WEB SNIPER's book review
絶賛の嵐を受けた想定科学ADVがファン待望のノベライズ!
その緻密かつ劇的なストーリーで絶賛の嵐を受けた、想定科学ADV『STEINS;GATE』がファン待望のノベライズ! 秋葉原を舞台に繰り広げられる時空を越えた物語が、ゲーム本編とは似て非なる世界線で語られる――。小説版とゲーム版の違いを軸に村上裕一氏がレビュー!!基本的にゲーム版に準拠した忠実なノベライズと言ってよい小説なので、必然的に小説をダシにした「シュタゲ語り」になってしまいそうで、それはそれでコンテンツとして大きな可能性を秘めた作品である以上有益だとも思うのだが、とりあえず確認しておきたいのはゲーム版との差異だろう。それはフォーントリガーの有無である。
フォーントリガーとは携帯電話を利用して物語の展開に影響を与えるシステムのことだ。通常のノベルゲームであれば唐突に表示される選択肢の中から一つを選ぶことで物語の方向性を意識的に決定するわけだが、『STEINS;GATE』にはそのような選択肢がいっさい登場しない。代わりにそのような分岐を作り出すのが携帯電話だ。持っているだけでメールを受信したり着信が入ったりする。見るか見ないか、返信するかしないか、そして場合によっては、特定の場面でこちらから主体的に通話をするかしないかが、物語の行先を変えてしまうのだ。まさに「フォーン」が「トリガー」となる。本作の最大の特徴と言ってもよいシステムだろう。
ところが、当然ながらこのようなインタラクティブなシステムを小説に実装することはできない。しかし、そのことによって、むしろ小説版は、『STEINS;GATE』という物語を忠実に遂行しているところがある。と同時にそれはある問題を隠蔽することにもなっている。
問題とは何だろうか。それは携帯電話の機能が分裂していることである。既に述べたように、携帯電話はプレイヤーの水準ではフォーントリガーとして物語の展開を左右する機能を持つ。ところが、同じくらい重要な存在感を携帯電話はキャラクターの水準で発している。後者の水準では、携帯電話はタイムマシン(Dメール、タイムリープマシン)として活躍するからだ。主人公――鳳凰院凶真こと岡部倫太郎はこのタイムマシンを開発したことによって、世界的な事件に巻き込まれ、それを乗り越えるために何度も時間を巻き戻すことになる。
ということで岡部はタイムマシンによって自分が物語を繰り返していることについては自覚的なのだが、しかし、フォーントリガーの機能については決して自覚的ではない。もっと具体的に言えば、『STEINS;GATE』には各キャラクターごとの個別エンドが存在しているものの、例えば個別エンドAの岡部と個別エンドBの岡部には同一性がない。ところが、一応本作にはトゥルーエンドが存在するため、最終的に、トゥルーエンドの岡部だけが本物となり、個別エンドの岡部の可能性は「あったかもしれないもの」として忘却されることになる。
この構図は、主人公が完全にプレイヤーの役割を担っているものとして理解できる。プレイヤーは、岡部が認識していない岡部の「あったかもしれない可能性」を認識でき、また岡部は自分以外のキャラクターの「あったかもしれない可能性」を認識している。
問題は、まさにこのプレイヤーと主人公の分裂に象徴されている。というのも、主人公のかような認識はそもそもプレイヤーの認識の隠喩である。例えば『雫』で主人公がハッピーエンドに至れるのはプレイヤーが選択を失敗した経験を持っているゆえに正しい選択肢を選び取ることができるからだ。これをさらに抽象化すると『ひぐらしのなく頃に』のように、正しい選択を可能にする「繰り返し」そのものが、プレイヤーの隠喩となる神的人物によってキャラクターに与えられるという展開をたどる。ところが本作の場合はタイムマシンの設定を使うことで、一見プレイヤーの権威なしでループ的物語を描いているように見える。しかし、隠蔽されているだけで実際にはプレイヤー的なものの権威が働いている。フォーントリガーの設定からそれは明らかなわけだが、深刻なのは、『STEINS;GATE』という物語そのものがどうやらその事実をきちんと認識しているらしいことだ。
