special issue for the summer vacation 2008 2008夏休み特別企画! web sniper's book review 時代を切り拓くサブ・カルチャー批評 『ゼロ年代の想像力(早川書房)』 著者=宇野 常寛 【前編】 文=さやわか 『DEATH NOTE』、宮藤官九郎、よしながふみ……格差・郊外・ナショナリズム、激震するゼロ年代に生まれた物語たちの想像力は何を描いてきたのか。時代を更新するサブ・カルチャー批評の決定版。 |
昨年、『SFマガジン』誌上で連載が開始され、ネットを中心に大きな話題となった宇野常寛『ゼロ年代の想像力』がついに単行本化された。つまり、これは話題の本である。
連載開始当初から宇野が注目された理由とは、まずはやはり彼が「決断主義」という言葉によってゼロ年代のフィクションの特徴を抉り出すことに成功したからだろう。その達成は単行本においても失われていない。では、それだけネット上で賞賛され、また議論された決断主義とはいったい何だったのか。ここでやはり、本書でそれがどう定義されているかという点から改めて解説し直す必要があるだろう。
宇野はまず、九〇年代という時代が『新世紀エヴァンゲリオン』(一九九五、テレビ東京)に象徴される「引きこもり/心理主義」的なものであったとする。消費社会の進行から、ポストモダンという時代が人々から確実に「国家」や「伝統」といった「大きな物語」を失わせていったが、しかしそれでも八〇年代には好景気と冷戦期のイデオロギー対立に後押しされて人々は生きる意味を失わずにいられた。しかし九〇年代にその両方が崩壊すると、一気に人々は「大きな物語」の喪失に直面したのだ。岡崎京子が『リバーズ・エッジ』(一九九四、宝島社)の中で「平坦な戦場」と表現し、宮台真司が『終わりなき日常を生きろ』(一九九五、筑摩書房)で「終わりなき日常」と呼んだその状況を、宇野は本書で「モノはあっても物語のない時代」と呼ぶ。
宮台は「終わりなき日常」を単に指摘するのではなく、それを自覚した上で、ただまったりと生存していくことを受け入れるのがこの時代を生きるための態度としてあるだろうとしたが、結果的にそれは時代における風潮にはならなかった。結局のところ私たちは九〇年代に、宇野が言うように「引きこもり」的な回路に迷い込んでしまったのである。「大きな物語」の喪失によって、何が正しいのか、何が間違っているのか分からない状況に置かれ、真正なる正義をもって行動することができなくなった私たちは、まさに『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公がそうであるように、「何かを選択すれば(社会にコミットすれば)必ず誰かを傷つける」から、「何も選択しないで(社会にコミットしないで)引きこもる」という態度を選んでいったのだ。
しかし宇野は、ゼロ年代に入ってから、徐々にこの「引きこもり」的なモードが解除されていったとする。そもそも、まず人は「あらゆる価値観が宙吊りになる」という状態に原理的に耐えられない。ポストモダン状況がどんなに進行しても、我々は最終的に無根拠であることを承知で、何らかの立場を「あえて」選択する。宇野は小泉政権による「構造改革」路線や9.11テロ、また国内論壇においていったんは失効したはずの定型的な左右のイデオロギーが大きく活性化したことなどを挙げ、それこそがまさにゼロ年代に決断主義が台頭したことの証であるとする。そして、その社会的な風潮を見事に反映した作品群として『バトル・ロワイアル』(一九九九、太田出版)や『DEATH NOTE』(二〇〇三〜〇六年連載、集英社)などを提示するのだ。
なるほど、この主張にはかなりの説得力がある。それは創作の現場の状況に照らし合わせても正しいものだろう。つまり九〇年代的な「何も選ぶことができない」態度というのは、社会における各人の問題としてあるばかりでなく、作家の問題としてもあったのだ。例えば『新世紀エヴァンゲリオン』は「定型的なロボットアニメ」を描こうとして、それが破綻する反物語として終結する。それは、まさに「物語を根拠をもって描くことができない」という九〇年代的なモードの表れであるし、それに対して宇野が挙げた『DEATH NOTE』などは、それでも作者が何かを選んだ末に現れる物語であり、そして実際に多数の読者に迎え入れられている。従って、ここでの時代に対する宇野の読みは極めて妥当なものだと言えるだろう。
しかし宇野が指摘したいのは、単に「ゼロ年代は決断主義の時代である」ということではない。本書の最大の問題意識は、決断主義には致命的な欠点があり、それゆえにそれもまた乗り越えられていくべきだ、ということなのだ。
宇野が指摘する決断主義の欠点とは何か。まず「各人が信じたいものを信じる」という決断主義的な態度は、「本来は無根拠であることを織り込み済みで、あえて」何かを選択するというものにほかならない。オウム真理教が発泡スチロールのシヴァ神像を信じたように、我々は全力で個々にとっての発泡スチロールのシヴァ神のような「小さな物語」を信じなければならない。しかし、それが「大きな物語」ではなく「小さな物語」であるということは、つまりはどの物語も本当は頂点に存在しない、すべてが並列に並べられていることを意味している。
