The ABLIFE April 2013
アブノーマルな性を生きる全ての人へ
縄を通して人を知り、快楽を与えることで喜びを得る緊縛人生。その遊行と思索の記録がゆるやかに伝える、人の性の奥深さと持つべき畏怖。男と女の様々な相を見続けてきた証人が、最期に語ろうとする「猥褻」の妙とは――
美濃村晃の獅子奮迅の働きぶりを
後世に残したいと思い、
その時代の「奇譚クラブ」に密着しながら
私は三百枚近い原稿を書いた。
世間にどう思われようと、
どうしても残しておきたい気持ちが、
私の中にあったのである。
後世に残したいと思い、
その時代の「奇譚クラブ」に密着しながら
私は三百枚近い原稿を書いた。
世間にどう思われようと、
どうしても残しておきたい気持ちが、
私の中にあったのである。
いま私が書きつづけている未発表の文章の中に「美濃村晃物語」(仮題)というのがある。
現在までに四百字詰め原稿紙で二百九十三枚書いた。まだ終わってない。この倍は書かなければならない。言ってみれば、私のライフワークである。
美濃村晃は日本で最初のアブノーマル性愛専門誌を創り、その後各出版社から発行された、いわゆる「SM雑誌」に力を注いだ人物である。
正確に言えば「SM雑誌」の編集作業の根幹にいて、重要な仕事をした人である。
美濃村晃が太平洋戦争に引っ張られ、生き残って故郷へもどってきた昭和二十二年(一九四七年)二十五歳のときから、この物語ははじまる。そしていま、彼の足跡をたどって昭和二十五年までを書いた。
三年間の月日を経て、美濃村晃は「奇譚クラブ」というそれまで通俗エロを売りにしていた雑誌の内容に、アブノーマルの匂いを染みこませることに成功するのである。
このときの美濃村晃の獅子奮迅の働きぶりを後世に残したいと思い、その時代の「奇譚クラブ」に密着しながら私は三百枚近い原稿を書いた。
それが後世に伝えておかなければならないほどの値打ちのあるのかどうか、私にはわからない。
ただ世間にどう思われようと、どうしても残しておきたい気持ちが、私の中にあったのである。
きわめてノーマルなエロ雑誌の中身を、すこしずつ目立たないように、気づかれないように「変態性欲専門誌」に変えていく課程のこまかいテクニックのあれこれを、私は美濃村晃の口から何度も繰り返して聞かされていた。
それは一つの新しい文化を切り拓いていく人間の、途方もない知恵と生命の躍動感があり、私にはたまらなくおもしろいものだった。
これは書きのこしておかねばならない、と私は美濃村晃から話を聞くたびに思った。
二年前に、某出版社からの依頼があり、私は「時こそきたれり」といった思いで「美濃村晃物語」を書く気持ちになった。このときすでに美濃村晃はこの世にいなかった。
私はまず、昭和二十年代つまり敗戦直後の「奇譚クラブ」を手もとに揃えねばならなかった。
が、いまから約七十年前、爆撃されたあとの「闇市」に出回っていた、ふけば飛ぶようなカストリ雑誌である。現物を集めるだけでも困難な作業だったが、飯田橋の風俗資料館の中原館長の並みならぬご好意とご尽力によって、奇跡的に目の前に並べることができた。表紙がとれてないもの、表紙も目次も半分破れているものもあるが、もっとも重要な前半を書くことができた。
私は中原館長がある飯田橋のほうに足を向けて寝られない(と書いてから気になったので都内の地図をひろげて確かめてみた。な、な、なんと、私の寝ているベッドの足の方角に飯田橋の風俗資料館がぴったり位置しているのだ。これにはぴっくりしたなあ。私は毎日毎晩、中原館長に足を向けて眠っているのだ)。
「美濃村晃物語」のその前半には、彼が「奇譚クラブ」に描いたイラスト、マンガ、カットの類を百数十点も掲載する予定であり、それらの図判だけでも値打ちがある。
ところが、この出版の話は、いつのまにか立ち消えになってしまった。
私に「美濃村晃物語」を書くように熱心にすすめたその出版社の担当者が、その後編集部を退き(定年退職だったらしい)、せっかくの企画も中止になっていたのだ。
その担当者のあとを引き継ぐ人間がいなかったのであろう。一般世間から忌み嫌われる反社会的な暗いイメージを主題にしたものは、しばしばこういう扱いを受ける。一編集者の個人的な好みだけでは、いまは出版までには至らない。変態性愛ものが嫌われ、敬遠されるのは、これまでの経験で私はいやというほど知っている。
なので、さほど気落ちすることもなく、私はその後もすこしずつ原稿を書きすすめている。いつかは、どこかで陽の目をみることがあるだろうと思っていた。
