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New Style Heian Erotical Mandara [Kouchu no hitoya]
艶めかしき人外の化生に魅せられた侍が堕ちていく魔的なエクスタシーの奈落――。今昔物語の一編を題材にとり、深き闇の中で紡がれる妖と美の競演を描くニュースタイル・平安エロティカル曼荼羅。期待の新人作家・上諏訪カヤハと絵師・大往生ジダラクのカップリングで贈る会心のアブノーマル・ノベル!!
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【1】食べる女今は昔、というばかりで、実際にはいつのことか知れないが、ある初夏の夕暮れのことである。侍がひとり、京の町をとぼとぼと歩いていた。
年の頃は三十を過ぎるか過ぎないかといったところで、すらりと背が高く、全身はしなやかな筋肉で包まれている。髪が赤茶けて見えるのは西日に照らされてのことだろうか。髪だけでなく目も同じように爛々と赤茶けて映える様子は、闊達な獣を彷彿とさせたが、それは実際馬や鹿や、あるいは人でさえあちこちを自由に駆け回る東国の出の雇われ侍だったせいもあるかもしれない。何にしろ、精悍な印象を人に持たせる男ではあった。
……なのだが、どうにも歩き方がいけなかった。胸を張って堂々たる歩を進めていれば、先ほどからすれ違う壺装束や、物売り女などが振り返りそうなものなのだが、猫背で脚を引きずっている姿に目を奪われる女はいない。それに加え、傾きゆく橙色の日差しが、夕霞を透かして、みじめたらしく男の影を映して路上に伸ばすものだから、いっそう哀れな風情に見えてしまう。その姿はさながら、路頭に迷う野良犬といったところだった。
しかし、じつは野良犬という表現はあながち間違ってはいない。男はつい先ほど、小路で鉢合わせた、貴族の牛車を曳く牛飼童に、野良犬のようにしたたかに痛めつけられたばかりだった。
つい四半刻ほど前のことである。向こうから八葉の車がしずしずとやってくるのを見た男は、他の通行人たちと一緒に道の端にかしこまったのだが、車が行き過ぎるとき、水干小袴姿の牛飼童の持つ鞭が男の頬を擦った。牛飼童のほうにしてみれば、やろうとしてやったわけではなかった。だが、そうではないにしても一言何か声を掛けるようなことがあってもいいはずだと、男は目をちょっと上げて牛飼童のほうを見上げた。牛飼童はそれを不遜と受け取ったらしい。「無礼な!」と喚くや否や、鞭で男の頬を今度はわざと打った。
名には童とついても、牛飼童には成人した者たちも多い。男が相対したのもそうだった。鞭の衝撃は思ったよりも強く男の頬を見舞った。男はほとんど反射的に牛飼童に反撃しようとしたが、しかし、すぐに冷静になった。八葉の模様は大八葉、つまり殿上人の料で、男が楯突くことを許されるような相手ではなかった。打ち掛かりなどしたらどんな罪を負わされることになるかわからない。
男が耐えていると牛飼童は調子に乗ったのか、今度は彼の腰と肩を立て続けに打った。もしも車中の人者が物見の窓から、牛が進まないことに苛ついた声で、
「そんな野良犬にいつまで関わっているつもりか」
と止めなければ、牛飼童はさらにもう何発か男を打っていただろう。牛飼童はいまいましげにぺっと唾を吐きかけると、男に与えた鞭を牛に当てながら去っていった。
悔しさに震わせる肩で、男は遠ざかっていく牛車の轍の音と、周囲の人々が漏らす哀れみのささめき合いを聞いていた。やがて人々はその場から散っていったが、男はしばらくその場から歩き出すことができなかった。屈辱と、ぶつける先のない疑問とが足を地面に縫いつけていた。
――いったい俺が何をしたというのだ。
が、そんな煮え切らなさを口の中で呟いてみても、胸が晴れるわけでもない。それどころか、自分の卑小さをさらに身に染みて感じさせられるばかりだった。結局、生まれの違いという壁は越えられない。あきらめるしかないのだ。
