Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第六章 ノベルゲームにとって進化とは何か【3】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
事故をきっかけに志貴は親戚の家へ預けられる。物語の実質的な始まりは、ちょうどそれから八年後のことだ。実家の父が死んだことにより、志貴の元へ本家に戻ってくるようにとの連絡が入る。その知らせを受け入れて家に戻ってみると、妹である秋葉が党首として振る舞い、わずか二人のメイド、琥珀と翡翠だけで家が切り盛りされていた。
実家での新しい生活が始まった矢先、志貴は偶然道で見かけた女性に強烈な殺意を抱く。理由も根拠もないはずの殺意なのだが、それに従って女性をストーキングし、彼は「直死の魔眼」の力によって彼女をバラバラに斬殺してしまう。ところが、殺されたはずの彼女――アルクェイドがまるで何もなかったかのように現れる。実は彼女は非常に強大な力を持つ吸血鬼だったのだ。自分を殺害した罪滅しとして、アルクェイドは志貴に、街で殺人事件を起こしている別な吸血鬼退治を手伝うことを要求する……。以上が共通ルート付近までのあらましである。
この内容は、笠井潔や上遠野浩平に強い影響を受けた、王道の伝奇作品、ないしは異能バトルものである。したがって、それ自体としては純粋に新しいわけではないのだが、にもかかわらず本作が大きな反響を呼んだことには、『月姫』が18禁のノベルゲームとして発表されたことが重要な意味を持っていたように感じられてならない。
どういうことか。この作品は必ずしも恋愛(だけ)をテーマにした美少女ゲームではない。むしろ吸血鬼との戦いや自分を追い出した旧家との因縁こそが本質的な問題である。ところが、そういうテーマを展開する際に、必ず誰かしらのヒロインの物語である、という形式を取るのである。
これは『To Heart』によって基礎づけられた例の美少女ゲームの原形式である。『月姫』もまたこの形式の中で物語を展開している。しかし、『To Heart』と『月姫』が同じような作品であると感じるものはいないだろう(※96)。前者はあくまでもコミュニケーションを描いているが、後者は明らかにお話を語っているからだ。
とはいえ、『月姫』は明らかに『To Heart』の遺産を受け継いでいるところがある。それは、『痕』を比較対象にすることでかなり分かりやすくなる。
周知の通り『痕』とは『To Heart』の前作に当たるノベルゲームだ。内容は恋愛というよりも、温泉街を舞台にして鬼と呼ばれる存在とのバトルを描く、まさに伝奇ものである。この点で『痕』と『月姫』を同じようなカテゴリーとして考える流れは当時からあった。実際、双方とも『To Heart』的なシステムに則っているため、かなりの共通性がある。
しかし、重要なのは共通性よりも差異である。『月姫』の『痕』に対する差異こそが、『To Heart』を引き継いだある種の成果として存在しているのだ。
具体的に見てみよう。『痕』では四人姉妹がヒロインとして登場する。一応、長姉がメインシナリオと言うべき内容になっているが、その他のヒロインの物語が事件の舞台裏や鬼の正体を解明するものとして機能しており、分岐を制覇することによって、立体的な視座で『痕』という一つの世界観を把握することができる。
これに対して『To Heart』は、選んだヒロインによって物語のジャンルが変わるような体験を提供していた。もちろん、学園と恋愛というあまりにも普遍的で強固なルールが存在しており、その意味ではこれも一つの世界観しかないのだが、その世界観の質が――鬼の伝説が残る温泉街といったシチュエーションに比べれば――遥かに透明なので、結果的に個別のシナリオがジャンル的な色彩を表現している。
『月姫』は、ある意味でこの二者の特徴を併せ持ったものと考えるべきかもしれない。物語は、先に説明したような経過の後、大きく二つの方向性に分裂する。一つが吸血鬼編だとすれば、もう一つは遠野家編である。前者にはアルクェイドとシエルというヒロインが所属し、西洋的な世界観の中で吸血鬼との戦いが描かれる。後者には秋葉、翡翠、琥珀という遠野家ゆかりのヒロインが所属する。こちらも吸血鬼との戦いではあるのだが、もっと志貴の実存と出自に関わる形で物語が進行する。
これが何を意味しているのかというと、『月姫』には、多様性があるにもかかわらず骨太な物語性があるということである。
確かに『痕』には濃厚な物語性がある。しかし、言ってみればこれは焦点が一つしかない物語である。様々なルートは存在するが、入り口が違うだけで出口は共通といっても過言ではない。従って、非常に閉鎖的な物語だと言わなければならないだろう。
他方で『To Heart』は物語性が希薄である。どれだけマルチのシナリオが感動的であったとしても、それは他のルートに対しては無関係な物語でしかない。もっと分かりやすく言えば、現在のゲームではお馴染みのグランドルートやトゥルーエンドが存在しないということに、それは分かりやすく象徴されている。しかし、それとバーターに、『痕』ではできなかったような多様性を実現している。
『月姫』はちょうどその中間に存在している。つまり、多様な世界観というものを表現できているのである。それはまさに虚淵玄が「おもちゃ箱」と呼んだような多様さである。
この多様さは、今となっては一つの巨大な世界観として認識することができる。それこそ、あたかも『痕』的なものが単純に巨大化したように、だ。実際、シナリオライターである奈須きのこが、極めて多様性のある伝奇世界観を構築していることは、今となってはよく知られている。単純に、彼の世界観が後のあらゆる作品にシェアード・ワールド的に採用されているからだ。
しかし、奈須きのこの出世作が、ノベルゲームの『月姫』ではあっても、小説の『空の境界』ではなかったことには、やはり大きな意味を感じざるを得ない(※97)。
というのは、ヒロインごとにルートを配置するという体験は、やはりゲームにしかできないものだからだ。一本道の『空の境界』においては、その伝奇世界観の深みは感じても、多様性というところにまでは至らない。しかし『月姫』には、ルートを分断されたシナリオが多角的に世界観を再照射するからこその広がりがあった。
それを為さしめた手法はある意味画期的である。既に述べた通りであるが、『月姫』は作中で二つの世界観を表現するために、それぞれに複数のヒロインを宛てがっている。そのことによって、それぞれの物語潮流に、決して個別シナリオでは覆い尽くせないような広がりと深みが生じているのである。つまり、二人以上のヒロインによって支えれば、単なる閉鎖的なコミュニケーションの経験ではなく、ルートを物語として成立させることができることを示している点で、『月姫』は画期的だった。
文=村上裕一
※95 壊すではなく、殺すである。モノの壊れやすい線または点というものは、ありとあらゆるものの死が具象化された姿とのこと。
※96 両作品とも、後の作品に大きな影響を与えたという点では共通的だが。
※97 『空の境界』の初出は1998年であり、奈須きのこ作品としてはもっとも早い。しかし、この作品が伝説の作品として神格化され、商業出版物として上下巻百万部以上の売上を記録するのは、『月姫』『Fate/stay night』によって評価が確立しきった、2004年のことである。
関連リンク
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http://www.typemoon.com/
12.02.26更新 |
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