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2010新春特別企画
さやわか × ばるぼら〜対談:2000年代におけるインターネットの話 【後編】

2010年お正月企画の最後を飾るのは、昨年に引き続きさやわかさんとばるぼらさんのお二人です。2010年代を迎えたいま、ここ10年間のインターネットを改めて振り返ります。今夜は前編に引き続き、後編のお届けです!
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■タイムライン上のナラティビティ

「Twitter」トップページ http://twitter.com/
さやわか:サービスの中では、おそらくいま一番注目されているものの一つであるTwitterとかも、僕はゼロ年代後半の個人による編集能力の拡大という視点で語れるんじゃないのかなと思ってるんですけどね。
ばるぼら:最近、まとめるサイトができたじゃないですか。
さやわか:「Togetter」とかね。あんなのがまさにそうだと思うんです。Twitterでは文脈をユーザーが個別に作り出さないといけないという需要があるからこそ、ああいうサービスが登場するわけですよね。ユーザー同士が文脈を作ると言えばWikiなんかは古くからあるけど、個人がサービス上でどう面白いことをやろうかというムードになってないゼロ年代の前半にはなかなか根付かなかった。でも今なら成り立つんですよね。みんな違和感なくWikiを編集するようになっている。たとえばゲームの攻略サイトとかは当たり前のようにWikiで作られるようになりましたよね。炎上なんかのまとめサイトも、昔は誰か一人がまとめて他の人がありがたがっていたのが、今はWikiになっている。
ばるぼら:昔は「Wiki記法なんてわざわざ覚える気がしません(微笑)」と言われてたけども、今はとりあえずWiki使うノリがありますよね。みんなで何かするならWikiなんでしょ、っていう。
さやわか:著作権に対する意識が軽くなったのと同時に起こっていることかもしれないですが、他人が書いたものと自分が書いたものが一緒くたになってしまうということに対する意識も軽くなっているんですよね。集合知というよりは、自分が書いた部分は他人に差し出すし、他人が書いた部分は勝手に改変していいんだみたいな野蛮さ。Togetterだって、勝手に自分の投稿をある文脈に沿わせて切り出されるのが許せないっていう人は今でもいるかもしれないけど、昔よりは少ないはずですよね。そもそも、実はTwitterのタイムライン自体が、誰をフォローして表示させるかによって各ユーザーで全く違う見え方になるわけじゃないですか。あれこそパーソナルな編集行為によって成り立つパーソナルなメディアの最たるものなんだろうなと。
ばるぼら:やっぱりTwitterの一番の肝ってタイムラインのような気がしますね。タイムラインの上にしか文脈は現れない。外側から見ても何がなんだかわからない。そこにはあるユーザーをフォローしている人たちだけが共有できる文脈があって、その内側だけで共有しているものをいかに外に出すかっていうことでTogetterとかのサービスがある。そういう、データベースに単純には収録・格納できないデータ、文脈みたいなものを、いかに捉えるか、人に見える形にしていくかというのは、近年の方向性のような気がします。
さやわか:全くそうだと思います。Twitterって、最近説明されるときに「即時性がすごい」みたいなことを必ず言われるんだけど、僕は即時性なんてTwitterにとってポイントでも何でもないと思ってるんです。もちろん速いは速いんだけど、でもそれって数年前、それこそIT革命の頃「メールは即時性があるから凄いんです」とか「ウェブは即時性がある」とか「いや、メッセンジャーソフトの方が速い」とか言ってたのとほとんど変わらない。そういう比較の問題でTwitterが凄いと言ってもピンとこない。だったらLingrとかだって即時性がありますよね。あるいはIRCとかも超速い。そんなこと言ったらニフティサーブにだってRTとかリアルタイムのチャットがあったよ、速さが重要ならそれらもすごかったんですかみたいな話ができてしまう。
ばるぼら:即時性を妙に持ち出す人たちってのは、グーグルを仮想敵として、グーグルのクロールが間に合わないことに価値を見出してるんじゃないですかね。グーグルを刺す武器だ!みたいな感じ。
さやわか:なるほど。巨人グーグルを倒せ!みたいな。
ばるぼら:物語を作ってしまいたくなる。だからグーグルが格納できないものを探すと、Twitterの即時性みたいなものとか、あとソーシャルネットワーキングの非公開設定にかかってくる。昔は音声もそうだったけど、今はもう「PodCastle」だの「Google Audio Indexing」だので秒読みだから。
さやわか:たしかに、グーグルに捕まる前に話が始まって終わることは可能だっていうことはわかりますけどね。でもそれって2ちゃんねるでも既に可能だったことですよね。
ばるぼら:2ちゃんねるのニュース速報の15分くらいで終わってしまうようなスレッドでも同じようなことは行なわれていたのだが、じゃあこれまでそれに注目しないでTwitterなら言うのはなぜか、みたいな話ね。
さやわか:そうなんですよ。あと「Twitterは政治的アプローチが凄くできる」とか、社会的に有用だみたいなことも多く言われてるんですけど、それも2ちゃんねるが開設当時に言われていたのとほとんど変わらない論調なんですよ。むしろTwitterは個人によっていくらでもタイムラインを編集可能なものだから、政治なんか全く入り込む余地がなくすることができるのがすごいわけじゃないですか。社会の全体性をどんどん解体して、それぞれにとってナラティブなものを作り、なのに全体を夢想して一つの流れがあるように錯覚してしまえる。Twitterについて考えるなら、笑えるタイムラインを築いている人もいるし、東欧情勢について考えてる人もいるということで全体を捉えることができるのが面白いツールなんだと意識しないと、すごく特定の見方に偏ってしまう。たとえばイランの大統領選の時に、「民衆派」の候補者を応援する意味でTwitterのアイコンをグリーンに変えようとかいう運動が流行って、変えていた人たちがいるんですよ。そういう動きがあることがぼんやりとわかるくらいなら僕にとっては心地いいことだったんだけど、たまに「みんながそうすべきだ、そこにTwitterの可能性があるんだ」だみたいなことを言い始める人がいて、それには閉口しました。「Twitterの口コミが既存メディアを打ち倒す」みたいなことを言っている人も同様で、そういう人はTwitter上で、昔からある「ネットが勝つ」の論理を単に引きずってしまっている。
ばるぼら:mixiも初期に、同じアイコンを使うっていうのが流行ったことがあります。政治色は全然ないんですけど「ゲロたん祭り」ってやつ。
さやわか:一体感みたいなものを作りたいのはわかるんですけど。それ自体が悪いとは思わないけど、それをやることで一体になれるのは、それをやった人たちだけなんだという当たり前のことが淡々と行われていくのがTwitterなので、俺たちネットはTwitterで既存の何かをひっくり返すんだ!みたいな論調はちょっとなあと思います。せめて、それぞれのタイムラインの編集によって、それぞれにナラティブなものを作ってる、その意味においてみんなは一致してるんだというようなわかり方をすればいいんじゃないのかなあと僕は思うんです。

