The ABLIFE July 2013
アブノーマルな性を生きる全ての人へ
縄を通して人を知り、快楽を与えることで喜びを得る緊縛人生。その遊行と思索の記録がゆるやかに伝える、人の性の奥深さと持つべき畏怖。男と女の様々な相を見続けてきた証人が、最期に語ろうとする「猥褻」の妙とは――
私は若くて美しい彼女に、
こんな卑猥なことをさせるのは、
とってもずうずうしい、悪いことだと心底思っている。
これはいけない行為である。
だから、フェラしてもらうときは、
いつも申しわけない、すまないという気持ちにでいっぱいである。
こんな卑猥なことをさせるのは、
とってもずうずうしい、悪いことだと心底思っている。
これはいけない行為である。
だから、フェラしてもらうときは、
いつも申しわけない、すまないという気持ちにでいっぱいである。
私が所属している劇団の、ベテラン女優であるB子と、けいこの後の生ビールを飲みながら、Y談を楽しんでいた。
「そんなこと言ったって、Tさん、かんじんのものが、いうことをきかないでしょう」
バカにしたようにB子が言う。
Tさんというのは、私の本名である。
B子は飲むとひたすら陽気になる、いい酒飲みである。底ぬけに明るい。
「おいおい、おれの正体を知らねぇな」
と、私は言う。
B子かなり酔っている。私はアルコール類はほとんど飲まないので酔ってない。
酒は苦手でも、こうこう飲み会に誘われれば、三度に一度は顔を出す。同じ劇団にいる者としてのつきあいである。B子のほかにいつも十人前後の劇団の者が同座している。
私が濡木痴夢男であることを、B子は知らない。この劇団の者たちに、そういうことは一切しゃべっていない。しゃべる必要がないのでしゃべらない。
「Tさんて、ほかでどんな悪いことをしてるのか、ぜんぜん知らないわ、教えてよ」
と言われても教えない。
教えても理解してもらえるようなことではない。
内緒にしていたのに勝手にさぐりあて、ゲスな好奇心をむきだしにして、あちこちにふれ回る人がいて、イヤな思いをしてきている。
ゲスな好奇心というのは、
「マゾ女ってのは男が好きでたまらず、だれとでも寝る女だろ、おれにも一人紹介してくれよ」
などと言って私にまとわりつく男である。
口には出さなくても、そういう意識をもって私に接近してくる男がいるのだ。
「おれは悪いことなんかしてないよ。もう八十三歳だよ。悪いことをしようと思っても、B子さんが言うとおり、体がいうことをきかないよ」
と、私は笑いながらB子に言う。B子もゲラゲラ笑いながら納得する。
だが、じつは、昨夜も落花さんと会っていた。
足立区を西から東へ走るJRの、某駅前にあるイトーヨーカ堂の裏通りに、ひっそりとたたずむラブホに、彼女といた。
私と彼女のセックスには、いつの間にかできあがっている段取りというものがある。段取りというのは、手順のことだ。その手順は、知り合った六年前のときから、ほとんど変わっていない。
数日前、必要があって「濡木痴夢男のおしゃべり芝居」の初期のころの文章を読み返してみた。そこには私と落花さんがこういう関係になった当時の、ラブホにおける段取りが、こまかく書かれている。
いまと変わってないなあ、と思った。変わってないというのは、この場合、いいことなのだろう。私と彼女の間の感情の交流が、以前のままであり、つまり新鮮味が持続しているということだ。
二人だけの密室に入ると、私はまず縄を一本取り出して、着衣のままの落花さんを後ろ手に縛る。
この段階で彼女は全身の力をぬき、半分失神状態になって、その場に横たわってしまうのだ。海老のように全身を縮める。私は彼女の上半身を抱いてすこしキスをする。ときにはつよく彼女の唇を吸う。
彼女は私に縛られると、なぜ早急に失神状態になってしまうのか。私のかける縄による快感がつよいせいなのか、とはじめはそう思った。
いや、いまでもそう思っている。そう思うより仕方がない。
仕事とはいえ過去に五千人以上の女に縄をかけてきたが、落花さんのような反応ははじめてであった。いや。はじめてではなく、数人はいた。たとえば、広咲千絵がそうであった。
だが、広咲千絵は職業モデルであり、カメラマンがカメラをむけてポーズを指示すれば、やがて失神状態からぬけだした。そういう女が四、五人はいたように思う。常識的に考えれば、モデルとはいえ、縄に対する感受性のつよい女なのであろう。
