The ABLIFE May 2013
アブノーマルな性を生きる全ての人へ
縄を通して人を知り、快楽を与えることで喜びを得る緊縛人生。その遊行と思索の記録がゆるやかに伝える、人の性の奥深さと持つべき畏怖。男と女の様々な相を見続けてきた証人が、最期に語ろうとする「猥褻」の妙とは――
気になった。
木村荘八とくれば永井荷風の『濹東綺譚』であり
「このみちぬけられます」であり「玉の井」であり、
浅草で生まれ育った私のテリトリーである。
絵ハガキに書かれてあった番号に、
私は電話をしてみた。
木村荘八とくれば永井荷風の『濹東綺譚』であり
「このみちぬけられます」であり「玉の井」であり、
浅草で生まれ育った私のテリトリーである。
絵ハガキに書かれてあった番号に、
私は電話をしてみた。
木村荘八が浅草酉の市のにぎわいを描いた絵ハガキが、突然送られてきた。私への文面は当然、手書きである。
「濡木先生、ごぶさたです。泉川さやかです。木村荘八の展覧会を見に行き、このポストカードを買いました。何年か前、吉原のソープの中のスタジオで撮影したあと、先生と一緒に浅草の酉の市へ行ったことを、なつかしく思い出しました」
とあり、末尾にケータイ番号らしい数字が小さく書き添えてある。
泉川さやかというモデルも、一緒に酉の市へ行ったことも忘れている。しかし、吉原のソープの店の中で「SMビデオ」の撮影をしたことだけは覚えている。
ソープ街の北のはずれの竜泉の一葉記念館近くに、すでに廃業した店の内部を借りて、三、四回撮影した記憶がある。
味気ないマンションスタジオと違い、和風の小さな床の間つきの座敷や、廊下や、庭や、池や朱塗りの橋などもあって、むかしの情緒らしいものがわずかに残っており、そんなところを選んで撮影した。
だが、撮影後に、そのときのモデルと一緒に鷺神社へ行ったことなどあっただろうか。
気になった。木村荘八とくれば永井荷風の『濹東綺譚』であり「このみちぬけられます」であり「玉の井」であり、浅草で生まれ育った私のテリトリーである。
絵ハガキに書かれてあった番号に、私は電話をしてみた。夜十時をすぎていた。
すぐに出た。当然女の声である。
「あ、センセ、さやかです。絵ハガキついたのね」
私はやや警戒しながらかけたのだが、気楽な声が返ってきた。
「いましゃべっても大丈夫なの? そこ、どこ?」
と私は聞いた。
「いま私、雅叙園にいるのよ」
雅叙園といえば、目黒のホテルである。
「おいおい、それじゃそばにだれかいるんだろう、電話なんかしてたらまずいだろう」
「さっきまで仕事だったのよ。もう終わったわ。いまは私一人。今夜はこのままま私一人だけツインの部屋に泊まって、あしたの朝出るの。スカイツリーを見てから前橋に帰るわ」
「ああ、そうか、なるほど」
前橋からさらに電車に乗る町に住んでいて、仕事のときだけ東京に出てくるモデルがいたのを思い出した。
数年前のAV全盛期には、地方に住んでいるそういうモデルが、私の知っているだけでも四、五人いた。原宿とか渋谷に遊びにきていてスカウトされるのである。泉川さやかもそんな女の子の一人だったのだろう。だが私には記憶がない。
何かしゃべっているうちに思い出すだろうかと思って、会話をつづけた。
「いまのおれの住所、だれに聞いた?」
「監督のKさんよ。きょうもk監督の仕事だったの」
「ああ、そうか」
私が役者として芝居をやるときなど、K監督はいつも観にきてくれる。そういう仲だ。
「ベッドが一つあいてんのよ。飲みにこない?」
と、さやかは言ったが、今の私の住所から目黒までは、いささか遠い。東京を北から南へ縦断する形になる。
「行きたいんだけど、きょうはおれのほうも撮影でいま帰ってきたところなんだ。またべつの日に会おうよ」