■ベッタベタにしてあげる?【やんよ?】

さやわか:で、ばるぼらさんはどうですか?
ばるぼら:ばるぼらさんは今日はさやわかさんに話聞きにきただけだから大人しく……(笑)。
さやわか:というか、たまにはインターネット見てるんですか?
ばるぼら:たまにどころじゃなく見てますよ。自分のサイト消しただけで。
さやわか:見てないふりして見てるんですね(笑)。
ばるぼら:油断させようと思って(笑)。
さやわか:「もうこの掲示板には二度と来ません!」っていう感じですね。そういう人は絶対来ますからね(笑)。次の日みんなが何を言ってるか見に来ますからね。
ばるぼら:ちょっと前にあやしいにすごくいいことが書いてあったんだけど、ネットの接続をいつまでも切れないのは、反応を待ってしまうからだという。どういうふうな反応をされるのか待ってるから、いつまでも接続が切れないんだ、って話があって。ネット依存ってこれだなあと。みんなリアクションがほしいっていう。昔から言ってるけど「ネットはアクションじゃなくてリアクションのメディア」だなあって。
さやわか:それで思い出しましたが、最近Twitterとかで生成されるコンテンツが持つ表現って妙にナマというか、感情的なんですよね。「笑える」とか「泣ける」とか、表現に対して速効で反応しやすい部分、エモーションの部分にまず最初に訴えようとすることが多い。これはゼロ年代のコンテンツが全般的にその傾向を強めていったように思う。
ばるぼら:『世界の中心で、愛をさけぶ』とかケータイ小説みたいなこと?
さやわか:「電車男」もそうだった。話としては非常にベタなわけじゃないですか。でもその物語が作られていくプロセスが面白かったんだっていうのが、たぶん今のコンテンツ受容者や製作者たちの、つまりネットユーザーたちのモードなんだろうなと思うんですよね。「電車男」みたいなものには「実話ではなくて自作自演だ」みたいな批判も生まれたけど、全く力を持たなかった。おそらく、あれに感動したユーザーにとってそんなことはどうでもいいからなんだと思います。
ばるぼら:昔テレビでやってた『未来日記』も「やらせでしょ」と言われてたけど、そんなこと全然関係なかったですよね。
「メルト」supercell 発売元=自主制作 発売=2007年12月30日
さやわか:初音ミクの「メルト」とかも同じじゃないですか。あの曲は凄くベタな文法でできていて、批判しようと思ったら簡単にできちゃう。しかしあれはJ-POP的なものとかいろんなベタなものの引用の極地で「泣ける」みたいなエモーション、一つのストーリーラインを築いているんですね。「泣ける」曲にすることはある程度前提で、多くのユーザーがこの曲で「泣ける」という感情を共有することによって作品の価値が唯一無二のものに高められていくみたいなことになっているんだろうなと。「あえて」やっているわけでもなくて、作り手も受け手も、即効で感情に訴えかけるコンテンツとしてあるのがまずは第一じゃね?っていうふうになっているんじゃないのかな。
ばるぼら:それをベタって批判されてしまう。
さやわか:そうそう。そういう成り立ちを考えないと外部からは「ベタでつまらない」みたいに簡単に批判されるんですが、その批判には意味がないんです。
ばるぼら:ベタにいたるまでのエンターテインメントなんですね。そういう前提があるのに、それをベタといっても仕方ないよねっていう。
さやわか:表現する側にとってみても、たとえば「歌ってみた」「踊ってみた」の人たちがそれぞれの曲の歌詞にどれだけ深く共感しているかと言われても困ると思うんです。そんなのは全く問題じゃない。みんなに反応してもらう、泣いてもらう楽曲なんだから。
ばるぼら:ほんとに歌いたいわけじゃないからね(笑)。
さやわか:「心底、この心情を伝えたい」とか、まったく思ってないはずなんですよ。「メルト」を作った人も「俺の哀しみを歌い上げたい。初音ミクを通してこの思い、伝えたい……」とか思ってない。
ばるぼら:そういうことではないんですよね。
さやわか:そこはとてもセンシティブな問題で、重要な部分ですよね。別に楽曲の気持ち自体は否定されていないし、むしろみんないい曲を欲している。しかし90年代後半からゼロ年代にやたらと増えた「等身大で魂を叫ぶアーティスト」みたいなものとは、ゼロ年代後半は一線を画しているのではないか。これはネットだけじゃなくて、「いきものがかり」とかも近いメンタリティじゃないかと思うんです。どうですこのゼロ年代まとめ(笑)。
ばるぼら:大変面白いんじゃないですか(笑)
さやわか:まあ最近はそんなことを考えてるわけです。

