Criticism series by Murakami Yuichi;Philosophy of "bishojo" game
連載「美少女ゲームの哲学」
第三章 探偵小説的磁場【6】様々なメディアミックスによってコンテンツが生まれている昨今、改めて注目されている作品たちがある。美少女ゲーム。識者によってすでに臨界点さえ指摘された、かつて可能性に満ちていた旧態のメディア作品。だがそうした認識は変わらないままなのか。傍流による結実がなければ光は当たらないのか。そもそも我々は美少女ゲームをどれほど理解しているのか――。巨大な風景の歴史と可能性をいま一度検証する、村上裕一氏の批評シリーズ連載。
このオイディプス神話の構造はフロイト創始の精神分析において重要視されており、それはエディプス・コンプレックスとして広く知られている。それは、生まれた男児が父を憎み母を奪い取ろうとする無意識の運動を説明する概念とされている。フロイトの理論を推し進めたラカン派精神分析においてはこのような父の機能はよりはっきりと取り出され、いわゆる「死んだ父」「父のノン」(ノン=名=否)として、精神構造を支える役割を与えられている。
父探しの物語である『YU-NO』においても「死んだ父」が重要な役割を果たしていることはすでに自明だろう。しかしそこには、オイディプス構造との微妙な差異が存在している。というのも、別段たくや自身は父の妻を奪おうとはしていないからだ。そして、父に誘われた多次元的な旅は、むしろ「死んだ母」のもたらしたRデバイスによって可能になっていることを鑑みれば、むしろたくやが突き動かされている衝動は「死んだ親」に由来していると言えるだろう。
このような差異は単発のものではない。『YU-NO』ではまるで差異を構造化するような動きが見られる。その一つのあらわれが父の後妻である亜由美の存在だ。彼女は攻略対象である。むろん血縁もなければ出産経験もないわけだが、しかし「母」という属性を与えられているだけあってその後も彼女は特殊な役割を強いられる。それがデラ=グラントにおける「神帝」化だ。現存在(ハイデガー)に対して強力な権威となるのが「死んだ父」だとすれば、「神帝」とは世界に対して直接的な権力を発揮する「生きた母」である。亜由美は様々な事情から世界を救うためにこの役割に追いやられてしまうわけだが、この枠組は歪んでいる。生けるものが行使できる力には限界があるのだ。実際、確認したように、彼女は最終局面で龍蔵寺によって殺害される。この死には二つの意味がある。一つは、生きながらにして権威を発揮したものに対する帳尻合わせとしての遅れてきた死、もう一つは、生きながらにして権力を発揮しようとしたものに対するその限界としての死、である。
亜由美は重要な役割を果たしていたが、その役割は常に代補的なものだった。たくやの父にとっては妻の代わりであり、たくやにとっては母の代わりであり、そしてデラ=グラントにとっては巫女の代わりである。なぜ、このような役割が求められてしまったのか。
そこにはもう一つの要素、『YU-NO』のウロボロス的な構造が絡んでいる。ウロボロスとは周知の通り古代ギリシアなどに遡る「尾を飲み込む蛇」のモチーフで、永遠や円環構造の象徴として扱われている。『YU-NO』のウロボロス的な点についてはすでに見てきたはずだ。たくやを次元の旅に誘った要素の一つであるユーノの存在自体が、そもそもこれからたくやが生むはずの子供であるということ、そして、その契機となるはずのデラ=グラントへ行くための条件である個別ルートの制覇に、これまたもう一人これからたくやが生み出すはずの娘である神奈の存在が不可欠だということだ。
とりわけ典型的かつ重要なのは神奈の位置づけである。というのも彼女は個別ルートのヒロインとして登場する人物なのだ。従ってルートの解決とは彼女の攻略を意味するわけだが、それはとりもなおさずたくやが神奈と性交渉を持つことを意味している。これは、ウロボロス的であると同時に(逆)オイディプス的な状況である。というのも、たくやからしてみれば、この交渉は事象を先取りした――というよりも端的に存在しえない――出来事であるし、神奈からしてみれば母の夫を奪う行為なのだからこれ自体がオイディプス的である。問題は二つのことが重なりあっているということだ。ここには二重化された例外状態がある(※45)。
