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前講で教えしたように我が国では人間をケッツから串刺しにしたのは織田信長と千姫のみです。前者は処刑法の一つとして用いたのですが、後者は自らが至高の快楽を得るためだったのです。しかし、快楽に貪欲な海外では千姫のような例がいくらでもあることを付け加えておきましょう。日本でのお尻の穴からの串刺しの例として、織田信長による処刑法と、徳川千姫のことを先講で述べましたが、千姫の場合については、説明不足ですので、ここでお話しします(本講は目下、睾丸の偉力について説いている途中ですので、少し脇道に逸れますが、お許しあれ)。
江戸時代の初め、江戸車では「吉田通れば二階から招く......」と謡われ、それは晩年の千姫の隠居所を吉田御殿といったことからで、それは千姫の荒淫さを謡ったものです。つまり、吉田御殿の前の通りを(若い男が)通ると、御殿の二階の窓から、あの千姫が、「おいで、おいで......」をする、ということです。
千姫は徳川家康の孫で、豊臣秀頼の妻になった人ですが、大坂夏の陣で豊臣方敗北の時、夫の秀頼やその母淀の方と共に大坂城の天守閣で自害しようとしたのです。
それを見た寄せ手の総大将徳川家康は、可愛い孫千姫を助けるために「誰か、千姫を助け出せ、見事助けたらその者に千を与えるぞ」と叫んだのです。その声に勇猛突進して猛火に崩れ落ちる天主閣から、千姫を救出した男が、坂崎出羽守でありました。
ところが出羽守は猛火の中を潜ったので、火傷により顔が化け物のようになってしまい、それを嫌った千姫は、坂崎にではなく、美男子として噂の高かった、伊勢桑名城主本多氏に嫁したのです。
だが最愛の夫秀頼と死別し、異常な体験を潜ってきた千姫の精神は、それに耐えられなかったのでしょう、本多氏との結婚生活もすぐに破綻して、隠居生活に入るのです。
吉田御殿での千姫の生活は、荒淫・淫乱の極みを尽くしたもので、道行く男の中からこれはと思う者を御殿内に誘い込んで、昼も夜も淫乱の限りを尽くす奉仕をさせ、男が吸い尽くされて絶命すると、裏庭の深井戸の中に投げ棄て、次の男を誘い込み、又吸い尽くすということの繰り返しで、それで吉田御殿に呼ばれて入った男は次々と姿を消してしまい、誰一人生きて出てくる者がいないということで、このように謡われるようになったのです。
講談では、親孝行者の小間物行商の青年がこうして姿を消したのを、その弟(まだ子供)の頼みにより、魚屋の一心太助がひと肌脱いで、旗本大久保彦左衛門と共に、吉田御殿の怪奇を暴くという筋になっています。
(続く)
13.03.06更新 |
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