■モバイル・PCコミュニティの断層と交点

「mixi」トップページ http://mixi.jp/
さやわか:さて、ゼロ年代のネットにおけるコンテンツ創作のあり方にわりと注目していたので、完全に語り落としていたのがSNSについてです。2004年2月に登場したmixiが代表格なわけですが。
ばるぼら:mixiの前に、2004年に使われはじめたorkutっていうのがありました。あれが出てきてみんなが登録し始めたときに、現在コミックナタリーの編集長をされている唐木元さんが「どんどんみんなが登録して、だんだん友人が広がっていく過程は、1994年とか1995年の、インターネット最初期の雰囲気が再現されていた」みたいなことを言っていて、それは非常にうまい喩えだと思いました。orkutが話題になったらすぐmixiが始まって、みんなmixiに移っちゃったけど、インターネットの初期を一回ソーシャルネットワーキングでやり直してる感じが非常に強かった、最初だけは。
さやわか:「IT革命」でネットに入ってきた人たちがインターネット創成期のようにウェブ上でユーザー同士の繋がりを作っていく課程をもう一回やったと考えるとわかりやすいですね。
ばるぼら:orkutっていうのはソーシャルネットワーキングというサービスの一番最初の純粋な目的である、友達の友達を探すサービスだったんですけど、mixiは別に友達の友達はいいから、友達と仲良くするみたいなサービス。日本人的にはそっちのほうがよかった。
さやわか:日本では既存の友達関係を可視化&強化するサービスとして爆発的に流行って、自分の知っている範囲の友人に、自分の日記を見せるっていうものになりました。つまり知人に「デパスを お酒で、いっき飲みました はやくねむりたい・・・闇に溶けていきたい お願い。そして もう 朝がこなくていい お願い・・・」みたいな日記とかを見せるためのツールになったわけですよね。
ばるぼら:それで「麗羅ちゃんがいつも頑張ってるの知ってるよvv」「悩ミ事あっ+=ζιヽ⊃τ〃モ相談lニノ儿ヵヽζъ( ゚ー^)」みたいなコメントがつくわけですよね。なんだこの例(笑)。
さやわか:もちろん出会い系的に使ってる人もいっぱいいて、それが問題になったりもしたけど、どちらかというとリアルフレンドとの交流の場になってますよね。
ばるぼら:初期はIT関係の人たちにIDを配ってたんで、そういう、すごく昔にサイトやってたんだけど、やらなくなった人たちがmixiで活動を再開し始めた。それで最初の年はまだインターネット初期の雰囲気が残ってたと思うんですけど、その次の、次の年くらいから出会い系みたいなのがポツポツ出始めた気がします。
さやわか:でも今やmixiって規約が改正されて満15歳以上で使えるんですよね。以前は出会い系の要素を持ったものだから子供に使わせるのまずいよ、みたいな感じだったんでしょうけど、若年層に開放されるようになったということは、出会い路線から明確に離れていっているということの裏付けにもなっていると思います。
ばるぼら:モバイルユーザーの数が無視できなくなったのが大きいんでしょうね。モバイルというのはPCユーザーにとってすごく異質なもので。私が一番最初に意識したのは「魔法のiらんど」なんですけど。i-modeが1999年2月開始だから、2000年末くらいかな、友達から「サイト開いたから見てね」って言われて、見たら「魔法のiらんど」だったんですよ。そしたら「ペタありがと〜〜★★(+^o^)/~」みたいな、異様に独自性のあるやり取りが行われていて(笑)、ものすごく異文化を感じたんですよね、あの時。
さやわか:こないだニコ動か何かで、ネット流行語大賞をやってたんですけど、ケータイ編とPC編があって、PC編はわかるんですけど、ケータイ編はコメントのしようがない。え、そんな言葉流行った?みたいなことが書いてあって面白かったです。それは僕の実感じゃなくて、ニコ動で今回の流行語大賞についてコメントしてる人も、「えーごめんわかんない」みたいになってるんですよ。魔法のiらんどみたいなものが台頭した2002年くらいから、急激に日本のインターネットはPCとモバイルに別れていっちゃったんでしょうね。
ばるぼら:ぜんぜん交流がなかった。モバゲーの突然の話題のされっぷりに顕著ですよ。
さやわか:どこから来たの?みたいなね。そんなユーザーがいるの、えーっ!? みたいな。
ばるぼら:我々PC出身のユーザーはモバイル出身ユーザーの行動様式にいちいち驚いてしまう。
さやわか:僕、いまだにケータイでインターネットとか、ほとんどできないですよ。あんな端末で、あんな速度で、よくウェブとか見るなぁと思っちゃう。しかし彼らにとってはあのインタフェースとインフラが普通だから。
ばるぼら:犯罪自慢的なことをmixiでしてしまう人たちは、モバイル感覚のユーザーなんじゃないかと。ケータイって普段は自分の知人しかいないから、知人に公開してる感覚で普通に日記をアップしてしまう。それが誰でもアクセスできる状態になってて、広まっちゃう。
さやわか:なるほど。ケータイのあの小さい画面でmixi見てても、それが広大なインターネットにつながってる感覚はないかもしれないですよね。だから友達に話しかけている感覚で犯罪自慢を書いてしまえる。
ばるぼら:インターネットとは別のネットワークの感覚があるんでしょう。今、ソーシャルネットワーキングでユーザー数が多いのは、mixiと、GREEと、モバゲーなんですけど、この三つ全部で話題になってるのはソーシャルゲームなんですよね。ソーシャルネットワーキングってどんどんゲームコミュニティになってる。
さやわか:確かにそうですね。正直、最初にGREEがゲームの強化を始めたときは……。
ばるぼら:迷走とかね。
さやわか:失笑みたいな感じでしたもんね。
ばるぼら:あれはつまりケータイ向けで、ソーシャルアプリの延長でソーシャルゲームというものを始めたんだという、非常に当然の展開だった。
さやわか:見事でした。
ばるぼら:mixiのユーザー数が実質1700〜1800万IDくらいで、GREEとモバゲーが1500万IDとかで、結構接戦なんです。最近、GREEがモバゲーを抜いた。
さやわか:そんなに競ってるんだ!? 凄いですね、GREE。「無理やりテコ入れでCMを打ちまくってるな。しかしこんな気持ち悪いペットのゲーム誰がやるんだよ」みたいに思っていました(笑)!
ばるぼら:そんなのは一部のひねくれたPCユーザーですよ(笑)。
さやわか:ああ、そうなんだ。しかしボタンを押すだけみたいなゲームばっかりに見えるんですけどね。モバゲーもそうなんだけど。
ばるぼら:ゲームというのは我々PCユーザーが思っている以上に訴求力があって、別に日本だけの現象でもなく、海外のFacebookで展開してるZyngaは1億ユーザー超えてます。だから今度ゲームが話題になるんだったら、SNS向けじゃなくてTwitterみたいな場所でのソーシャルゲームが流行るんじゃないか、とか思いますね。モバイルユーザーが今後増加するという前提ですけど。Twitterに診断結果を簡単に投稿できる性格判断サイトみたいなのがいくつかありますけど、そういうのみんな抵抗ないみたいだから、もっとお金儲け考えて戦略的に打ち出すゲームサービスが増えるんじゃないかとなんとなく予想してるんですけど。それで思いだすのが、オンラインゲームの独特のコミュニティ感というのは、2000年代に生まれた感じがしましたね。具体的にはラグナロクオンライン。よく見てるいくつかのサイトが急に更新しなくなって、どうしたんだろうと思ってたら、みんなずーっとラグナロクやってたという。
「ラグナロクオンライン」トップページ http://www.ragnarokonline.jp/
さやわか:確かにラグナロクもゼロ年代(2002年12月運営開始)でしたね。ラグナロクはまず見た目的にそれまでのネトゲーと決定的に違いましたね。アニメ・ゲーム的な嗜好に完璧に合致するビジュアルだったことで、オタク的なユーザーが「二次元キャラの姿をまとって仮想世界でコミュニケーションする」という欲求を果たせるようになった。それまでのネットゲームは、あそこまでオタク文脈に依ったものではなかった。ウルティマオンラインとか、ネトゲ廃人みたいなものを生んだゲームは多かったけど、ラグナロクは没入するきっかけがちょっと違いましたね。
ばるぼら:あのキャラクターの二次元的なところも愛くるしい。
さやわか:こんなに萌えっぽくていいの!? みたいな。あれを作っているのが日本のメーカーではないというところも何かが変わってしまったという不思議な感覚がありましたね。
ばるぼら:それで話題になって、これまでとは違う独特のコミュニティを生んでいるなあと感じて。それもまたケータイに近いというか、モバイルユーザーとは違うんだけども、やはりこれまでのネットとは別のコミュニティがそこで作られているなという。
さやわか:あのあたりからネットのコミュニティは一枚岩ではなくなってきているんですね。
ばるぼら:2000、2001年くらいまではぎりぎり、自分の本みたいな感じでなら歴史を一直線で書くことは可能だったかもしれないけども、もう絶対に不可能。『教科書〜』ではケータイもオンラインゲームも切り捨てたけど、今はもうそれじゃあ歴史じゃない。そこから始まってるものがいくらでもある。本当に独自のコミュニティが各地にどんどんできたのが2000年代でしたね。
さやわか:それぞれのプロトコルベースでコミュニティが作られる? ああでもプロトコルベースとも言えないのか。
ばるぼら:インターフェイスベース? ブラウザ以外の独自ソフトや、別のプロトコルを使ってるサービスで成功するのってほんとに難しいと思うんです。それでWinnyを除外すると、数少ない成功例が、オンラインゲームであったり、iTunes Storeなんですけど。ブラウザじゃないソフトを通してみんなが使っているのは、ちょっと驚愕。iTSはしかも、そこで独自のコミュニティを築いているわけじゃなくて、普通にウェブやってる人たちが使っているなという感じがするものですよね。

