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『コボちゃん(1)』 著者=植田まさし 出版社=蒼鷹社 発行=1982年12月1日

特集『四コマ漫画とその周辺』
四コマ漫画の巨匠・植田まさしを読み解く!
来るべき植田まさし批評のために


シルバーウィークにWEBスナイパーがお届けした特集記事「四コマ漫画とその周辺」、特集の最後は、偉大なベストセラー作家・植田まさしにばるぼら氏が迫ります!
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ワタシはおそらく世界に八千万人はいるであろう植田まさし研究家の一人である。植田まさしが現代漫画史において笑いのホームラン王であることは言うまでもないが、しかし漫画批評の場において正当に評価されているとはとても言えない。最近出た清水勲『四コマ漫画 北斎から「萌え」まで』(岩波新書)を見ても、アイデアの多様さ=継続力に絞った評価で作家性には踏みこまない。だがこれはまだ良い方で、大半の漫画解説書には植田の名前すら出てこない。

植田は語る価値がないのだろうか? とてもそうは思えない。日本で唯一1000万部を超える発行部数を誇る読売新聞の看板作家であり、日本中のどの書店やコンビニにも、植田が関わる単行本や雑誌が存在する現状を見て、何の意見も持たず沈黙を決めこむことが批評のあるべき態度だろうか? この状況を変えるためにも、まずは植田まさしについての資料の乏しさを改善し、世の中でしかるべき評価を受けるための土壌を準備することが必要だと切に感じる。今回はワタシが将来自費出版予定の『植田まさし大全』のために準備している資料・論考の中から、研究成果の一部を紹介する。(以下、特筆しないかぎり、引用発言はすべて植田のもの)

●公式プロフィールを再検討する

まずは植田まさし自身のプロフィールを紹介したい。ウェブで「植田まさし」を検索すると、既にWikipediaに簡略に書かれている。唯一プロフィールが奥付に書かれた単行本『フリテンくん海賊版』などからの情報を中心に構成されているようだ。ほぼ公式情報の引き写しといっていい。Wikipediaから抜粋する。

本名:植松正通(うえまつ・まさみち)/1947年5月27日生まれ。都立田園調布高校を経て、1969年、中央大学文学部哲学科卒業。東京都世田谷区で生まれ、香川県木田郡三木町で育つ。/大学卒業後、カメラマンを目指して東京写真専門学院に通うが、 「志なかばで性格的に不向きだと判断した」ために中退。 兄の学習塾を手伝いながらギャグ漫画を書き始める。/1971年、「ちょんぼ君」(週刊漫画TIMES)でデビュー。1982年4月1日から読売新聞朝刊に「コボちゃん」を連載。同作品は、2004年12月1日付から、日本の全国紙の四コマ漫画で初めてカラー化(海外衛星版は除く)された。
「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 - 植田まさし」より引用
補足すれば、戦後すぐ、東京・世田谷区奥沢のサラリーマン一家で生まれた植田まさしは、三人兄弟の末っ子であった(註1)。父親(註2)の故郷である香川県の讃岐方面では長男を「ぼうさん」と呼び、二男・三男を「こぼさん」と呼ぶ。父親はまさしを「こぼちゃん」という愛称で呼んでいたという。5歳の幼稚園児を主人公にした「コボちゃん」は、本人の昔の姿かもしれないが、「心の中でいろいろなイタズラを考えたが、気が弱くて実行できなかった」という本人の発言があるので、実際はかつての自分をモデルにした空想上の子供像か。

