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今回の講義はケツとはやや無関係に感じられるかもしれませんが、それは誤りです。古来より「漆」は、日本人の報復する場面において、重要な役割を果たしてきました。もちろんケッツにも漆の効用は応用できます。従って、勉強しても損なしなのです......。先々講で、江戸時代の東海道箱根の関所での大名家女子の身体検査の厳しさについて説明しましたが、袖の下の気配りをせぬ大名家に対する遣り手婆のイビリは、その道のベテラン中のベテランのやることですから、それはもう底意地の悪さと冷酷さでは、随分と洗練された方法が採られたであろうことが推測されます。
検査自体、指や手でオメコとケッツの穴とを深々と奥までこね廻され、器具や異物を入れて拡げられ、散々に屈辱的な目に遭わされるという地獄図なのですが、軽く見られたという婆達の怒りは、それで収まるとは思えません。
かの『忠臣蔵』の例でも分かりますように、きっと手練れた陰湿な技巧が駆使されたことでしょう。
先日、NHK教育テレビで、大名加賀の国前田家を例に採り、江戸時代の参勤交代の話をしていましたが、大名の参勤交代では、家の格式や、江戸との遠近により各々差はありますが、一回につき、現代の通貨にして、億単位の金が必要であったとのことです。
そのような大行列ですから、列中に加わる女性の数も少なくはありません。
これら多数の女性をなるべく短時間に手際良く検査し、場合によっては報復を加えるのですから、経験から編み出した、効果的な方法が用いられたことでしょう。
第二課 御土産
袖の下(御祝儀・心付け)が少ないから、或いはないからといって、そう何時までも行列を止めてはおけません。
婆達は、オメコやケッツの穴を散々いじくり廻した後、そこへ御土産を付けたでしょう。なるべく苦痛が長引くように......。
私の今住む所の近くに、鈴鹿市白子町という所があります。ここは江戸時代、紀州徳川家の領地で、代官所のあった所で、今も収紋なと和服の染めの型紙を彫る技術が盛んな所です。
その型彫り職人の話です。人間国宝(正式名称は国指定重要無形文化財技術保持者という)であった人達(今は故人)から聞いたのです。
型彫り職人は型彫りに漆を使いますので、漆に慣れています。彼らが青年時代め明治末から大正の頃、遊廊へ行き、一晩遊ぶのに、相手の女性(遊女)の対応が悪い時は、自分の手の指に詰めていった漆を、女郎のオメコに塗って帰るのだそうです。
漆を塗られたオメコは、その時はどうもありませんが、翌日になると、熟れた柿のようになって、熱を帯びて、真っ赤に腫れ上がって、痒くて痒くて耐えられなくなるので、それが治まって完治するまでの数日は、商売が出来なくなり、オメコを掻きながら転げ廻ることになるし、もしそんなオメコの女と交合したら、そのひどい気触れがチンボにも感染して、チンボが鱈子のような色になって腫れ上がるのです。
漆のアレルギーは物凄く、普通の人は漆の木や葉に触れただけでも腫れてきて、熱を持ち、痒くて耐えられなくなりますが、体質によっては、木のそばを通っただけでも気触れるという怖いものです。
だが漆には免疫性があり、体質的に初めから全然平気な人も稀にはいますし、普通の人でも、職業として漆を扱っていると、段々平気になってきて、気触れを起こさなくなるものなのです。
このような漆を、一番敏感でデリケエトな粘膜であるオメコやチンボの亀に塗ったら、どんなことになるかは明らかなことです。勿論オメコの隣のケッツの穴もその中にある直腸も、オメコと全く同条件です。そんな所へそんな物を一寸だけでも塗られたらもう取り返しは付きません。
翌日眼を覚ましたら、股間がカッカと脈打って、蚊百万匹に刺されたみたいになっているのです。痒いといってそこを掻いた手の爪で触られたら、その人の肌(粘膜でなくても)にも直ぐ飛び火して感染するのです。
このようにして次々と人に移ってゆくので、これは大変、誰からもらったかは全く不明で何人もの犠牲者が出ます(翌朝から発症するので、誰にやられたか、ほとんど分かりません)。
漆は古墳時代の発掘品の中からも、生活用具や武器に使われていたことが知られ、船舶の板の防水用にも当時使われており、古くから日本人に親しまれてきた物で、型彫り職人達は江戸時代からの代々の同職の先輩達に教えられてこうした女郎への報復をしたのです。
(続く)
12.11.21更新 |
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