WEB SNIPER Cinema Review!!
第68回カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作品
1914年、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所。同胞のユダヤ人をガス室に送り込む任務に就く「ゾンダーコマンド」のサウル(ルーリグ・ゲーザ)は、息子と思しき少年を見つけると、その遺体をユダヤ教の教義に則って正しく埋葬するべく収容所内を奔走する――。ハンガリーの新鋭ネメシュ・ラースロー監督の衝撃的なデビュー作品。新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかで絶賛公開中
映画が始まると、まずカメラが異常に寄りのままであることに気づく。スクリーンの大部分がルーリグ・ゲーザ演じる無表情な主人公、サウルの顔で埋まり、彼の動きとともにカメラも移動する。サウルは一刻の猶予もなく何かの作業をしていて、やがてそれが「ゾンダーコマンド」任務であることがわかってくる。強制収容所に移送されてきたユダヤ人をシャワー室に誘導し、脱がされた服を素早く回収し、死体を回収し、シャワー室を掃除し、死体を焼却する。彼ら自身も証拠隠滅のため、4ヶ月ごとに抹殺されるという、実在した特殊部隊だ。
カメラがサウルと距離を取らない時間が長く、見える範囲が狭い。それが収容所の息苦しさを強める。背景や、手元、画面の隅でさりげなく見せたいものを見せてくるのは、ホラー映画の「モンスター」の登場のさせ方と同じかもしれない。画面の隅に映る異形のものに主人公が気づかず、観客だけが気づく恐怖。本作では逆に、あきらかにその場にいる全員から許容されている風景が、観客にだけ異常に映るのが怖い。床はいつも濡れている。サウルの後ろでピンボケしぼんやりとした色の塊が、まるで市場のマグロのように、首に縄をかけられてひきづられていく。
全ての作業が終わればすぐに、次の移送者がやってくる。また部屋に並べられ、服はハンガーにかけられ、「まずシャワーだ」とアナウンスがあり、全裸で「ガス室」に追い立てられていく。ガヤガヤという話し声。扉が閉まる。しばらくして怒号、激しく、大量の人間がパニックになり、扉を叩く音。そしてピンボケの死体。床を毎回モップがけする、血が洗い流される。見ていて、ハーバード大学の人類学者が複数の小型カメラ(GoPro)で遠洋漁業の船を撮影した『リヴァイアサン』(ルーシァン・キャステーヌ=テイラー、ヴェレナ・パラヴェル監督)というドキュメンタリーを思い出した。あちらも常にピンボケで、何が映っているのかよくわからず、肉が巨大な生き物によって屠殺、加工されていく気配が続く。この映画では、人間がナチスと収容所によって殺害されていく。殺人工場という狂気を知識ではなく、肉体で感じさせる。
ある時サウルが死体を運び出しに中に入ると、子供がまだ絶命せずにあえいでいる。その子はしばらくして息をひきとるのだが、そのときから彼はこの子供に異常に執着をみせ始める。それはサウルの息子だった。彼は「この子供をラビの祈祷と一緒にきちんと埋葬したい」という強迫観念をもち、そのためのありとあらゆる工作を始める。そのせいで、収容所の何人かはまきぞえになって殺され、さらに密かに計画されていた脱走計画にも暗雲がたちこめる。サウルがほとんどしゃべらない、必要最低限のこともしゃべらないので、事態がよくわからず、彼にだんだん感情移入できなくなっていく。
主人公はなんで、そんなに宗教的に正しく埋葬することにこだわるのか。「自分流の埋葬」でいいじゃないかと思う。その子供がすでに死んでいるという事実が、こだわりの「宗教的に正しく」という部分を浮きだたせる。そのせいでまだ生きている人間が犠牲になっていくところにストレスを覚える。この映画は「こんなに敬虔な人がいるのだ、宗教はここまでして正しく守るべきなのだ」という映画なのだろうか? ところがそこに、新しい事実が明らかになる。彼が守りたいものはなんなのか。極限状態の中でストーリーを手放そうとしなかった者の映画ということでいえば、本作はまったく作風は異なりこそすれ、暗い『ライフ・イズ・ビューティフル』(ロベルト・ベニーニ監督)といえるのかもしれない。
あくまでラビを探す主人公が、ナチスが手当たり次第に人を殺す焼却場の混乱のなかで、1人だけ選ばれたかのようにうまく跳ね回って、目的に迫っていくシーンがある。おもしろかった。手当たり次第に人が殺されていく中で助かる偶然、そこで浮かび上がる確信を持って動く人間の強さ。恐怖と混乱に満ちたシーンだが、同時にそこには、彼のストーリーが守られるはずだという期待感がある。
世の中で生きていく上で、自分の人生に自分のストーリーがあると考える場合と、世界とそれへの反応があると考える場合がある。単にロマンティストとリアリストと言ってもいいが、みんなその間のグラデーションで生きている。自分が自分のストーリーに従って生きていると感じる時、自分は選ばれている。それは安心感だったり、高揚感だったり、人生の幸福のもととなるものだが、たとえば何かショックなことがあって、それからものを捨てられなくなり自宅がゴミ屋敷化していくとか、それがかたくなさとして、自分を守るために発揮されたりもする。そういう人は周りから迷惑に見えるかもしれないけれど、それでも本人なりのストーリーがあって、彼はそこで主人公になり続ける。サウルがしゃべらないのは、しゃべっても無意味なほど、人間性が否定されているからだ。しかし彼は、そんな状況の中でもストーリーを作り始める。もはやなす術がなくなっても、世界を読解してそこから自分のストーリーを引き出す。
監督はゾンダーコマンドたちが密かに書き溜めた実際の手記、撮った写真に出会って、この映画のアイデアを得たという。とすれば本作は収容者が70年前に決死の覚悟で握った写真機と、サウルに密着するカメラ、二つのレンズを超えて届けられていることになる。それは観客につながるストーリーのリレーでもあった。
それにしても、「ゾンダーコマンド」という言葉はかっこいい。ニューウェーブとか、パンクのバンド名によさそうだ。この映画は「ゾンダーコマンド」というかっこいい響きを教えてくれ、その言葉を永遠に使いたくなくなるようにして終わった。
文=ターHELL穴トミヤ
最後まで「人間」であり続けるために――
『サウルの息子』
新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかで絶賛公開中
関連リンク
映画『サウルの息子』公式サイト
関連記事
不幸が音楽となって襲ってくる! 70年代のシンセプログレと2010年代の浮浪者が出会い、冨田勲をバックにヤクの売人の自慢話が続くシーンがすごい 映画『神様なんかくそくらえ』公開中!!