話を戻す。四年生まで奥沢小学校、転校して大田区東調布第三小学校。大森七中、都立田園調布高校を経て(註3)、一浪で中央大学に入学。社会病理学、コミュニケーション論などを学ぶ。と同時に東京写真専門学校にも通い、報道カメラマンを志望し、大学紛争を追う毎日だった。三派系の学生運動に惹かれたこともあったが、全国全共闘の集会で赤軍派に一掃された姿を見て、セクトに対する幻想が剥がれ落ちた。さらにピュリツァー賞をとった戦場写真を見て、カメラの道を捨てる。曰く「自分ならその時、シャッターを押すより目の前の人を助けるだろうなと思って」。卒業後は兄の経営する学習塾で数学・英語を教えながら、漫画誌に投稿。ストーリーものが全盛だったのを見て、逆に四コマを狙った。それが採用され、ついに漫画家の道を歩み始める……と、ここまでが漫画家以前の植田まさしの経歴となる。

問題はここからだ。前出のプロフィールによれば1971年に『週刊漫画TIMES』(芳文社)にて「ちょんぼ君」でデビューとある。ところが、実は1971年の同誌のどの号を探しても、植田の名前も作品も見つからない。この経歴は読売新聞の有料データベース「ヨミダス文書館」内「よみうり人物データベース」にも書かれた公式情報であるにもかかわらず、それでも「ちょんぼ君」は掲載されていない。つまり植田まさしという漫画家は、今までプロフィールすらまともに検証されたことがなかったのである。嗚呼、なんということだ!

●植田の本当のデビューはいつか

matiamichi.jpg 引用作品:『花束』
引用媒体:『週刊漫画TIMES 増刊号』
1971年10月28日号/「衝撃マンガ2題」より
著者=まちあみち 出版社=芳文社
では本当のデビューはいつなのか? これがややこしいのだが、解決の糸口は『週刊漫画TIMES』の『増刊号』にあった。1971年10月28日号に掲載された、目次には名前が載っていない、とある四コマ2本。ページタイトルは「衝撃マンガ2題」、作者の名前は「まちあみち」。わかるだろうか、植田まさしの本名は「植松正通」。「まさみち」→「まちあみち」という崩したペンネームだ。四コマ2本で1ページ、原稿料は2500円。植田の商業デビューは目次に名前も載らないひっそりとしたものだった。

これがすぐに連載につながったわけではない。この次に植田の漫画が載るのは『別冊週刊漫画TIMES増刊号』。別冊の、しかも増刊号だ。1972年1月27日号に「まち・あみち」による「冬はいじわる」と題した四コマが、4ページに渡って掲載。その次もやはり『別冊週刊漫画TIMES』増刊号で、1972年2月24日号に、まち・あみちの「めざましベルト」というマンガが、1ページだが掲載されている。こうなると新人は増刊号から慣れさせる決まりがあるのだろうと考えてしまうが、そうではなく、この不安定な掲載にはわけがある。

「ぼくが持っていったのは芳文社の『週刊漫画TIMES』ですけど、編集者が預かる形で採用されましてね。といっても今のように華々しいデビューなんかじゃなくて、広告ページが突然空いたときの穴埋め的な扱いですから、1回につき1ページで2本とか、その程度だったんです」(『本の窓』1998年4月号)

巨匠もはじめはページの穴埋め扱いだったのである。そしてこのあと5年以上、『週刊漫画TIMES』には本誌・別冊・増刊のどれにも掲載されていない(他の雑誌に掲載されてるのかもしれないが未発見)。当時の植田は実家住まいで、生活費も塾講師として稼げていたため、漫画家一本に絞る理由がなかった。漫画家になるきっかけは70年代後半、30歳が近づき、親戚から「そろそろ身を固めろ」という声がうるさくなってきたことだ。

ようやく決心を固めた植田は、1976年11月、御茶ノ水に仕事場を借り、本格的に漫画家として活動を開始した。“植田まさし”のペンネームはこの時から名乗りだしたものである。三菱トラックのディーラー用パンフのカット描きなど、イラストの仕事もこなしながら、1979年、ついに「フリテンくん」の連載が決定。その軽妙なネタと質の高さで麻雀漫画に新風を巻き起こし、瞬く間に売れっ子への階段を駆け上がっていく。