宮台真司は『制服少女たちの選択』(一九九四、講談社)において、このような「小さな物語」の乱立状況を社会の「島宇宙」化と言ったが、ここでその島宇宙たちが、互いに没交渉的であるならば問題はまだ少ない。なぜなら他の価値観の存在を知らずに、私たちは信じたいものを信じ続けることが可能だからだ。ところがゼロ年代においてはインターネットが整備され、互いに別の島宇宙の存在が並列化されていることがシステム的に示されてしまう。どんな価値観も、同じウェブというシステムの上で等価に扱われるという状況が発生するのだ。自分の価値観が他の価値観と横並びにされてしまうと、島宇宙の帰属者は各人の正当性を声高には主張できなくなる。そこで島宇宙同士の対立が始まる。各人は自分の信じる発泡スチロールのシヴァ神の正当性獲得と自己保存のために排他的、排斥的な態度へシフトし、他の「小さな物語」を否定しようとしてぶつかり合い、互いにより多くの支持者を獲得するための動員ゲームへと移行するのだ。これが宇野の言う、決断主義から導かれる「バトルロワイヤル」という状況だ。
排他性によって集団が結束力を深めるというのは例えば宗教などを想像してもらえば分かりやすいだろう。あるいはまた社会学者G.ジンメルが述べた集団と闘争のモデルと照らし合わせても納得のいくものだ。ジンメルはこう述べている。「集団が、外部にある権力にたいして敵対的な関係に入り、それによって集団の結合のかのより緊張した収斂と集団の統一の効用とが意識と行動のうちに生じるか、それともまた多数の要素がそれぞれ単独に敵をもち、この敵が彼らすべてにとって同じであるところから、そこにはじめてすべてのあいだに連合が生じる」(『社会学』上巻323ページ、一九九四年、白水社)。ひょっとすると宇野は宮台の「島宇宙」というモデルを更新、もしくは否定される段階に至ったとしたとも言えるのではないか。宮台は「宇宙」という言葉を、互いのコミュニティが没交渉的に成り立つということを見越して選んだはずだが、「島宇宙同士の衝突」という概念が出てくるゼロ年代において、もはや独立した「宇宙」という言葉を使うのは相応しくはないのだろう。宇野は本書の中で、宮台に倣って「島宇宙」という用語を踏襲しているが、今日では「島宇宙」は相互に干渉可能な単なる「島」にまで格下げされてしまっていると言うことができるのである。
ともあれ、宇野はこの「島」同士のバトルロワイヤル的な状況こそが決断主義の時代に必然的に現れるものだとし、その暴力性を危惧する。そして、その動員ゲーム競争においては「無根拠を承知で、あえて」という言葉が機能しなくなっていくという構造を見出し、それを思考停止的なものであるとする。
では、宇野はこのような決断主義によるバトルロワイヤル的な状況を回避するにはどのような手段が選択可能であるとするのか。宇野はまず、九〇年代の「引きこもり」からゼロ年代的な決断主義的な態度が、いずれも他者からの自己承認を目指すためのものであったと指摘している。他者に対して、自分の思い浮かべる「こんな私」という自己像を承認してもらおうとする限り、暴力的な手段(押し付け)による他者の否定、あるいは他者の所有という連鎖は断ち切れないとするのだ。そして、共同体における自分とはあくまで特定の共同体の中で与えられた位置のようなものにすぎないと把握して、その中で相対的な位置を獲得する、という、いわばコミュニティ保全的な態度をまず第一にすべきだとする。その上で、その態度を顕著に描いた作家として、宇野は宮藤官九郎や木皿泉、よしながふみなどの作家を挙げ、彼らの作品こそが決断主義の時代にバトルロワイヤル的状況を回避し、コミュニティを豊かにしていく作品群であるとする。
残念ながら、おそらく宇野の主張が、それまでに比べて説得力を失っていくとすればそれはおそらくここである。宇野は九〇年代の「引きこもり」も、ゼロ年代における決断主義も、社会情勢を例に出しながらそれが反映されたものとしての作品群を提示していた。ここには社会変化への鋭い視線があり、またゼロ年代の批評家たちがその時代の変化に追随することができなかったという彼の主張も一定の説得力を持つ。ところが「ポスト決断主義」的なものを提出するにあたって、彼は作品の中から「こういう社会になれば安寧だ」という理想を語ることしかできない。あるいは、例えば宮藤官九郎の作品の支持者たちがポスト決断主義を体現するトライブとして出現しているという話なのであればまだよかった。宇野が「引きこもり」的なモードを続けていると指摘する「セカイ系」の作品群の支持者や、また決断主義の作品群の支持者がいる一方で、ポスト決断主義の作品群と支持者層が出現している、という言い方ができれば、全体としての主張のあり方は一貫したのである。
だが実際にはそうではなかった。例えば宮藤官九郎の作品は、宇野がその臨界点であるとする『マンハッタン・ラブストーリー』(二〇〇三、TBS)において、恋愛対象の「入れ替え可能性」というコミュニティ保全のテーマ性が視聴者に受け入れられず、まさに宇野自身が指摘するように「ほとんど生理的に近い拒否反応を誘引する、強烈な悪意にも似た迫力を画面に生んでしまっている」(本書154ページ)。つまりポスト決断主義の支持者層は作品に伴って表れていない。宇野はポスト決断主義的であると考えられる作品に独自の読みを行ない、その可能性を示せているとは言えるが、しかしそのような「新しい」作品が事実として視聴者に拒否されてしまったのであれば、宇野がここまでに展開してきた文化社会学的な検証のスタイルから見て、説得力を失うものである。宇野はこの視聴者からの拒否という事実を、もっと重く受け止めるべきだったのではなかろうか。
『ゼロ年代の想像力(早川書房)』
著者:宇野 常寛
価格:1,890円
ISBN:978-4-15-208941-0
刊行日:2008年07月24日
発行:早川書房
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さやわか ライター/編集。『ユリイカ』(青土社)、『Quick Japan』(太田出版)等に寄稿。10月発売の『パンドラ Vol.2』(講談社BOX)に「東浩紀のゼロアカ道場」のレポート記事を掲載予定。
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