自分でいうのもなんだが内容はおもしろく、しかも美濃村晃の初期のイラストが、数多く併載されている。好きな人が見たら、たまらないほど魅力のある一冊になること、請け合いである。
と、いつごろからか、K君という青年が、私のそばに現われ、話しかけてきた。
K君との最初の出会いは、やはり風俗資料館の中でだったと思う。「裏窓」に執筆していた作家の消息を知りたい、ということだった。知っている限り、私は答えた。が、おどろくベきことに、彼のほうがくわしく知っていた。
ここから先の過程は、飛ばして書こう。
私への接し方は、K青年はまじめであり、熱心であった。風俗資料館以外のところでも、私がその催しの場所を伝えると、誠実に、正確にほとんど来てくれるようになった。
会費を二万円も三万円も必要とする特殊な集まりにも来てくれ、私がモデル女性を相手に緊縛芸を演ずるのを、後ろのほうから目玉を丸くして見ていた。
そういうとき、彼は沈黙を守り、よけいなことは一切聞かなかった。
私が濡木痴夢男ではなく、他の名前で出演する舞台にも、知らせれば毎回来てくれた。
はじめのうちは東京近県の郵便局でアルバイトをしていると言っていたK君が、いつのまにか東京の、しかも神田に社屋を持つ出版社の編集者として私の前に現われたのは、あれはいつのことだったろう。
私が四十年もむかしに「裏窓」や「サスペンス・マガジン」に書いた小説を、単行本にして出したい、と彼は言った。
そんな古いものより、新しく書いたものがあるよ、と私は言った。そして「美濃村晃物語」の原稿二百八十五枚を渡し、
「目を通してみてください」
と言った。その前に私は彼から、彼の勤務する出版社から出された立派な装丁の単行本を十数冊頂戴している。
数日後、「美濃村晃物語」は当社で刊行させて頂くことに決まりました」という報告がきた。私は感謝した。
そこからまた、この話は派生して、思いがけない方向にすすんだ。
K青年が勤務するR出版社から「出版人に聞く」という単行本のシリーズが発行されている。そのシリーズの中の一冊に登場して頂けませんか、という話になった。
既刊が九冊あるうちの二冊を送って頂いた。地味だが堅実な内容の立派な本である。私には出版人としての自覚は小指の先ほどもない。
「安い給料で雇われて娯楽雑誌の編集をしていた時期はありましたが、私には出版人としての自覚なんてありません。出版人どころか、実績も力もないきわめて非力な編集者でした」
と言って、はじめのうち私は辞退したが、R出版社の社長も、「出版人に聞く」シリーズの担当編集者も、その気になっている、とK青年は言った。
(そうか、この前渡した原稿には、敗戦直後の混乱期に、街に氾濫したエロ風俗雑誌の運営や内情、当時の世相などが、かなりこまかく書いてある。あの時代のカストリ雑誌のことが聞きたいのだったら、私でも多少の役に立つかもしれない)
と私は思った。R出版社側では、さらに私のインターネットにおけるホームページ「おしゃべり芝居」も読んでくれ、これも本にまとめてくれる気配を示している。
これらの計画が、予定だけで、実現せずに終わったとしても、私にはありがたいことである。計画も予定も立てられないようなしろものだったら、私は生きていても仕方がない。
これを機に、私自身のこれまでの年譜、あるいは年表のようなものを作ってみようか、という気になった。
その年表は、これから書く「美濃村晃物語」の後半の話に、そのまま役立つことになる。美濃村晃が「奇譚クラブ」をすてて、関西から東京へ出てきて「裏窓」を創り上げる時代になると、いやでも応でも、私つまり濡木痴夢男が密接にからんでくるのである。
近いうちに私はR出版社へ行き、そこでまずR出版社の社長に会い、「出版人に聞く」シリーズを担当される方からのインタビューを受け、そしてK青年を交えての三人からの質問に応答することになる。
はたしい一冊の本にまとめるほどの内容のある返答が私にできるものかどうか、いまの段階ではまったくわからない。
私のおしゃべりが本にするほどの内容もねうちもなくても、相手をしてくれる三人を笑わせることはできる。
そう、なにしろ私の血の半分は芸人なのだから。
(続く)
『濡木痴夢男の秘蔵緊縛コレクション1「悲願」(不二企画)』
『濡木痴夢男の秘蔵緊縛コレクション2「熱祷」(不二企画)』
関連リンク
緊美研.com
濡木痴夢男のおしゃべり芝居
風俗資料館