●四コマ漫画のニューウェイヴ

『Selectionまさし君(2)』
著者=植田まさし
発行=1999年11月17日
出版社=芳文社
植田の少し前に四コマ漫画「oh!バイトくん」でデビューし一世風靡したのが、いしいひさいちである。いしいの革新性については別の機会に譲るが(植田がのちに「まさし君」でバイトネタを扱ったのは「バイトくん」流行の間接的影響だろう)、いしいの「バイトくん」「がんばれ!!タブチくん!!」と植田の「フリテンくん」の爆発的人気によって、四コマ漫画は従来の大人向け以外の、若者の読者を獲得したといってよい。70年代後半から80年代初頭に起こったこの現象は四コマ界のニューウェイヴといえる出来事だった。

彼らのヒットによって、これまでストーリー漫画の箸休め程度の扱いだった四コマ漫画の地位が向上し、四コマ専門誌の創刊につながっていく。この頃創刊した中では『まんがタイム』(芳文社、1981年5月創刊)と『月刊ギャグダ』(竹書房、1981年8月創刊/1984年10月に『まんがライフ』として新創刊)が有名だろう。当時『まんがタイム』編集長代行だった古島當夫はこう語っている。

古島「なんといっても、いしいひさいちと植田まさしの存在が大きいですね。彼らに刺激された新人たちが、大勢出てきましたからね。(略)そんなわけで、おととしの十月ごろから企画がスタートし、半年ほど検討を加えたうえで創刊にこぎつけたわけです」(『週刊読売』1982年5月2日号)

専門誌以外でもこの時期、各誌で四コマ漫画が掲載されるようになっており、たとえば『平凡パンチ』が1982年3月1日号から原としこ「エグッ子ギャル」を、『週刊プレイボーイ』が1982年4月20日号から芳井一味「勝手にフリーク」を載せはじめた。『週刊現代』『週刊読売』『週刊宝石』などの四コマもこの時期からだ。こうした非・漫画誌が四コマを載せる流れは21世紀の現在まで脈々と続いている(こうした流れが生まれたおかげで桜玉吉も内田春菊もいるのだ)。

『ほんにゃらゴッコ かりあげクン(2)』
著者=植田まさし
発行=1981年5月24日
出版社=双葉者
植田は売れっ子となり、1981年のデータによれば、『フリテンくん』単行本は7巻までで400万部(印税1億6000万円!!)を超えている。80年代の植田の主な連載を列挙すると、「フリテンくん」(『近代麻雀』『ギャンブルライフ』『ギャグダ』)、「のんき君」(『漫画パンチ』)、「まさし君」(『週刊漫画TIMES』)、「キップくん」(『漫画プラザ』)、「ほんにゃらゴッコ かりあげクン」(『週刊漫画アクション』)、「コボちゃん」(『読売新聞』)、「すっから母さん」(『週刊読売』)、「らくてんパパ」(『週刊現代』)、「おとぼけ課長」(『まんがタイム』)、「にこにこエガ夫」(『まんがライフ』)など。

ここで特筆しておきたいのは、麻雀雑誌から『ギャグダ』に移ってからの「フリテンくん」の方向転換である。麻雀専門誌向けに麻雀ネタを描いていた同作は、一般向けの『ギャグダ』に移ることで麻雀関連の話を急速に減らしていった。その結果何が起きたかというと、主人公がほとんど登場しない作品となったのだ。今世の中にあるほとんどの漫画はキャラクターを主軸にしているが、「フリテンくん」はそのタイトルとは裏腹に、特定のキャラクターを中心には描かれていない。「フリテンくん」はそのつど用意される無名の登場人物達が様々なシチュエーションを舞台にくり広げる、純粋なネタ勝負の四コマなのである。他の漫画家と違う植田の特異性の一つは、キャラクターに依存しない漫画を30年近く続けられるアイデア力にある。

●「コボちゃん」とはどんな作品か?