きょうは俺のほうも撮影だった、というのは、ウソである。きょうは外へ出たくないだけである。
吉原ソープ街の廃屋で撮影したのが七年前だとすると、さやかという女もそれだけ年をとっているはずだ。よく仕事があるな、と思ってそのことを聞くと、熟女ブームがまだつづいているので、出演依頼かボチボチくるという。
主演はもうやらせてもらえないけど、選り好みさえしなければサブの仕事が結構あるという。ギャラはうんと安くなったけど、撮影現場の雰囲気が好きなのでつづけているという。
「でもね、私、結婚して娘が一人いるのよ。だから主婦のアルバイトのつもりでAVやってるの」
甘ったるい色気のあるいい声で、しあわせそうにさやかはしゃべった。
「ほう、旦那はそのこと知ってるの?」
と聞くと、知っているという。AVに出演たギャラは、娘の養育費として貯金しているとのこと。いい母親だ。
そんなことを三十分ほど語り合ってから電話を切った。一緒に仕事をしたのはどうやら確からしいが、さやかという女の顔とか特徴は、とうとう思い出せなかった。
二日かせいぜい三日撮りの映像の現場で、私は五千回も仕事をしているのだ。よほどのことがないかぎり出演者一人一人の記憶はない。浅草の酉の市は毎年欠かさず行ってるけど、撮影後にモデルと一緒に参詣したおぼえはない。私以外のスタッフのだれかと行ったことを、彼女がかんちがいしているのかもしれない。
電話を切るとすぐに私は、ベッドの枕もとの本棚へと手をのばし、中央公論社刊の『日本の文学』(1965)から、永井荷風の一冊を取り出した。
この文学全集の『濹東綺譚』には、木村荘八の挿絵が四十点も載っているのだ。『濹東綺譚』の文章の数行を読み、情緒てんめんたる線描のイラストを眺めていると、荷風の世界にたちまち全身が沈みこんでいく。
甘くあたたかい感傷の身に包まれ、揺られながら、骨も肉もとろけていくような気分になった。
知らない女と三十分間浮き浮きとしゃべって気持ちよく疲れ、私も年をとったな、と思った。
二、三年前だったら、記憶もさだかでないモデルの誘いにのって、深夜近い時刻に目黒までのこのこでかけていく自分の姿を、この「快楽遺書」に、さぞかし自慢げに書いたことであろう。
木村荘八描く「酉の市」の絵ハガキを送ってくれた顔も名前も忘れてしまったモデルに会いに、タクシーを走らせ、女と朝まですごしたことを書くだろう。
たとえ行かなくても、行ったことにして書くだろう。「濡木痴夢男の猥褻快楽遺書」らしく精いっぱい虚勢を張って、いかにも親密な時をすごしたように、おもしろおかしく書いたであろう。
だが、もう書けない。
なにしろ、八十三歳である。
たとえフィクションとしても、女とのことを書くには、並ならぬ気力と体力を必要とするのだ。フィクションというのは、体力勝負だ。
その体力が、もうない。なにしろ八十三である。なさけないが、実際にやったことしか書けない。実際には、もうろくなことしかできない。
などといくじのないことを書いていたら、八十歳の三浦雄一郎が、エベレスト(八、八四八メートル)の登頂を達成したというニュース。
フーン、えらいもんだなあ。
やっぱり私も、夜十一時をすぎていようが、ベッドにもぐりこんでいようが、誘われたらすぐに女のところへ飛んでいくべきだろうか。そして、無事に登頂したあとで、
「がんばりました。でも、これ以上ないほど疲れている」
なんて言ってみようか。
(続く)
『濡木痴夢男の秘蔵緊縛コレクション1「悲願」(不二企画)』
『濡木痴夢男の秘蔵緊縛コレクション2「熱祷」(不二企画)』
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