■レッシグ2.0

さやわか:あとゼロ年代に流行ったものとして「ウェブ2.0」がありますね。しかし、真に流行ったのは結局「ウェブ2.0」じゃなくて「2.0」ですよね。こないだある人が「最近なんでも2.0で、こないだは『演劇2.0』っていうのを聞いた」って言ってました。それはもう、少なくとも「ウェブ2.0」とはなんの関係もないだろう、みたいな(笑)。なんか超えてる感を出したいときには2.0なわけですよ。しかし2.0って言葉は流行っている理由とは別かもしれないけれど、個人的にはわりと支持したいです。要はここにバージョンに対する意識があるっていうのがいいですよね。「○○2」ではなく、「○○2.0」だから、ここには小数点以下という微々たる変化の積み重ねがあってメジャーバージョンアップがあるという連続性と履歴性に対する配慮があるはずなんです。だから好きですね。旧来的なものを現在にマッチさせるためにどう中身を変えるかとか、あるいは意味づけを変えるかということを意識するのが2.0の思想だと思うんですよね。まあ、意味を考えずに雰囲気だけで使っているものも明らかに多そうだけど(笑)。
ばるぼら:面白かったのは2.0が流行ったその半年後くらいに「次は3.0が…」って言いだす人がいましたよね(笑)。そういう風に使われちゃうんだみたいな。3.0が出てきたときに2.0やばいなって思いました。
さやわか:3.0は2.0が持っていたような意味合いを全く理解せずに、単に「○○2」とか「新○○」と同じものとして考えているわけですよね。
ばるぼら:まず2.0をうまく説明できてなかったと思うんです。Amazonとかを話題にしてたけど、Amazonなんか超一元管理のサービスだし。あとmixiとかも。2.0といっておきながら、2.0で成功した企業はほとんどなかったという、あの時点での非常に説明の下手な感じ。
さやわか:ロングテール云々といっても結局Amazonとか楽天が勝つわけでしょみたいなことですからね。カール・ステッドマンが言ってたマイクロセレブが云々とかは話としては面白いけど、それって同人作家になってがんばろうみたいな話じゃないの? という感じになってしまう。
「ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる」著者=梅田望夫 発売元=筑摩書房 発売=2006年2月7日
ばるぼら:そういう話をしてた『ウェブ進化論』はすごく話題になりましたよね。
さやわか:2006年ですよね。個人的に梅田望夫さんの語り口にはいつも思うんですが、ずっと昔から一定層いるインターネットのいい人というか、あ、こういう風にネットに夢見る人っていたよねーみたいな感じなんですよね。だから彼が「日本のインターネットは残念」って言うのも当然なんですよ。彼にとって日本のインターネットは疑いようがなく残念なんです。
ばるぼら:無数にネット関連本はでてましたけど、ワタシはレッシグの『CODE』以上に衝撃を受けるものはなかったですよ、ゼロ年代は。悪いけど。
さやわか:そんな庵野秀明みたいなことを急に言い出して(笑)。だってそりゃそうですよ。『CODE』に書いてあった通りになったーなったーと言い続けていたような10年だったわけだから。
ばるぼら:ほとんどの本があれのバリエーションだった。その時々の話題になったものを『CODE』のアーキテクチャに当てはめるという。本の話をしようと思ってたんだけど思いつきませんでしたね。
さやわか:ばるぼらさんの本面白かったですけどね。
ばるぼら:ああ、あの噂の! お目が高い!
さやわか:いい本ですよ。
ばるぼら:でもこの前大学生の人に「ばるぼらさんってインターネットとかやってるんですか?」って言われました(笑)。
さやわか:いいことじゃないですか(笑)。ばるぼらさんが「インターネットの人」みたいに、というか一定のジャンルにのみ深くコミットしている人みたいに言われるのは僕はどうかと思うので。
ばるぼら:もちろんそれは非常にいいことなんですけどね、4年でそうなったかと(笑)。思ったより早かったなあ。
さやわか:確かに早いですよね(笑)。

■What are you doing? → What's Happening?

さやわか:Twitterについてはさっきも話題にしましたけど、ちゃんと語られていない部分がたくさんあって不思議です。僕がよく思うのは、あれが不安定なサービスなんだという話をもっとみんなすべきだなと。Twitterが不安定でみんな怒ったりしているけれど、あれは実は不安定だからいい、というか不安定さを提供してるサービスだよなと最近よく思います。
ばるぼら:あの不安定さというのは非常に重要で。あそこで完全にプライベートなことをやると外部に流れてしまうかもしれないという恐ろしさがある。「Dしました」のDもね、他の人のタイムラインに見えてたりとか。そういう恐ろしいエラーがよくあるの。
さやわか:Twitterのダイレクトメッセージで重要なこととか絶対かけないなあー。
ばるぼら:だからあそこは、どれだけ非公開にしていても、完全にプライベートにはできないということを、運営側が不安定さをもって示す恐ろしいサービス(笑)。
さやわか:あのインフラの敷き方はすごいですよ。みんな怒っているんだけど、僕も一番最初にTwitterに触ったときは、なんか不安定かつ意味不明なサービスだなと思ったんです。投稿したのに内容が画面に表示されなくて意味がわからない(笑)。普通だったらそこでリロードがかかるわけじゃないですか。なのにかからない、どうなってんのみたいなことを思った。しかしあれはそういうひどい拙さでもってユーザーに快適ならざる環境を与えて、投稿以外のことがほとんどできないように仕向けているように感じる。しかもすごいのは、たぶんTwitterの開発者はほとんどそんなことを意図していない、多分に天然の香りがするところなんですよね。
ばるぼら:普通だったら、パーマリンクで飛んだときに、前後のメッセージに辿れるべきじゃないですか。タイムライン上でしか文脈が読めないということになっている、ということで納得したんですけど。だからハッシュタグとか文脈を補完する機能が追加されるのは実は後退してる気がして。このまま行くと普通のサービスになっていくんだろうなと感じてる。
さやわか:しかしハッシュタグとかReTweetも、ユーザーが勝手にでやっていたことをあとから取り入れてるだけなので、なんていい加減なサービスなんだろうと思います。本当にこれ作ってる人たちいい加減だわ、というのが多々あって、快適さとか合理性にはギリギリで奉仕しないわけのわからない不安定さがTwitterを支えていると思います。そしてTwitterのスタッフが変なのは、常につまんないところをいじってるでしょう。画面の一番下にあるボタンを押したら次の投稿が画面切り替えせずに見えるか見えないかとか、そこに表示する文字を「Next」にするか「次へ」にするかとか、心底どうでもいいところを。そのくせトップページの投稿欄の上部に表示されていた「いまなにしてる?」という言葉が「いまどうしてる?」に変わったじゃないですか。ああいうサービスにとって本当に大事かもしれない部分を平気で変えたりするんですよ(笑)。
ばるぼら:Twitterの真の即時性は、スタッフ側が唐突に変え始めるという、そういう即時性(笑)。
さやわか:メンテナンスの日付けとかは出てるけど、いつどうやって何が終わったんだかさっぱり分からないし。そしてサイトデザインの変更は予告なしに勝手に変わってるし、とにかくめちゃめちゃですよね。あの定着することを拒む感じはすごいなあ。