さて、ここで「フリテンくん」と並ぶ植田の長寿作品「コボちゃん」について見ていく。「コボちゃん」は1982年4月1日、『読売新聞』朝刊でスタートした四コマで、植田の代表作であると同時に、ファミリー四コマと呼ばれるジャンルの代表作でもある。その反面、この作品を正確に捉えた批評を読んだことがないので、ここでは注意すべきポイントをおさえておきたい。

まず、新聞四コマの規制の多さが、即、表現のつまらなさにつながるわけではないこと。植田は自分で漫画を描くまでほとんど漫画を読まなかった特殊なタイプの漫画家で、唯一子供の頃から読んでいたのが新聞四コマだった。つまり原体験である新聞四コマのほうが、植田にとって本領発揮の舞台であるともいえるのだ。

「子供の頃、人並みに貸本マンガぐらいは見ていましたが、いわゆる漫画少年ではなかった。サザエさんとか、新聞マンガを見ていただけだから、大学四年のときに初めて描いたのも四コマです」(『週刊現代』1981年9月24日号)

「それまで、新聞の4コマ漫画しか読んだことがなかった。『サザエさん』とか、『フジ三太郎』ぐらいしか知らなかったんです。だから、ぼくが影響を受けたのは、新聞漫画なんです」(『週刊宝石』1982年3月6日号)

「もともと漫画って4コマしか知らなかったんですよ、子供のときから。新聞の4コマ漫画ですけどね。ぼくの子供のときだから『サザエさん』と『クリちゃん』かな。もちろん、他の漫画雑誌もあったけど、あまり読んでいないんですよ」(『本の窓』1998年4月号)

もちろん最初は慣れるまで1年に3、4回の書き直しがあったというが(註4)、逆に言えばその程度である。「毎朝出がけに読むものなので、気分よく一日が始まるような柔らかさのあるものを描こうと意識はしました」(『FLASH』2004年5月25日号)という発言にあるように、他の漫画で描いているような少し尖ったギャグとはまた別の、柔らかい印象を与えるものに挑戦しようとしていたのが「コボちゃん」である。作者が今までにない表現を追及したのが意欲作なら、「コボちゃん」もまた意欲作なのだ。

そしてここが重要なのだが、植田が結婚したのは1982年11月で(註5)、「コボちゃん」は家庭を持った経験のないままスタートしている。30年弱に及ぶ長期連載を改めて辿ると、最初はコボちゃん視点の出来事が多く、次にパパ視点が増え(植田は娘がいる)、今はおじいちゃん視点が中心になってきている(植田は孫もいる)。作者である植田が年齢を重ねるごとに、「コボちゃん」の作品内の出来事の視座がゆっくりとあがってきているのだ。ファミリー四コマというジャンルを考えるうえで、この「誰から見た家族(ファミリー)を描くのか」というのは重要な要素であり、老若男女が楽しめる作品という意味とは別の、こうした多視点感覚が「コボちゃん」には内在している。もし「コボちゃん」をまとめて読む機会があれば、視点の推移を頭の片隅に置いておくといいかもしれない。

●「コボちゃん」以降

オリジナルビデオ『フリテンくん Vol.2 フリテンくんの白い巨塔』 原作=植田まさし
監督=高垣幸蔵
製作=ナック映画
販売=ポニーキャニオン
発売=1990年7月21日
1981年に「フリテンくん」が映画化、1982年に植田は文藝春秋漫画賞を受賞し、名実ともにトップクリエイターに。そして「コボちゃん」の安定した人気を獲得した80年代後半から、一般誌にはあまり露出しなくなる(註6)。例外は『読売新聞』で、発展途上国の識字率上昇のための活動に積極的にかかわりはじめ、そのレポートをたびたび紙上で行っていた。また「かりあげクン」と「コボちゃん」がアニメ化するなど(前者(1989年〜1990年、後者1992年〜1994年)、お茶の間へより浸透していった。

