web sniper's book review ゼロ年代を代表する最注目の若手論客による 日本の〈情報環境〉を検証する決定的一冊 『アーキテクチャの生態系 情報環境はいかに設計されてきたか (NTT出版)』 著者=濱野智史 文=さやわか
ミクシィ、2ちゃんねる、ニコニコ動画、ケータイ小説、初音ミク……。日本のウェブサービスは固有の形に進化している。他の国にはない不思議なサービスの数々は、なぜ日本独自の進化を遂げたのか。 本書は日本独自の〈情報環境〉を分析し、日本のウェブ社会をすっきりと見渡していく。 |
日本のインターネットがどのような歴史を歩んだかを著した書物には、ばるぼら著『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』(翔泳社・2005年)がある。ばるぼらは、この本の最後を締めくくる言葉として「歴史は繰り返す」と言っている。もはやインターネット上に新奇なコンテンツは登場しない、あとはすでに見たことがあるものの繰り返しだけになるだろうという予言をもって、彼は10年以上にわたる日本のインターネットの通史をまとめる作業を終える形を取ったのだ。この予言は多分に批評的な意図が込められたもので、つまりばるぼらはこの言葉によって日本のインターネットの一つの臨界点を指摘したのだった。
ばるぼらの予言はたしかに的中したといえた。彼はインターネットを主にコンテンツの束として捉え、その視点で見るともはや全く新しいと言えるコンテンツの萌芽はなかったと言っていい。しかし、ばるぼら自身が同書でも指摘しているように、歴史とは複数のラインで同時進行するものであり、また編者の視点の持ち方と取捨選択によっていくらでもその形を変えるものだ。従って、ばるぼらが臨界点を指摘したとしてもなお時間は流れ続け、インターネットでは誰かが何かを行っている。そこでは一体何が起こっているだろうか。濱野智史『アーキテクチャの生態系』は、まさにそれを解読する新たなインターネットの歴史書として読める。
ばるぼらが個人が生成するコンテンツへ注意を払ったのに対し、濱野は主にインターネット上におけるサービスやアプリケーションの設計に着目する。これはローレンス・レッシグ『CODE』(翔泳社・2001年)に倣った考え方で、簡単に言えば「インターネット上の各サービスは人間の行動や社会秩序を規制し、コントロールするようにデザインされる」という観点に立って、どのようにそれが設計され、また実装されてきたのかという進化の課程としてインターネットの歴史を考えるものだ。このアプローチは妥当なものだと言えるだろう。ばるぼらが行なった「コンテンツの新しさ」を辿っていく歴史は確かに一つの臨界点に達しているため、その後のインターネットの歴史を考えるならば、ばるぼらの行なったアプローチではないものが必要とされることは間違いない。
そこで濱野は日本のインターネットには、海外とは違う、日本に固有の進化があるということを指摘する。これは至極当たり前のことであるようだが、インターネットについて(とりわけ技術者に近い層が)語るときにしばしば見落とすことである。濱野は2ちゃんねるやmixi、Winnyやニコニコ動画などの日本発のサービスは日本社会(または日本の若者社会)が集団主義的な、あるいは社会学者の北田暁大が『嗤う日本のナショナリズム』(日本放送出版協会・2005年)で指摘した「繋がりの社会性」を求める傾向によくマッチした形態として進化し、人気を博したのだということを正しく指摘する。
このような分析のあり方は、ばるぼらも念頭に置いていた「ニッポンの」インターネットの歴史を作ろうという意識にも繋がる、正当な態度である。インターネット社会は安易にグローバリゼーションと結びつけられて語られることが多いが、実際のところ我々の目の前にあるのは2ちゃんねるやWinny、ニコニコ動画という日本ローカルのサービスであり、それが異形のものだと言って否定するならば、それは歴史から目を背けることに他ならない。逆に言えばこの真っ当な指摘によって濱野は、例えばTwitterがある程度のユーザーを獲得しながらもこれ以上日本で普及する可能性が低いことや、またMySpaceやFacebook、あるいはセカンドライブがなぜ日本で失敗するのかということをも説明可能にしている。
また最終的に濱野は『恋空』(スターツ出版・2006年)などのケータイ小説をも、単にリアリズムに基づかないレベルの低い読み物として斥けるのではない読み方を提案する。我々はしばしば、例えば2ちゃんねる的な環境に満足している場合にはケータイ小説を嘲笑し、携帯電話によるインターネット利用そのものもパソコンでの利用に比べて劣ったものとして考えることがある。しかし濱野は2ちゃんねるやニコニコ動画、mixiなどがそれぞれのユーザー(日本人)にとって「自然と思われる」行動が取れるように設計されていることを見出せるならば、ケータイ小説にもまた、その消費者にとっての限定的な自然さ=リアルさがそこにあると考えるべきではないか。濱野は「限定客観性」という言葉でこれを説明する。
逆に言えば、2ちゃんねるやニコニコ動画のユーザーが正当だと考えている客観性もまた、ケータイ小説の読者のそれと同じように射程の狭い、限定的なものなのだ。多様な価値観が乱立する現在にあって、我々には各々の限定客観性だけが存在しているのであり、いずれも絶対的に正しいとは言えない。せめてそのことを理解しなければ、我々は自分がどのような規範に基づいた言動をしているか理解できないし、また共同体を同じくしない他人が何を考えているのかなど全く理解できないだろう。人間の行動や社会秩序が規制されコントロールされる情報社会にあってこそ、いかにして自己や他者を相対化して分析可能にするのかという重要な課題を、本書は正しく論じることができている。
文=さやわか
『アーキテクチャの生態系
情報環境はいかに設計されてきたか(NTT出版)』
著者=濱野智史
ISBN:978-4-7571-0245-3
価格:1995円
発売日:2008年10月27日
発行:NTT出版
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