■ラブプラスマイナスゼロ

「ラブプラス」発売元=コナミデジタルエンタテインメント  発売=2009年9月3日
ばるぼら:ラブプラスやったんですよね。
さやわか:ラブプラスやりましたよ。
ばるぼら:どうでした?
さやわか:えーと、別に話してもいいけど、インターネットに関係ないですよ(笑)。
ばるぼら:(笑)。インターネットで話題になったということで。
さやわか:なるほど。インターネットで話題になったゲームということでね。そう考えてみると、ちょっと関係があるかも。つまりですね、これはいろんな人に言ってることなんですけど、日本のネットの一部にはエロゲーの女の子の誕生日にエロゲーの画面を表示して、その前にケーキを置くという文化があるじゃないですか。それをコナミという凄まじいハイクオリティなすばらしいゲームを作る会社がカジュアル化したゲームですね。ああいうふうに一般層に浸透させるのがコナミは本当にうまくて、怖い会社だなあと思います。つまりですね、あれはゲームじゃないんですよ。ゲームだけど。
ばるぼら:ゲームだけどゲームじゃない(笑)。夢だけど、夢じゃなかった(となりのトトロ)。ゲーム性ってことですか。
さやわか:僕がプレイしてて途中で気づいたのは、「ラブプラスってこういうゲームでさー」って人に話すと、みんなすごいニコニコしながら「いやいや、それはさやわかさんが女の子と付き合うときにそうなんでしょう?」みたいなことを言うんですよ。たとえば、リアルタイムでキャラと会話するのとかダルいからスキップモードみたいなのにして、連続300日分くらい毎朝毎晩彼女にメールを送り続けるわけですよ。どっちみち彼女に振られることはないのでほとんど単なる修行であって、それが本当に苦痛だという話をすると「さやわかさんは、苦痛だと思いながら彼女にメールを送り続けるんだー」とか言われちゃうんです。で、300日分くらいやってるとだんだん会話がパターン化してくるので、「さすがに同じこと言うようになってきた」とかいう話をすると「女の子というのは前にも聞いたことのある話をするものだから」とか、僕が堪え性がないみたいに言われる。それでずっと「あれー?おかしいなあ」と思ってたんです。僕はゲームとして、フィクションとして作品と向かい合ってプレイし、作品の話をしたいのに、なぜかみんなには僕の話をされるんですよ。しばらくそういうことがあってようやくわかったのは、あのゲームが恋愛シミュレーションゲームだとして、そのシミュレーション対象にされているのは、恋愛でも女の子でもなくて「自分」なんだってことなんですよ。僕が恋愛に際してどう行動するのかみたいなことをパフォーマンスする。それ自体がゲームとして機能しているわけですよ。ケーキを画面の前に置くことの一般化っていうのはそういうことで。
ばるぼら:エロゲーの楽しみ方が大衆化したと。キャズム超えたと(笑)。
さやわか:キャズム超えた(笑)。もちろん、たった一人で部屋の中だけでプレイしてDSを抱きしめながら眠る人もいるとは思うんだけど、ネット一般にはラブプラスに没入する自分をパフォーマンス化する方がプレイスタイルとして認知されている。自転車旅行にDS持っていくとか、DS持って富士登山に行くとか、それをやるだけだったら全然なんでもないようなことであっても、キャラへの愛ゆえにこんなことやっちゃいましたということで面白がれる、そういうかたちのゲームになっている。逆に言うと、あのゲームのストーリーがどうだとか、三人の女の子のキャラクターがいわゆるベタなものを持ってきてるからどうだとか、そんなことを言ってもまったく意味がないわけですね。わざとベタにしてるんだし、そのベタな三人がいたらどれを選ぶかとか、その三人が現れたときに自分がどう行動するかを告白するためのゲームになっているのだから。そういう意味では心理テストと似ている。ネットのようなものを通じてユーザーが自分がどんなふうに行動したかをみんなに教えることが半ば折り込み済みになっているゲームじゃないかなあ。
ばるぼら:ラブプラスはパッケージがいいですよね。パッケージに女の子がいない。だから一般向け狙ってるんだなーと思って。基本的には恋愛ゲームの攻略される側に自分がなるんですよね。
さやわか:前半はそうです。攻略される側になって、告白される状況になるんだけど、一回エンディングが出るんです。それまでは「ときメモ」そのもの。なんだこれ「ときメモ」じゃんって思ってたら、いきなりそれが終わって、終わらない夏休みみたいなのがはじまる。終わらないから、ただやってるだけじゃ本当につまんないんですよ。何にも起きない。毎日電話してデートしてっていうだけのめんどくさい作業なんですよ。いわば。で、めんどくさいからやめたんですが、そうすると「さやわかさんは女の子と付き合うのがめんどくさいんですね」みたいなことを言われてどこまでもややこしい(笑)。
ばるぼら:現実と虚構の区別がつかない感じで、非常にいいですねえ(笑)。
さやわか:でもそれで思ったのは、ああいうゲームが発売されて、それが普通に受け入れられるほど、自分をキャラ化するということが普通になってきたんだなということです。前回言ったナラティブなもの、他人を「泣かせる」とか「笑わせる」ためのコンテンツを成立させる素材として「自分」というものを当たり前のようにみんな使うようになっている。それは「踊ってみた」「歌ってみた」みたいな動画もそうだと思うんですけど。コンテンツの素材になるものには動画とか絵とか音楽とかもあるけれども、自分自身も使う。VIP板の安価スレとかもそうだと思うんですよ。あれは自分を使って自分をコンテンツにするわけですよね。それがどんどん盛んになったのがゼロ年代後半なんだろうなと。そういう意味でもインターネットの主役はユーザー側に移ってきてるんだなという気がします。個々のサービスは莫大なデータを扱うようになっているけれども、それをコンテンツ化する手つきは意外にも鮮やかではなくて、サービス上で何をすればみんなで面白がれるかということを人間が考えて次々にコンテンツを生み出している。そこではサービスは場を提供する大事な存在だけれども、遠景化していて、主役ではない。