この1990年前後という時期は、四コマの世界では不条理四コマ(註7)が話題のピークだったと思うが、植田はそれに対しては冷ややかな視線を送っていたようだ。

「今のギャグで不条理漫画とか、オチのないものは、消化不良状態なんじゃないかなと思います。これは読者もまだ大人になっていないせいもあるんでしょうが、書き手・読み手ともに成長しきっていない状態だろうと。だから不条理漫画が続かないのも、作者が成長して消化不良が終わり、普通になってしまうからだと思いますね」(『本の窓』1998年4月号)

90年代後半以降の植田の足取りはほとんどつかめていない。話題になる時は「コボちゃん」の連載が千回区切りの時くらいである(4000、5000、6000回を記念して…)。一時期の盛り上がりをすぎて安定した制作環境を手に入れた植田は、引き続きマイペースに漫画を生み出していたと推測できる。増殖を続ける作品群と、波一つない山奥の湖のような作者の存在感のふり幅から感じられる美しいコントラストは、注目に値する。

●植田のアイデアの源泉はどこか


この継続性を保つアイデアの源がどこから来るのか気にならないだろうか。植田は何回か制作のヒントを明かしており、それは時期によって少しずつ違う。80年代は、手がかりを発見し、それの角度を変えることによって話のタネを得ていたようだ。

「“浮かぶ”んじゃなくて“見つける”んです。/手がかりはあるんですよ。/人のマンガを見て、小道具の状態とか、人の立っている状態や動作で発見していく。/イラストの本や図鑑など視覚的な本も手がかりになります。(略)慣れちゃうと簡単ですよ。チェックリストを持ってますから。/いえ、別にカード化したりなんて、そんな面倒くさいことはやってません」(『SELF HELP GUIDE』第1号・生き方百科/1981年11月25日発行)

「漫画のアイデアというのは、頭の中でひねり出せないですね。どっちかというと、発見の作業じゃないかなァ。なんかをみていて、それを角度を変えてみたら、あっ、これは面白いなァって。だから、アイデアは発見なんですね」(『週刊宝石』1982年3月6日号)

しかし最近になると少し変わっている。なんとパソコンの中にキーワードを登録して、そこからランダムで表示されるようになっており、それを元にアイデアのベースを考えていくというのだ。

「日常的に人が使っている身近なモノっていくつあると思いますか? 実は2千個ぐらいしかないのです。例えば孔雀の羽などの特殊なモノを含めて3千個ぐらいです。そこで2〜3千個の中からストーリーがうまくできそうなキーワードを選ばなくてはならないのです」「今、私の書斎には3台のパソコンがあり、ボタンをクリックするとアトランダムにキーワードが出てくるソフトを使っています。例えば、「茶柱」、「浮き輪」、「湯飲み」といったように表示されます。そこで画面に出てきた三つのキーワードを見て、それを組み合わせて、作品になりそうなベースを考えるわけです」(『Diamond Visionary』2006年5月号)

家庭と会社を中心に描かれる植田の四コマ漫画の世界は、ある種のシステマチックな工程を経て編み出されていた。月産100本を超えるペースで作品を送り続けるためには、アイデアが自然に降ってくるのを待っているだけでは間に合わない。しかも作業を部屋の中で完結させてしまっている。外に出てのんびりネタを探している暇はないのだ。このようなアイデア発想術が、植田の作品の源(の一つ)になっている。

●植田まさしの読み方(1)オチのつけ方で読み解く

ここまでで、植田まさしがどのような経歴の漫画家かという概要はお分かりいただけたと思う。では肝心の作品はどのように読み進めていけるだろうか。ここからは植田の四コマを読むときに意識しておくと見え方が変わるかもしれないルールをいくつか説明していく。