落花さんはモデルではないので、いつまでたってもカメラマンの職業的な声はかからない。カメラマンはいない。いるのは私だけである。私は写真を撮らない。
落花さんのこういう失神状態は、私が彼女の縄を解くまでつづく。つまり、縛られている間じゅう失神している。
私は彼女の着ているものをすこしずつぬがしていく。縄がかかっている周囲だけは残して、あとはショーツまでぬがしてしまう。彼女のお尻の形は、だれよりも美しい。
そんなときの私の声は彼女の耳にきこえているというから、完全に意識を失っているというわけではない。
私のおしゃべりはきこえているのだが、縛られている快感のために体がいうことをきかない、という彼女の風情である。
私の縄による快感がつよいために神経が麻痺して、体が動かなくなくなってしまう、ということなのかもしれない。そうだとすれば、私は得意になって、自分の縄のテクニックの威力を誇れるのだ。
が、じつはそうではなく、縛られたとたんに彼女は自分だけの物語世界の中に閉じこもり、男つまり私の存在なんか必要でなくなるということなのかもしれない。
つまり彼女の意識は、自分の快楽的な妄想の世界だけになってしまうのだ。縛り係の役目を終えた濡木痴夢男は、もう邪魔な余計者でしかない。
私は半分失神している彼女をそのままにして、浴室へいく。湯槽を充たす。裸になって風呂に入る。
ボディソープをぬりたくって股間をよく洗う。腰にタオルを巻いて、彼女のところへもどる。そして自分のしなびた股間のものを、彼女の唇の前へ接近させる。
ここではっきり、彼女が私を嫌っていないことがわかる。彼女は素直に、じつに素直に、口をひらいて、私のものを受け入れてくれるのだ。失神していると思っていたのに、彼女は舌を動かして、いじらしいほど一生けんめいに、私のものをしゃぶってくれるのだ。
私は快感をおぼえる前に、感動してしまう。三十歳前の美しい女が、八十三歳の男の死にかけているような股間のものを、いやがりもせずにしゃぶってくれるという行為に感動してしまう。
私は若くて美しい彼女に、こんな卑猥なことをさせるのは、とってもずうずうしい、悪いことだと心底思っている。これはいけない行為である。だから、フェラしてもらうときは、いつも申しわけない、すまないという気持ちにでいっぱいである。とっても臆病になる。自信たっぷりに、堂々と彼女の口をひらかせ、おのれのものをしゃぶらせたことなど一度もない。
ありがたいことだと思っている。自分はなんという果報者だろうと思っている。感謝している。
そして私は勃起するのだ。もはや力強い勃起ではないが、女性器の中へ挿入できるほどの硬直度はある。だが、私も彼女も、その種のノーマルなセックスは好まない。
私はやがて勃起したものを彼女の口からぬく。射精はしない。射精したくとも、体内にはもう精液がない。
射精はしなくても、しかし快感はある。しなびた八十三歳のものを若い美女の口の中で柔軟にしごいてもらって快感がない、などといったら罰があたる。
セックスしたいという充実感も、満足感もある。
いつでも私に縛られてくれる彼女。いつでも私のものをしゃぶつてくれる彼女。しかし股間にひそむ女性器そのものに触れられることは忌避し、嫌悪する彼女。
私が変態であるのと同じ位に、彼女もまた変態なのであろうか。だからこそ私たちの関係は、つねに新鮮で永続きするのだろうか。
このことについて、いつかは話し合ってみようかと思っているが、いや、べつに改まって話すことはないか、と思ったりもする。このままでつづけられたら、こんなしあわせなことはないではないか。
私が射精しなくとも、彼女の性器に直接的な刺激は何も与えられなくても、一刻の時間をすごしてラブホを出るとき、私も彼女もいつも上機嫌で、親密感を増しているのである。
世間に隠しておこなっている私のこういう「悪いこと」は、だれに言ったところで信じてもらえないだろう。
一緒に芝居をやっている仲間たちに言ったところで、だれもわかってくれない。だから言う必要はない。
本当は、ここに書く必要もないのだが......。でもまあ、広い世の中には、こういう人間もいるのですよ。
(続く)
『濡木痴夢男の秘蔵緊縛コレクション1「悲願」(不二企画)』
『濡木痴夢男の秘蔵緊縛コレクション2「熱祷」(不二企画)』
関連リンク
緊美研.com
濡木痴夢男のおしゃべり芝居
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