このような二重化が示すことは、本作が、現代編と異世界編、現実とデラ=グラント、ないしは個別ルートとグランドルートというような二項対立的な枠組みには収まらないという可能性である。というのも、もしも物語がそのようなものであるとしたら、まずもって、ユーノや神無といったメタレベルの存在が登場しない世界が描かれなければならないはずだからだ。それは単なる「お約束」に留まる話ではない。結末から振り返ってみれば明らかだが、いかにA.D.M.Sによってマッピングされているとはいえ、現実が量子的に確率分岐しているのだと突きつけられている以上、もはやこの現実は確かな足場を持ったものとしては存在していない。他方、制作の都合があるとはいえ、A.D.M.Sが存在しないデラ=グラントは逆説的に確かな足場を持った世界として存在しているように見える。
この現実の確かさを支えているのはもはやたくやというひとつの主観に他ならない。それはちょうど『Steins;Gate』におけるリーディング・シュタイナーのようなものだろう。ところが、この作品が「秋葉原」という現実の土地の記憶によって強力かつ聖地巡礼的に支えられているのに比べれば、大陸そのものの移動が生じる『YU-NO』は(もちろん名を持った街を舞台としてはいるが)脆弱である。
このようなあやふやさは、「高次元」と呼ばれる領域の出現によって強力に裏付けられる。単に現実編が不安定だっただけに留まらず、デラ=グラントという大陸すらも大なり小なり上位の世界によって観測されていたのだ。そして「思念体」によって物語がかき乱されたことを考えれば、むしろ「高次元」の圧倒的な影響力こそが窺い知れるだろう。
しかし、「高次元」とは何なのだろうか。それは事象の根源に近しい領域であり、別の作品を引き合いに出せば、『空の境界』における「根源の渦」とほとんど同じようなものだろう。それは存在の源のような領域である(※46)。
こうしてみると、最終的に出会い直したたくやとユーノが事象の根源へと向かっていったことは象徴的だろう。それは割りきった言い方をすれば、あたかも、生まれる前に戻ろうとしているかのようである(※46)。だが、なぜそのようなことが必要だったのだろうか。例えば、たくやの父と母が死後の世界=高次元で再会するためにあえて死を選び、その結果なるほど事象の狭間でなかよく二人で存在しているということは示唆されている。これを下敷きにすれば、たくやとユーノという不可能なはずのカップリングが、それでもなお成立させるための方法だったようにも思えてくる。だが、それだけの話なのだろうか。
そうではない。というのも、たくやの父と母の関係は死を起点にしているがゆえにスタティックであるのに対して、たくやとユーノの関係は生成的だからだ。彼らの物語こそが『YU-NO』の中で描かれたのであり、強いて言えば、彼らはこれから出会わなければならないのである。ところがその出会いには無数の時空と因果にまつわるねじれが取り巻いている。それらを全て織り込んで出会うためにはどうすればいいか。――始まりに還るしかない。それは、様々な因果をゼロに戻す所作である同時に、逆説的な受精と誕生への経路となっているのではないだろうか。少なくとも、その逆行には、光り輝く希望が込められていたはずである。
文=村上裕一
※45 筆者はこのような多重例外状態がもたらすゴースト的な効果について論じたことがある。『ゴーストの条件』(講談社、2011)第一部 appendix1「イヴの時間」の論考を参照されたい。
※46 無理やり図式に当てはめるなら、オイディプス的に展開する個別ルートはラカンにおける象徴界の物語、デラ=グラントは想像界の物語、そして高次元へと至る結末は現実界の物語だと考えられるかもしれない。
※47 これに対して筆者は「受胎の記憶」(『BLACK PAST』シャドウクラスタ、2011)で、『魔法少女まどか☆マギカ』をゲーム的リアリズムの典型的な枠組であり、それは受精を目的とした物語なのだという議論を行なったことがある。
関連リンク
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http://www.elf-game.co.jp/
11.10.15更新 |
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