前述したような顛末を辿った。彼女は「さっちん」と呼ばれ非常にコアな人気を博し、ぜひ彼女のルートを追加してほしいと様々な場所でファンから嘆願されること数多であった。結局それはかなわなかったのだが(※101)、二次創作のお祭り的空間であれば、ファンが自由な立場でその無念を晴らすことができる。『月姫』がそういう衝動を強く刺激していたのは間違いない(※102)。
文=村上裕一
※98 そもそも『歌月十夜』は「お祭りディスク」という触れ込みで頒布された。
※99 http://ranbukai.xgn.jp/tukihime.htm このサイトはトップページに飾られている武内崇氏謹製の翡翠・琥珀イラストからも伺えるように、初期のTYPE-MOONファンサイトでは代表的な役割を担っていた。実際、武内・奈須両氏のインタビューが掲載されていたり、このサイトのチャットに武内氏が来訪していたログが保管されていたりなど、当時のメッカ感が今でも伺える。
※100 このようなお祭りを実際に遂行した例として年一回のキャラクター人気投票がある。総得票数の推移は、第一回が266、第二回が1347、第三回が5294、第四回が28521、そして続きとなる『Fate/stay night』人気投票第一回が32600以上と、人気の拡大の仕方が視覚的に分かるようになっている。
※101 『月箱』所収の『月姫 PLUS+DISC』にはさつきの新しい設定画が収録されている。
※102 東浩紀が『美少女ゲームの臨界点』で『AIR』について、二次創作によって観鈴を救うことができるという解釈を提示していたことを思いだせば、同じことが『月姫』においても起きていたと推測するのは自然ではないだろうか。両作品は、2000年という時代を共有していた。
関連リンク
TYPE-MOON Official Web Site
http://www.typemoon.com/
12.03.04更新 |
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