■10年の歳月が変えたもの

さやわか:さて、この対談のまとめのような話題を。
ばるぼら:10年前と今で、ネットがあることで生活が変化した部分はあるか?
さやわか:ネットがあるのが当たり前になってしまったために、10年前だったら考えられないけれど普通にネット環境が使われている場面が増えているはずなんですよね。僕が今パッと思いついたのは、ゲーム機にネット機能が普通に搭載されるようになって、たとえばNintendo DSとかWiiとか、比較的ライトユーザー向けのハードにも「無線LANで繋いでくださいね」みたいなことが書いてあって、実際みんな繋げるんですよね。全世界で1億台とか売ってるDSで「ネット機能使いなさいよ」と言って、ユーザーが特に目立って不平を述べることもなく使うっていうのは、10年前がどんなにIT革命と言われようとも考えられなかったように思います。
ばるぼら:ピピン@もドリームキャストもあったけども、まだあの頃はパソコンを導入するかドリームキャストを導入するか、みたいなレベルの話なんですよね、比較としては。
さやわか:ドリームキャストなんかは回線も込みで買わせるような形式だったんだけど、今のハードは使用する環境にネットがあることは当たり前だから、それを使って繋いでね、みたいになってますよね。いまはテレビとかにもLANケーブルを挿すところが普通についてますからね。インターネット来てるでしょみたいな。
ばるぼら:番組表をダウンロードして録画予約したり。
さやわか:そうそう。そういうことをネットでできるんだというのが一般に知られてきた。でも、これが10年前だったら「まずはウチのプロバイダに入りなさい」的なことがテレビのマニュアルには書いてあったかもしれない。今はそうじゃないんですよね。引いてる回線を使えとしか書いてない。インフラ自体はどんなものなのか意識されないようになってきて、ISPの存在感が次第に希薄になってきている。たぶん10年前はまだテレビでISPのCMとかやっていたと思うんだけど、今はネット系企業のCMはケータイとかDVDレンタルとかグーグルとか、インフラを前提として提供されるサービスのものばかりになっている。ケータイと言えば、iPhoneも非常にネット使用を前提とした機械ですよね。僕が使ってみて思ったのは、これはケータイにネットが付いている訳じゃなくて、ネット端末にオマケで電話がついてますみたいなものだなってこと。
ばるぼら:成り立ちの順番から考えるとね。iPod touchに電話がついてるよっていう。
さやわか:そう。「電話も使えるけど、電話機としてはショボいからね」みたいな機械。でも道に迷いそうになったときにパッと路上でGoogle Mapを見られたりしても、もうあんまり驚きもないんですよ。「iPhone超すげー!未来きたわー!」みたいには思わない。ウェブ地図見られるから見よう、ぐらいの感じになった。それが本当に普及するということですよね。
ばるぼら:未来感ならQRコード読み取るときの方が感じましたね。ちょっと前に京都に行ったときにバス停にQRコードが貼ってあって、読み込んだらバスの時刻表が出てきたんですよ(笑)。
さやわか:それすげー!カッコいい!未来だ。僕も電柱に貼ってあるQRコードを読み取ると出会い系サイトに接続されるというのを知ったときにはサイバーパンク的な未来を感じましたよ(笑)。まあ、そういうQRコードみたいなサービスとかも一般の人が普通に知ってるわけですよね。ネットで何ができるか、みんな分かってきている。地図サービスだって、ネットが来てない頃は「駅すぱあと」がすごいよ、みたいな感じだったんだけど、今はみんなGoogleだのYahoo!だので調べればいいと分かっていて、「駅すぱあと」をわざわざインストールしないじゃないですか。
ばるぼら:残念ながら、もはや我々インターネッターの方がエキスパートであるという……。時刻表はキャズムを超えたと言っても過言ではないですよ。
さやわか:ばるぼらさん今日キャズム超えすぎですよ(笑)。

■Kindleがあれやそれを滅ぼすか?

