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【2】噛んで含めて

こんな状況に興奮してしまう自分はもしかしたらとてつもなく卑しく、おかしいのではないかと、置き去りにされ、急速にしおれてゆく理性が最後の力を振り絞って騒ぎ立てる。しかし今やもう、男にとってはそれは耳障りな雑音にしかならなかった。

背後でジュッという音がした。振り返ると、燈台の炎に飛び込んだ羽虫が燃え尽きて、床に燃え滓を散らしながら落ちたところだった。男は「ちっ」と小さく舌打ちをした。たとえほんの少しでも女から目を離してしまったことを、たまらなく勿体なく感じた。男は慌てて視線を戻した。

しかし女は、その時にはもう口を動かしてはいなかった。文字通り何食わぬ顔して、薄氷のような冷たい、美しい微笑をたたえているばかりだった。一瞬の隙に李子を飲み込んでしまったのだろうか。男は余所(よそ)見をしている隙に突然おもちゃを取り上げられてしまった子供のような顔をして、その口元をじっと見た。隙間なく塗りこめられた紅にはわずかな剥げ落ちすらなく、先ほどまで咀嚼していたのは幻だったのでないかという気さえしてきた。

やがて女は、

「今日はもう遅うございますから……お泊りになってゆかれますか」

と、やっと口をきいた。その声には、見下す立場にいる者特有の哀れみの色がうっすらと滲んでいた。

格子の外を見ると、表はいつの間にかすっかり薄墨を流し込んだような靄(もや)っぽい初夏の闇に包まれていた。人や車の通る音も、もはや時々遠くからひっそりと聞こえてくるばかりだ。二人が並んで座っているこの部屋は、燈台の小さな火に照らされて、その中にぽっかりと心もとなげに浮き上がっているようだった。

「あぁ、うん……」

まるで夢から突然呼び覚まされたように、出しているのか出していないのか覚束ない声を男は喉元から絞り出した。女は黙って立ち上がると、奥の遣戸を開け、中の闇へと消えていった。衣ずれの音がするすると遠ざかっていく。

一人とり残された男はようやく少し冷静さを取り戻し、今、自分が置かれた状況について考えてみた。不可解なところはあるが、何の前ぶれもなくそうそう見かけられそうもない美貌の女に一晩を共にする水を向けられたのだ。今夜ここで眠っていたら示し合わせた盗賊に襲われるとか、いざ女に手を出してみたら美人局だったとかいうこともありえないことではないだろう。逃げるなら今だと思う反面、これから何が起こるのか楽しみな気もする。

男は逃げなかった場合、自分が女と行なうであろうことを想像した。緑がかって艶めいていた黒髪が白い肢体に絡みつく様子を描き、それから、その髪に指を絡めながら、もう片方の手で女のなよやかな腰を抱き寄せる様を続けて想った。

しかし、男はどうしても、そこから先へと想像を進めていくことはできなかった。想像したくないと思っているわけでは、決してない。なのに何度挑戦しようとしても、途中でどうしても、先ほど李子を食べていた姿のほうが目の前にちらついて、艶めいた姿をみるみるうちに覆い隠してしまう。

男はこれまでずっと自分のすぐ背後にありながらもまったく気がつかずにいた大きな穴に引き込まれそうになっているように感じた。そこに引き込まれてしまったら、いったいどうなってしまうのだろう。しかしそう感じれば感じるほど、不思議に五感はより鋭敏になっていくような気がした。

やがて衣ずれの音が戻ってきた。そしてその音に少し遅れて、女がぬっと白い顔を出した。

「狭苦しいところではございますが」

女は今来たほうを指した。

「お休みの場所をご用意致しました」



男は眠る女の隣で口を閉ざし、困ったように向こう側の壁を睨みつけていた。

確かに、女は「よかった」。吸い付くような肌も、具合も反応も、今まで男が抱いてきた女の中でも屈指だった。しかし男は物足りなかった。最中どころか直後にすら、脳裏に絶えずちらついていたのは、やはり、李子を咀嚼している姿のほうだった。包み隠さずにいっていいのなら、本当は目の前の女の生身によってではなく、咀嚼の姿を思い描いたことで、射精に至った。 