というのは、途中途中でインサートされるタイムリープに失敗したかもしれない可能性の記憶を、この作品は捉えているからだ。例えば岡部の夢として彼らが間違って7000万年前に遡ってしまい、圧倒的な絶望の中で消滅を待つ様子が描かれる。もちろん、ゲーム版においてはこれは夢でしかない。というのも、観測者権限であるリーディング・シュタイナーを持つのは「この岡部」以外になく、そして彼は一度として7000年前に跳んだことがないからだ。
リーディング・シュタイナーにはもう少し説明が必要だろう。これは岡部だけが持つ特権的な能力で、世界線の変動を捉えることができるというものだ(世界線変動率をダイバージェンスという)。世界線とは世界が属する運命的方角とでもいうもので、時間跳躍のような超越的干渉を受けて変動する。『STEINS;GATE』の場合、時間跳躍とはそのたびに世界線変動を伴うものだ。言い換えれば、同じ世界をやり直しているように見えて、実は異なる・似通った世界に移動しているということで、これが問題をさらにややこしく紛糾させることとなる。
先述した、トゥルーエンドに至ると個別エンドの記憶が排除されてしまうというのは、このリーディング・シュタイナーという能力ゆえのものであると言ってもいいだろう。そしてこれはまさに美少女ゲーム的な性質を体現した能力でもある。なぜかというと、それは複数の可能性を横断し、しかもそれを認識できるというプレイヤー的な特権性を表現した能力だからだ。
このとき、プレイヤーは別に個別エンドの記憶を排除などしていない、と思われるかもしれない。しかし、トゥルーエンドがないゲームであっても、結局、何らかの順番でプレイすることになる以上、必然的に「最後のヒロイン」が現われてしまう。このように「最後のヒロイン」がいることは形式的な条件だが、それが形式的であるゆえに重要である。それは単純な順番を超えて、プレイヤーの認識において重要度の序列が生じることを表象している。トゥルーエンドとは、そのプレイヤーの主観に対して、この物語こそが「最後」なのだと規定する物語の権力だと言えるだろう。
さてこのとき、極端に言えばリーディング・シュタイナーとはトゥルーエンドを期待する能力である。なぜなら、それは物語が一本に収束することに対する欲望だからだ。ところが、素朴に考えてこの一本化には問題がある。一つは、一見プレイヤーの立場を象徴しているように見える岡部が、個別エンドが存在するゆえに、実際にはプレイヤーと乖離した限定的な世界の「救済」を演じているように見えるということ。一つは、7000年前の描写に象徴されるように、物語はそのことを認識しているように見えるということである。この派生的な問題として、例えば、度重なる世界線移動の果てに悲劇に襲われたヒロインを救うことができたように見えるが、それはそのときどきの世界で死んだヒロインたちそのものを救うことにはなっていないのではないか、というような指摘がありうる。
確かにこれは、多世界解釈ではなく、アトラクタフィールド説によって、世界線が収束することでそれらの可能性が収斂するのだから問題ないのだ、と作中では説明される。しかし、本当にそうなのだろうか。例えば『マブラヴオルタネイティヴ』(アージュ、2006)や最新の『Rewrite』(KEY、2011)などを踏まえて考えれば、そのこと自体は極めて怪しいと言わざるをえない、という意見を筆者は持っている。『STEINS;GATE』の総体においてこのことがどう位置づけられるかについては今回の書評には余る巨大な問題なので、また別に論を構えたい。
ただ、少なくとも、小説版はこの問題に関して極めて気の利いた対応をしていると考えられる。それがゲーム版との差異でもある。
小説版での大きな差異にして特徴は、タイムリーパーが複数化しているということである。ゲーム版においても、確かに岡部以外にひとり遠い未来からタイムリープしてくる人間がいるが、未来からやってくるという点で阿万音鈴羽と同じような位置づけとして処理できる。ところが、小説版では岡部の主要な仲間であるダルやまゆしぃがまさにタイムリーパーとして登場し、とりわけ後者は同時代のタイムリーパーとしてまさに岡部と同等以上に主人公的な繰り返しを演じていることが明かされる。