植田の四コマのフォーマットは起承転結ではなく、あえて言えば起承承結である。一コマ目から三コマ目は説明で、四コマ目に「転」と「結」が一緒になってオチがつく。この時、植田の特徴・作家性といえるのは、四コマ目のオチが絵で示されることだ。言い換えれば、台詞(言葉)で笑わせることを極力避けている。四コマ漫画の主体は絵であり、台詞は絵の従属である、という明確な意思がそこにはある。もちろん台詞でオチをつけてしまう場合もあるが、それは植田の中ではクオリティの低い作品にあたる。絵でオトせなかったというのは主義に反するからだ。

「最後のセリフも、『あのなー』とか、『お前なー』と短いんです。漫画のセリフは、補足的なものでいいと思う。あくまでも絵なんです。それも絵の面白さというのじゃなく、絵でみせ、絵で分からせるという形がいいと思うんですね。だから、最後のところは、言葉オチというのをなるべく避けて、言葉オチにならないように心掛けているんです」(『週刊宝石』1982年3月6日号)

このような理由によって植田の特徴的な短い台詞回し(「ンモー」「ヒマなヤロ」など)が生まれたのである。植田は四コマ目のオチを考えてからそこに至るまでの流れを作っていくそうだが、このような、あくまで四コマ目の「結」を重視した姿勢は、起承転結のフォーマットを自由自在に破壊したいしいひさいちとは対照的で、好みが分かれやすいところである。植田がもし四コマ漫画の王道であると思われているなら、それはこうしたルール付けが、既存の漫画の文脈から大きく外れていないためだろう。

●植田まさしの読み方(2)話の展開で読み解く

植田は極力、時事ネタを取り上げず、風刺を描かない。これには三つ理由があり、一つ目は、月刊誌でデビューした経歴が関係している。月刊誌では時事ネタを取り上げても載る頃には落ち着いてしまっていることが多く、長く読める質を維持するには避けなくてはいけなかったためで、その時の習慣が続いているのだ。二つ目は、単に似顔絵が下手なため。三つ目は、植田が漫画家としてやっていこうとした時の決意に由来する。それは「タネを長続きさせるには、自分の体験を描いていたらダメだ」(『週刊読売』1981年9月6日号)というもので、話(ネタ)は頭で発見するものと自ら規定しているのである。

「笑いは世相には関係ない。深層心理的なもの。絵柄、言葉遣い、落とすところなどのからみで新鮮さが出る。微妙な質のちがいが」(『週刊現代』1980年9月25日号)

植田の作品に多く見られるパターンの一つは、上の立場の人間を下げ、下の立場の人間を上げる展開である。これは「下の立場の人間が落ちる話は救いがない」という読者の気分を保護する目的もある。ポイントは、オチに使われる側は喜怒哀楽の表現があっても、そうでない側は徹底して無表情なところだ。笑いのフォーカスを絞っているのである。無表情側のキャラクターは時に読者の視線を誘導する。四コマの当事者でありながら、観察者でもある。そのキャラクターが笑うのではなく、最終的に笑うのはあくまで読者側ということだ。

「マンガの主人公を作るのは非常に方法論的なことでね。どっちのタイプにするか、ということだけ。/失敗する側か、やられて仕返しする側か、ね。『フリテンくん』はやり返すほう。失敗する側は、読者が主人公をみて、こいつ、こんなバカなことをしてと卑下してオレはこんな馬鹿じゃないと自己満足するんですよ」(『SELF HELP GUIDE』第1号・生き方百科/1981年11月25日発行)

ここではこれ以外のパターンは解説しないが、展開のパターンを分類していくことで、逆にそれらを逸脱してみせた時に気付くことができ、新たな発見を生むだろう。少なくとも、新聞四コマは風刺であるべきというのは評論家の思い込みにすぎず、時間を経ても読書体験の質が変わらない、普遍性のある作品を植田が目指しているのが理解いただけたと思う。単行本が売れ続けるのは植田の方向性ゆえである(註8)