男は寝返りをうって女の顔を見た。薄い目蓋は鈴蘭の花のつぼみのようにしっかりと閉じられ、今にも何か語りかけてきそうにうっすらと開いた唇からはかすかな寝息が漏れている。男はおもむろに、女の唇に人差し指をあてた。蚕を思わせるような柔らかさのそこは、つい先ほど十二分に味わい尽くしたばかりのはずだった。

――あんな悦びなど、俺は別にほしくはなかった。この奥が、俺は見たい。

指で唇に触れていると、素直にそう思えてきた。そんなものを欲するのはよくないのだと思い、ほかのことに意識を向けようとしても、やはりそこに辿り着いてしまう。

自分がおかしいのではないかと懸念すればするほど、心中は見たくないものを突きつけようとするかのように、独白をさらに促した。

――いや、本当は奥を見るというだけでは足りない。俺はこの女が、この唇の奥に並ぶ歯で物を食い、それが唾液と汚らしく混じり合い、ついにはどろどろと喉に流れ込んでゆくところをこそ、見たいのだ。

男は唇を少しだけこじ開けて、指を中に押し入れようとした。硬い歯に阻まれて、ほんの入り口の部分にしか入れることはできなかったが、それでも心のざわつきは多少おさまった。

――咀嚼しているところを見られるのなら、食われるのは俺のこの指でも構わない。この女の歯で粉々に噛み砕かれるのであれば、俺はきっとどんな痛みでも我慢することができるだろう。……いや、むしろ俺はいっそ自分自身が咀嚼されるものとなって、この女の口の中に飛び込みたいとまで思っていやしないか。

男は指の先で女の前歯を撫でた。こんなふうにとりとめのない思考をしていると、今までいたところよりもさらに数段深いところにまで落ちていってしまいそうな気がして怖い。だが一方で、深さなどはそれほど問題にはならないようにも思えた。たぶん深さの問題なのではなく、それがあるか、ないかなのだ。

眠っていたと思っていた女の目がふいにぱちりと開いた。男は驚いて指を引っ込めようとしたが、女はそれよりも一瞬早く、男の指にがぶりと噛みついた。

「痛っ!」

男は小さな悲鳴をあげて指を離そうとした。しかしそれはあくまでも肉体の反射に過ぎなかった。確かに痛いことは痛かったけれど、同時に脳天まで駆け上(のぼ)った甘い痺れが、その痛みを何かしらじらしい、他人行儀な感覚にしてしまった。

指を噛まれたまま、或いは噛んだままで、二人はしばらくまんじりともせずに見つめ合った。指先から血がじわりと滲み出し、女の唇から頬を伝って枕に落ちていく。男の口から痛みに耐える低い呻きが漏れ出た。だが、男はもう無理に指を引き抜こうとはしなかった。彼の股間はその時、先ほどの情交の時とは比べものにならないほど屹立していた。女の口中に己の一部があるという実感を呼び起こすのに、平素であれば耐え切れないほどの痛みもまた一役買っていた。

(続く)

上諏訪カヤハ フェティシズムと日本史と妖怪・人外と幻想文学をこよなく愛しすぎて、 全部足さずにはいられなくなった水瓶座・A型。 好きな歴史上の人物は世阿弥。
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大往生ジダラク 2010年より少しずつ活動開始した新米絵描きです。1988年生まれ。和モノ怪奇モノ大好物です、座右の銘は【いやらしければなんでもいいわ!】です、宜しくお願いいたします。
大往生ジダラク公式サイト=「大往生のジダラク生活」
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10.07.15更新 | WEBスナイパー  >  口中の獄
文=上諏訪純 | 絵=常春 |