ばるぼら:iPodやNintendo DSに代表されるガジェット、パソコン以外の端末でインターネットにアクセスするのって、長らくめんどくさいものだったと思うんですけど、割と数年でみんな持ち歩くようになって。次にKindleというのが来るじゃないですか。
さやわか:こないだ文学フリマに行った時に見ましたよ。飯田和敏さんが持っていた。
ばるぼら:Kindle向けのミニコミ出してましたよね。
さやわか:Kindleもすごかったんですが、既にKindle用のミニコミをダウンロード販売している飯田さんがすごいと思いました。この人、早すぎるだろって(笑)。
ばるぼら:会場に何人Kindlerいるんだよって(笑)。3部売れたんだっけ? みんなガジェットさえ開発・普及できるんだったら、そっちで新しいサービスなんかいくらでも思いつくんだけど、ガジェットが盛況になる前はウェブベースの、ブラウザベースの枠の中でサービスをやんなきゃいけないから大変だった。それがいつのまにかガジェット売ってもいいんじゃないの、みたいな雰囲気になってきてる気がします。
さやわか:昔は成り立たなかったはずですよね。
ばるぼら:今はわざわざ専用端末を選ぶ。また単一機能のものをみんな使い始めるのかな。もちろん後から色々ついてくるけど。
さやわか:オールラウンドで使える強力なPCの時代から、単機能の端末を分けて持つ時代が来つつあるのかなという感じはしますね。かといって、だからKindleが成功するかといったらそれはわからないわけですが。
ばるぼら:Kindleというのも……あー思い出したクソー! Kindleが電子出版で騒がれてるじゃないですか、「出版の未来がここに」って話で。で、ワタシが知ってる範囲では出版の未来の方向性って二つあるのね。ひとつはケータイコミックやKindleとかに代表される電子書籍のほう。もうひとつは、普通の印刷会社というのは今後どんどん大量部数のものを印刷する機会が減っていくから、小部数で利益の出るものを考えてなくてはいけないということで、オンデマンド印刷とか、小部数向けの印刷コストというのがどんどん安くなってるんですよ。今そっち側に印刷会社が投資してるんです。で、Kindleばっかじゃなくてオンデマンド出版みたいなものにも目を向けたほうがいいんじゃないの、みたいなことを金髪豚野郎こと津田さんに言ったらだね、数時間後に「これからは紙だよ紙、Kindleなんてクソだね」っていう風に翻訳されてTwitterに投稿されてですね!
さやわか:ばるぼらさんはアナログ派人間であるかのように書いてありましたね(笑)。そうではないんですか。
ばるぼら:違うよ。全然違うよ! Kindleと印刷会社が見てる小部数出版と両方に目を向けておかないと面白くないよみたいな話をしたのに!
さやわか:全然違うじゃないですか。たぶん、津田さんは140字制限に合わせてニュアンスを調節したんですよ。そういうニュアンスを汲み取ってtsudaったんですよ!
ばるぼら:マスゴミならぬツダゴミですよ!
さやわか:「要するにお前はアナログ人間だからこういう意味じゃん?」みたいな?(笑)
ばるぼら:非常に不愉快だった! その後に「ばるぼらさんってほんと紙好きなんですね」みたいに別の人に言われてウンザリ(笑)。何の話だっけ……。なんかKindleの発想がPDF的に見えて、今まであんまりPDFが普及したことがないからイメージできないんですよね。テキストデータを携帯電話で読むみたいになるのが主流になるとずっと思ってたせいですけど。
さやわか:僕もそう思ってましたね。つまりは青空文庫ですよね。
ばるぼら:紙の発想でレンダリングされても解像度の問題があるし、我々がメール見たり携帯小説を読んだりする感じで、普通のテキストデータのように扱えないと、んで読めないと、最終的にはめんどくさいんじゃないかと思う。それと、ケータイでマンガ読むのが流行ってるのは場所とらないっていうのもあるけど、インターフェイスが片手で済むっていうのもあると思うんですよ。だからKindleだからこそ流行るメリットがまだ見えない。便利っていうならScanSnapとOCRの手作り電子書籍の方が便利。
さやわか:みんながKindleに注目してるのは、僕にはAmazonがやってるからのようにしか見えないんですね。Amazonが動いたぞみたいな。それだけAmazonというのがすごく浸透しているということなんでしょうね。Googleもこれだけ浸透しているから、電話作ったら「Googleが電話作ったぞ」みたいなふうに言われるし。「Google日本語入力」とかも使ってみたけど、これって普通に「Social IME」と同じじゃんと思ったんですよね。
ばるぼら:なんでそれを大きな話題にしているかというと……。
さやわか:Googleが作ってるから。それだけGoogleとかAmazonというのが大きな存在になった。
ばるぼら:GoogleとAmazonの新サービスに詳しいとすごい感じがするんでしょうね。
さやわか:ホンダ、トヨタ、ニッサンじゃないけれど、GoogleやAmazonみたいなウェブの大企業がみんなの注目を引く存在になっているんですね。逆に言うとトヨタやニッサンみたいな会社もウェブ上ではGoogleを頂点とするようなウェブの環境に追随せざるをえないようになっている。10年前くらいなら独自でネットワークだのプロトコルだのクライアントだのを作る企業もまだ多かったけど、今では企業が使うインフラとしてもインターネットが欠かせなくなってる。その最たるものは「詳しくはウェブで」ですよ。昔はURLを書いていたのが、今の企業広告とかは四角の中に文字列が書いてあって、その横に「検索」って書いてあるボタンを置くだけで、みんな何のことかわかるようになってる。みんなのインターネットのイメージってあれなんですよね。検索欄からスタートして何かを見に行く、「詳しくはウェブで」の「詳しく」の部分を見にいくものとして理解されている。そうやって既存メディアがカバーできない部分を補完するものとしての認知度は極めて高くなってるはずです。
ばるぼら:あれも独特の文化で。CMの動画には一秒までしかURLをのっけちゃいけないという制約があった時期があったんですね。それで代わりにキーワード検索、コレで検索してくれっていうので、ああいうのが生まれて、今ではそういう文化になったという。
さやわか:なるほど! そういう経緯があったんですね。しかし、今は完全に定着してますよね。「詳しくはウェブで」の「詳しく」の方も、企業サイトが人を誘い込むために作り込むのが普通になっていますしね。昔は「映画のサイトはトレーラーが見られるからすげえ」くらいだったけど、今はしっかりした動画が見られる程度ならたくさんある。

■「ネットがテレビやラジオを駆逐する」?

さやわか:今後のネットにはどういう方向性がありえるんですかね?
ばるぼら:それは例えば個人サイトの方向性ということですかね……。今はホントにみんなブログを更新しなくなってるじゃないですか。
さやわか:Twitterのせいでね。
ばるぼら:意外とブログが廃れたりするのかしらという、若干の不安がありつつ。今までずっとブログしか書いてない人たちだけが残っていく。もしくは長文書く時だけブログになって、ちょこっと面白いこと書くっていうのはどんどんTwitterに流れていく。
さやわか:それはよくないことだと僕も思う。ちょこっと面白いことを書いてた人たちがたくさんいるから面白いというのはあるので、ぜひ続けてほしいんですけどね。でも、みんなインターネットで表現活動をするときのモチベーションなんて意外と曖昧だったりするんですよね。そもそも自分は表現活動をしてるとは全く思ってなかったりするんで、当たり前なんですけど。そこで頑固に「いやいや、おれはこんなことではだめだ、Twitterなどに流されてはいけない」みたいなことは思わないことが多くて、案外簡単に「もうTwitterしか見てないや」になってしまう。Twitterにしかできない表現があるように、ブログにしかできない表現もあるので、もったいないことではあります。
ばるぼら:その人の活動の中心がどこにあるのかが見えづらくなりましたよね。昔の個人サイトはとりあえず日記と掲示板を読んでれば大体把握できた気がしたけど、今だとブログ読んで、ブックマーク見て、mixiの日記読んで、Tumblrチェックして、Twitter更新見て、場合によってはpixivのID見て、ラジオ聴いて……って大変。あ、あと大きい話をすると、テレビとか新聞とか「マスメディアどうなるんだ」話ですね。イギリスでついにインターネットの広告費がテレビの広告費を抜きましたが。
さやわか:そうなんですか! イギリスのテレビはあまりにも品がないというか通俗的なので、前からマスメディアとしてどうかみたいに言われてたと思うけど、それでもすごいですね。
ばるぼら:日本でも広告費がラジオを抜いたときにちょっとびっくりして、雑誌を抜いたときにもうウワーッとなりましたよね。新聞超えるのはほぼ確定だし、もう次はテレビしかない!という感じがあるじゃないですか。その波に、地デジがいかにもヤバい影響を与えそうだという。
さやわか:ただ「ネットがテレビやラジオを駆逐する」みたいなふうに次の10年でなるかというと、僕は当然ならないと思うし、完全になくなりはしないんだろうなと思うんです。今でも覚えてるんですけど、1989年ぐらいにたまたま美容室で『ホットドッグプレス』を読んだら「次の10年で何が起きると思いますか」という質問に識者が「ワープロが普及して、書くという行為がなくなる」と答えていたんですよ。で、僕は当時から「それはないだろう」と思ってたんだけど、案の定そんなことはなかった。それと同じで、インターネットが好きな人とかスゲーと思ってる人はしばしば、コレによってもう紙のメディアなくなるよ!とか、テレビ終わったわみたいなことを言うんだけど、そんな二項対立の構図自体がネット的ではない。テレビが登場してもまだラジオだってなくなってないわけで、メディアはそれぞれの役割と需要を得て、相互補完的に残っていくでしょうね。
ばるぼら:音楽でたとえると、この10年で音楽がどれだけ進化したかはわからないけど、音楽自体より、リスナーのリスニングの仕方にものすごい変化が起きましたよね。そういう視聴スタイルの変化はHDD内蔵になってからテレビにも起きてて、今後10年で決定的になるんでしょうけど、だからといってテレビがなくなるというわけじゃない。
さやわか:レコードが厳密にはなくなっていないように、CDだってなくならないですよね。CDのリリースが完全になくなったとしてもリスナーはいるだろうし、配信みたいな形で音楽を聴くという行為自体は残るだろう。だからCDが売れないことは音楽の存亡の危機だみたいに言う必要はないのかなと。
ばるぼら:CDっていうのは一番すばらしいメディアですよね。コピー制限がないまま成功した唯一のデジタル・メディア。その後に出たMDやDVDはコピーガードやら制限があるわけじゃないですか。デジタル著作権保護とか。そうじゃないデジタル・メディアとして非常に優れている。だからCDっていうメディアは、著作権の意識が完全に変わってしまったときに、ようやくなくなるのではないかと。つまりCDがなくなるのはずっと先じゃないかという気がしてます。
さやわか:なるほどね。それは面白いですね。
ばるぼら:だからコピーフリーなものの最後の牙城がCDなので、それがなくなるというのは想像ができない。DJの現場からレコードがどんどん消えてるような、そういう意味のなくなり方はするかもしれないけど。
さやわか:タワーレコードがバンバンつぶれてタワーレコードという企業がなくなったらこれはもうヤバいんです、みたいなことは常々言われますけど、もちろんそこで仕事をしている人にとってはヤバいかもしれないけど、文化的にヤバいかどうかといったら、形が変わっても保たれてるのだから。大丈夫かなと。音楽を聴くという文化がなくなるんだったら大変だろうと思うけど。
ばるぼら:音盤=音楽じゃないですからね。

