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なぜ日本は「縄」で、
ヨーロッパは「鞭」なのか?


『SとM(幻冬舎)


文=井上文



「サディスム」「マゾヒスム」が浸透したのは十九世紀。しかしそもそも精神的・肉体的な苦痛を介して人が神に近づくキリスト教に、SM文化の源流はあった!? フランス文学者が自由奔放に語る文明論から何が見えるか。
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『SとM』。思い切ったタイトルです。挑戦的と言ってもいいかも知れません。なぜって最近、多くのSM愛好家が、「SM」という言葉を敢えて使わなくなってきているからです。

SM雑誌を読んでいて気付きませんか? 文中、どうしても使わざるを得ない時は「いわゆるSM」という言い方をしたり、「便宜上、SMという言葉を使うが……」と前置きしたりするケースが増えているのです。情報が整理されないままに氾濫している今、SMの定義はとてもフワフワしていて、うっかり口にすると意図しない受け取られ方をしてしまうことがあるからです。

そもそも一口にSMと言っても、個人個人の趣味嗜好は千差万別。縄好きな人もいれば浣腸一本やりの人もいますし、猿轡がなければSMではないという人もいます。血を流すような過激なプレイも増えていますし、日本独特のものもあれば、海外から日本に入ってきて盛んになっているプレイもあります。一見して伝統に根ざしたものがあれば、若い人にしか理解できないファッションや言葉もあります。「こんなものはSMではない」とか「これこそがSMだ」と言い切ることが難しい時代なのです。

そんな折の『SとM』。今、改めて考えるには丁度いいテーマなのかも知れません。

フランス文学者である鹿島茂氏は、この『SとM』という本において、SMを文化史的に位置づけることからSMとは何かを語ろうとしています。鹿島氏によれば、Mの源流はキリスト教にあり、生け贄の宗教であったケルトのドルイド教の信者を取り込む際に、人間の犠牲としての神=キリストのイメージが作られ(それ以前のキリスト像は、犠牲ではなく復活のイメージだったのだそうです)、苦痛を介して絶対的なものへ至る道筋ができたのだと言います。

一方、Sの起源としては、よく知られているマルキ・ド・サドが挙げられています。鹿島氏は彼を、神様に代わって人間を罰してやろうと宣言した最初の人物だと言い、Sの誕生を「近代の目覚め」と位置づけます。こうしてこの本は、ヨーロッパの文化史を背景にしながら、SとMの大きな交わりを分かりやすく解説していくのです。

本来は難しい歴史の話なのかも知れません。しかし、SとMだけで大胆に整理して語られると、楽しくサラリと読めてしまいます。鹿島氏はさらに、日本のSMとヨーロッパのSMの違い、キリスト教に縁の薄い日本でどのようにSMが発展したのかなど、SM愛好者の証言も入れながら現在社会までも俯瞰して見せます。普段SMプレイを楽しんでいる人も、こういう見方で自分のしていることを振り返ったことはないんじゃないでしょうか。意外なところから自分の欲望の源流を発見できる可能性があります。

けれど一点、サクサクと快刀乱麻を断つ勢いな分だけ、テーマに比して軽いかな、という印象もあります。理由の一つは、「キリスト教徒というのは、全員がMです」「負けるとわかっている戦いをやる人は、だいたいMなのです」「主導権は、ほんとうのSMにおいては、完全にMにあるわけです」というような端切れのよい言い切り口調に対して、鹿島氏の身の内に感覚的な根拠がなく(鹿島氏にこっち系の性癖はないそうです)、尚且つ取り上げられている個人のデータも少ないからです。「ほんとうのSM」って、実は難しい言葉だと思うんですよね。言い切り口調と合わせて気になりました。

もう一つは、鹿島氏の考察では、Sの欲望から「アブない」ものやダークなものが極端に排除されているからだと思います。鹿島氏の言う通り、一見、Mの女性を支配しているように見えるSが実はフェミニストという話は、プレイの現場でもよく言われていることです。また、レイプや虐待がSMプレイとはまったく違うものだということは、常識として知られていなければなりません。しかし、鹿島氏も書いている、SMが持つ「ぎりぎりの美学」というものは、そもそも「アブない」ものなんじゃないかと思うのです。

Sの語源となったマルキ・ド・サドは、娼婦を監禁した上でアナルレイプをして死刑判決を受けました。鹿島氏の語る歴史を見ても、「SはサービスのS」だけでは綺麗すぎ、シンプルすぎるように思えました。これは私の個人的な印象にすぎないのですけれども、SMの美(エロティシズム)は、きちんと整理された美とは違うんじゃないかなと。こういう時代ですし、誤解を招くようなことは書きたくありませんが、こういう時代だからこそ、Sの根っこをもっと探ってもいいのではないかと思えました。もしかしたら、鹿島氏であれば、M以前にSがいたという、この本とは真逆の仮説でも資料を揃えられるんじゃないでしょうか。

全体に、驚くくらい平易に書かれていて、かつ大胆なので、刺激されます。紹介されている文学作品や歴史上のエピソードも、それ自体が雄弁で、SMに興味を持つ人の想像を楽しく掻き立ててくれます。あまりこだわらず、俯瞰部分と個人の領域を区別して読める人には知的に遊べる本だと思います。

文=井上文


『SとM(幻冬舎)


著者:鹿島茂
書籍タイプ:単行本
価格:756円(本体価格 720円)
ISBN:978-4-344-98073-0 C0295
出版日:2008年3月26日
発行:幻冬舎

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井上文 1971年生まれ。SM雑誌編集部に勤務後、フリー編集・ライターに。猥褻物を専門に、書籍・雑誌の裏方を務める。発明団体『BENRI編集室』顧問。

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08.06.17更新 | レビュー  >