この設定は、極めて自然なことだと言わねばなるまい。というのも、岡部はプレイヤーに似てはいてもプレイヤーそのものではないため、実は彼が特権的である理由がないのだ。彼はなぜか端的にリーディング・シュタイナーを持っている、ということになっている。しかし、これも後半で明らかになることだが、実際には誰しもがこの能力を持っているのではないか、という仮説が浮上する。世界線移動の中で、本来は記憶を連続させていないはずの人々が、別な世界線の記憶を流入させてしまっているという事例が見られたのだ。とすれば、岡部のような人物が他にもいて然るべきだろう。
そして、もう一つの差異は、岡部自身の複数性を描いていることだ。7000万年前の夢にも現われているように、岡部の知らない岡部が別な物語を担っていた可能性はあった。そもそも、個別エンドの存在は、他ならぬ岡部自身の主体が分裂していることを意味している(そしてそれは「最後のヒロイン」問題にリンクする)。そもそも、岡部は連続的に世界線を移動しているつもりでも、その移動の最中に別な物語が流入しており、しかもそれが忘却されている可能性を彼は否定できない。小説版はこの可能性を一種のバグとして言及している点で非常に目配せが効いている。
しかし何よりも素晴らしいのは、ゲーム版とほとんど違わぬトゥルーエンドに到達しているにもかかわらず、このバージョンの物語が真実ではない可能性を描いているからだ。具体的に言おう。物語は牧瀬紅莉栖の救出というミッションを達成することによって完遂されたかに見えた。しかしその時、壊れた携帯に非通知の着信を受ける。それは未来からのタイムリープ......まさにフォーントリガーである可能性が非常に高かった。それは「この岡部」にとっては、実は物語がバッドエンドだった可能性を強烈に仄めかすものであり、着信に出てしまうことはそれを認めてしまうことを意味していた。この着信に出ることは取り返しがつかない。それは、ここまでの彼の努力が無意味だったことの示唆でもある。だから本当は受け入れたくないのだが、しかし、ある記憶を思い出す。それは別なとき非通知着信で聞いた「――釣られることを恐れる奴に/真実の扉が開くことはない」という言葉だった。そして彼は恐れを払拭し、「この俺はここで消えてしまうのだとしても、別の俺が <シュタインズゲート>へ到達する。俺を信じろ。/俺は一人ではない。」と考え、その着信に出るのだ。
この岡部の振る舞いは極めて倫理的であり、この倫理こそがトゥルーエンドの真正性を支えている。彼はタイムリープするたびに、別な世界線の岡部の記憶を塗り替えてきた。それはゲーム版だと極めて自動的に描かれているが、しかし、先の岡部と同様に、タイムリープへの理解が進行した段階においては、未来の自分という他人に自我が奪われてしまうことを意味しており、ほとんど自殺に等しい献身だと言えるだろう。タイムリープによって数限りなく物語を繰り返すことになる本作だが、しかしその繰り返しは、実は決定的な取り返しのつかなさによって支えられている。しかし、少なからぬ岡部たちがそれを受け入れたからこそ、物語は真実へと到達したのだ。それは、成功した物語であるゲーム版の岡部の認識からは、確かに漏れてしまうものである。だからこそ、その漏れてしまった認識を描いた小説版は、別のバージョンであることのメディア的使命を果たしつつ、しかも『STEINS;GATE』の核心を感動的に描き出していると言えるだろう。一言でいえば、本書は傑作である。
文=村上裕一
『STEINS;GATE─シュタインズゲート─ 円環連鎖のウロボロス(1)』 (富士見ドラゴン・ブック)
『STEINS;GATE─シュタインズゲート─ 円環連鎖のウロボロス(2)』 (富士見ドラゴン・ブック)
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『「ガンダム」の家族論 』(ワニブックスPLUS新書) 著者=富野由悠季