男はふらふらと歩き始めたが、むしゃくしゃして、まっすぐに彼の主の屋敷に帰る気にはなれなかった。主の使いで出てきたのだが、用はもう終わらせたので急ぐ必要はない。何だったら、これから夜通しばくちを打ったり、酒を飲んだりしたっていいのだ。
――まぁ、少し歩きながら考えるか。
小路から大路へ、大路からまた小路へと、男はうつろな歩を進めた。
それからいったいどのぐらいの時間が経ったのか……男はふと肌寒さを感じて我に返った。顔を上げると、前に続く棟々の影が暮色にすっかり色を翳らせている。日中は風に夏の気配が混じり始めたとはいえ、日が落ちてしまえばまだまだ寒さが肌を撫でる時期だった。男はぶるっと一度身震いをした。
いつの間にこんなに時間が過ぎていたのだろう。考えごとをしていたわけでもないのに気がつかなかった。まるで歩きながら眠っていたかのようだ。しかしとにかく、この頃の京といったら、日が落ちれば、夜盗は出る、追剥は出る、野犬は出る、物の怪や鬼は出る。だから暗くならないうちに一刻も早く主の屋敷に戻ったほうがいいのだが、男はな、何となくお足をそちらへ向けられずにいた。
と、そのときのことだ。通り過ぎようとした建物の垣の中から、「ちゃっ、ちゃっ」という、鼠か何かの鳴き声のような音が聞こえた。男はふと足を止めた。空耳かとも疑ったが、耳を澄ますと音は確かにしていた。
男は何ともいたたまれなくなった。何だか、鼠が情けない自分を見て小馬鹿にしているような気がした。たかが鼠の鳴き声でも、こういう状況ではまるで嘲笑されているかのような気分になった。男はみじめさ半分、怒り半分を胸に、鼠を握り殺してやろうとその棟のほうに向き直った。
すると垣の向こうの建物の屋内に、小さな火がぼんやりと灯っているのが目に入った。
――……何だ?
灯の横には女が座っているようだった。その脇には、簾ごしではっきりとした姿かたちはよくわからなかったが、よく見ると男を手招きしていた。男は手の動きに誘われるまま、垣根を乗り越えて建物に近づいた。。
「何か、ご用で?」
男が半蔀ごしに外から尋ねると、女は部屋の中に淀む薄闇をゆるゆるとかき混ぜるような、どこか舌ったらずな口調で、
「そこの戸は閉まっているように見えますが、押せば開きます。まずは、こちらにいらっしゃっていただけなくて?」
と答えた。
――なるほど、そういうことか。
男は、一瞬、躊躇(ためら)いはしたが、すぐに状況を理解した。要するに誘われているのだ。町の女が女のほうから男を誘うことは、よくあることではないにしろ驚くようなことでもなかった。男は脇に回り、言われたように戸を押して中に踏み入った。
素性も知れない女の誘いかけに乗るなど、いつものこの男であればおそらくはしなかった、というか、たじろいでしまってできなかった行為だった。今までもこんなふうに水を向けられたことがなかったわけではないが、以前一度ならず何度も訛りをひどく馬鹿にされたことがあるせいで、特に京の女を前にすると、いつも今ひとつ強く出ていけないのである。しかし、先ほどのこともあって捨て鉢になっていた今日は、妙な勇気が体にみなぎっていた。
「戸を閉めて、お入りくださいな。そしたら、こちらの簾の中に」
いきなり簾の内とはこれはまた大胆なと感心も呆れもしながらも簾を掲げると、女は小ぶりだが古く品のいい調度品が並べられた中に座っていた。年は二十歳ぐらいだろうか。燈台の光がつややかで重たげな黒髪に反射して、今にもそこからしたたり落ちそうになっている。その髪から垣間見える顔は横顔といえども十分に美しかったが、それがこちらを向いて微笑したのを見ると、男はこれまでの愁いがいちどきに吹き飛んだような気さえした。まなざしの奥に切り入ってくるような、冷たく白い、完璧といっていい美貌だった。
女は口に何かを含んで、ときどきゆっくりと噛んでいた。女の口調が舌ったらずだったのはこのせいだったのかもしれない。見ると、女の前には李子(すもも)の実と、それを食べ終わった後の種が、無造作に盆に載せられて置かれていた。
「お座りになって」