■コンテンツ・コミュニケーション・コネクション

さやわか:こないだ、たまたま女子中学生に話を聴いたんですけど、彼女たちはCDなんて買わないんですね。配信で、しかも曲単位でしか買わない。お小遣いが制限されてるから、あらかじめほしいと思っていた一曲を親の携帯電話でダウンロードして、それをCDに焼いて学校でみんなに配ると。デジタルネイティブすげえ!と思いましたね。そこにはカジュアルコピーが云々とかいう発想はまったくないんですよ。著作権への意識より前に、お小遣いをどうするかという問題の方が彼女たちには切実なんです。で、彼女たちにとってニコニコ動画とかYouTubeとかは、かつてのテレビや雑誌などのメディアを総合したもののように機能してるんですね。例えば『さよなら絶望先生』とかアニメが流行っているので、それを動画サイトで見る。劇中の会話の元ネタを有志が作成したWikiで見て知る。それで次の日学校に行って「あの動画見たよ、面白かった!」と言って盛り上がる。友達とのコミュニケーションの背景にあるメディアとして、かつてのテレビや雑誌のかわりにネットが使われている。
ばるぼら:非常に便利ですね。昔だったら、昨日見た?っていわれても、もう見れない。
さやわか:昔だったらありえなかったことなんだけど、よく見るとやってることの核は本当は友達との会話にあるというのは昔と一緒で、用いられるメディアがネットになっているんだなと。
ばるぼら:この10年はロックフェスが盛況だったことで、今後はライブが中心になるとかいうじゃないですか。あれはどうでしょう。本当だと思いますか?
さやわか:ライブが重視されるというのは分かります。ライブというのはすごくわかりやすくナマの実感みたいなのを伝えやすいので、もてはやされるとは思うんですけど、だからといって部屋で音楽を聞くという行為がなくなるとは思わないけどなあ。
ばるぼら:ライブがオフ会的になってるって話があって、ライブに行くっていうのは、誰かが行くから行くっていう感じ。昔からあったのかもしれないけど、何かイベントがあるということによって、例えばTwitterやってる人たちが、そこに集まってオフ会的な気分でライブを見る。要するに音楽とか、本来の目的というのがサブコンテンツになってる。
さやわか:なるほど。ハレの空間ぽい。それは電機店の安売りでビデオデッキが千円になるから朝から寒い思いして家族総出で行列するけど、本当にビデオデッキがほしいかって言ったら全くほしくはない、そういう感じに近いですね。
ばるぼら:ドラクエの、列に並ぶのに参加したい。
さやわか:並ぶこと自体がイベント性を帯びている。
ばるぼら:イベントに行くこと自体がコンテンツでありコミュニケーションであり……みたいなね。この10年は特にそんな感じだったなと思って。
さやわか:特にネットを中心に捉えるとコミュニケーションのほうが重要なんですよね。もっとも、その傾向がとりわけ注視されたのはゼロ年代半ばまでだと僕は思っていて、後半にはコンテンツはコミュニケーションのツマだから何でもいいんだよというふうにいわれがちだったけど実はそこでみんなを一つに束ねているのだというふうに、「泣ける」とか「笑える」みたいなコンテンツの重要性が再確認されているように思います。
ばるぼら:やっぱりつまんないコンテンツだとみんなが集まりづらいんでしょうから。ある程度のクオリティというのは絶対に必要、なのだが、しかしそれだけが単一で目的とされる機会はもう少ないのかもしれない。
さやわか:今のところ要請されないでしょうね。どんなに質が高くてもみんなを束ねてくれるものじゃなかったら、いいとは言われないんじゃないですか。
ばるぼら:コンテンツとコミュニケーションとコネクションの総合的な価値でね。
さやわか:そして、そのコンテンツとコミュニケーションとコネクションを流通・成立させる巨大な場として、10年代のインターネットは90年代よりもゼロ年代よりもさらにさりげなく、しかしかけがえのないものとして存在していくのでしょうね。
構成・文=ばるぼら・さやわか

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ばるぼら ネットワーカー。周辺文化研究家&古雑誌収集家。著書に『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』『ウェブアニメーション大百科』(共に翔泳社)『NYLON 100%』(アスペクト)など。『アイデア』不定期連載中。
「www.jarchive.org」 http://www.jarchive.org/
さやわか ライター/編集。『ユリイカ』(青土社)等に寄稿。『Quick Japan』(太田出版)にて「'95」を連載中。また講談社BOXの企画「西島大介のひらめき☆マンガ 教室」にて講師を務めている。
「Hang Reviewers High」
http://someru.blog74.fc2.com/
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