女は噛んでいたものを飲み込むと、男にかたわらの円座を示した。男は女が何か言い出すものかと待っていたが、しかし女のほうはそんな様子もない。盆の上の李子に手を伸ばし、そのまま口に運んでかぶりつく。くすんだ金色の果肉が唇と歯の隙間から覗いた。
二人はしばらく黙ったままでいた。しんしんと静かな中に、女が李子を噛む音だけが染み入るように響く。男は居心地の悪さを感じ始めて自分から何か話しかけようとしたが、女にはどこか、こちらが切り出すのを牽制するような雰囲気があった。
そうなると男は女が李子食べている様をじっと見ているしかなくなったが、さすがにそのうち何かおかしいと感じ始めた。
――ひょっとして、からかわれたのかも……。
男は途端に馬鹿馬鹿しくなって、何とかして退出の糸口を掴もうかと考えを巡らせた。呼んでおいた癖になかなか話し出さないのだから、悪いのは女のほうである。いきなり突然立ち上がってぷいと出ていったとしても男には罪も落ち度もないはずなのだが、そうもできないのがこの男というものだった。
すると女は突然、何を思ったのか口を大きく開けた。そうして口の中を見せつけるように、「ちゃっ、ちゃっ」と音を立てながら李子を噛みだした。
男は驚いて座ったまま後ずさった。それは先ほど路上で耳にした鼠の鳴き声のような音に相違なかった。しかしまさか、こんなふうにして出していた音だったとは、思いも寄らなかった。
決して品がいいと呼べる行為ではない。男は目を逸らし、女を、特に女の口の中を正面から見ないようにした。
だが、どういうわけだろう。目を逸らしていると逆に、どうにも口中の様子が気になって仕方がなくなってくる。汚い、とは思う。だが、珍しいものを見たいという好奇心が、男の感情の最深部にあって普段は絶対に触れたり触れられたりすることのない、何か黒々としている部分を刺激した。
これまでの人生で、年若くしかも美しい女が、こんなふうに口を大きく開けてものを食べる姿を見たりすることなどあっただろうか。そしてこれからもこんな状況に出会うなどということは、ありえるだろうか。そう考えると、汚いとか下品だとかいうありふれた感情に感じ慣れているからという理由で流されて、このようなもの珍しい機を逃してしまうのは何だかもったいないような気もする。
いや、そんな理屈などは二の次でいい。どんな理由があろうとも、美しい女の口の中が今どうなっているのか、ちらりとでも見てみたいと思う自分は間違いなくここにいるのである。
汚いからこそ、普通は目を背けるようなものだからこそ、見る価値があるのだ。そして、そういうことを目も覚めるような美人がするというのに、またどうしようもなく惹きつけられる。
男の中では、女が咀嚼をすることを汚いと感じる感覚は、押し寄せる好奇心の勢力のもと力を失いつつあった。男はついに我慢できなくなり、ついにちらりと女の口の中を覗き見た。そこでは、今にもどろりと溶けだしそうな口腔の濃桃色の粘膜に抱かれるようにして、すっかり元の形を失って唾液と混ざり合い、半液体となった透明な金の李子の果肉が、揺らめく灯の光をきらきら反射させていた。
男は眩暈を覚えた。美と、汚いと感じるものが混ざり合ったそこには、生々しくも妙なる生の匂いが濃く強く漂っていて、それが男の神経を麻痺させた。
目の前の女が立てている「ちゃっ、ちゃっ」という咀嚼の音がどこか暗く深いところから響いてきて、自分をそこに誘(いざな)おうとしている。その音にしつこく耳を舐められているうちに、男の箍(たが)は、ついに、外れた。
男はもう憑かれたようになって、白い歯が整然と並び、粘膜と果肉と唾液でぬらぬらした口腔に見入った。じっと見ていると、まるで自分自身が女が噛んでいる李子そのものであるかのような錯覚に陥ってきた。
(続く)
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10.07.08更新 |
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口中の獄
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