●植田まさしの読み方(3)影響関係の読み取りづらさ

ここまで書いておいた話と矛盾するようだが、植田の最大の特徴は絵柄である。あえて歴史的にいえば、1940〜60年代に登場した新聞四コマや大人向け漫画の作者の多くは、風刺漫画の立役者であるソール・スタインバーグの絵柄の模倣であり、省略の方法や描線の影響を隠そうとしない。横山泰三、サトウサンペイ、加藤芳郎、柳原良平、鈴木義司などは一例である。他の系譜として、杉浦非水や中川紀元に師事した田河水泡(「のらくろ」は海外『フィリックス・ザ・キャット』が発想の源だ)、の弟子であった長谷川町子の初期のような、岡本一平、麻生豊、近藤日出造、秋好馨といった国内の新聞漫画家の流れを受け継いだ絵柄と作風がある。

そうしたルーツが読み取れる漫画家に対し、植田の絵柄はそれ以前に似た人がほとんどいない。無理に探すなら滝田ゆう、谷岡ヤスジ、高信太郎の辺りかと思われるが、彼ら自身が主流でない絵柄のタイプであるためか、漫画史に位置づけることが難しい。反対に、植田以降に「植田まさし風」の絵柄でデビューした四コマ漫画家はいるものの(田中しょうなど)、ほとんどは有名になる前に消えてしまい、語る必要性がない。その結果、横山隆一「フクちゃん」をきっかけに広まったファミリー四コマの代表作家、という大ザッパな括りでしか漫画史に登場しないのが現状だ。

●植田まさしを語ること

このように、定番の切り口である「歴史的位置付け」が困難で、しかも「テーマ/物語」を打ち出さない四コマというフォーマットである結果、植田まさしは語られない漫画家となってしまったのではないか。だがそうした手法に頼らなくても、気付かないだけで語り口はいくらでもあるはずだ。

「なぜ四コマかというと、ぼくには四コマが一番合っているんですね。頭の中にオチが浮かんでくる。これがなぜか四コマにあったオチばかりで、ごくたまに三コマで説明出来ないオチが出来ると、こういうときは八コマものにします。/でも、どうしても四コマになるなあ。四コマは数をこなせるということが第一条件になり、長編漫画に比べるとワリが悪い。しかし、ぼくは長編を描いても面白くないから仕方ないんだ」(『週刊読売』1981年9月6日号)

「描き慣れてない上に、ストーリー漫画を読み慣れてもいないので、内容が全然面白くない。ずいぶん練習もしたのですが、駄目でしたね。(略)どうせ同じ4ページを与えられるのであれば、4ページ全部を4コマ漫画で埋めてみようと思ったんです。すると4ページのストーリー漫画よりもずっと面白い、充実したページになった。編集担当からも評価をいただきまして。それで、今のようなスタイルになったのです」(『Diamond Visionary』2006年5月号)

「短いってことが、読みやすいことにつながっているのじゃないでしょうか。面倒じゃないですからね」(『週刊宝石』1982年3月6日号)

巷の漫画評論に取り上げられなくても、植田は自分に一番合うのが四コマだと知っているし、その理由もわかっている。自分の作品がどういうもので、どういう読者に、どうして受けるのか、その結論付けは終わっているだろう。これは批評・評論の敗北である。作者が作品を一番分かっているなどという状態は、逆に言えば思ってもみなかった発見を作者にもたらすことを周囲が出来ていないのである。作者すら忘れていた論点を掘り起こし、新鮮な視点を現在に提供する。そういう発想が植田まさしを取り巻く環境にない。くり返そう。日本で唯一1000万部を超える発行部数を誇る読売新聞の看板作家であり、日本中のどの書店やコンビニにも、植田が関わる単行本や雑誌が存在する現状を見て、何の意見も持たず沈黙を決めこむことが批評のあるべき態度だろうか?

今回は初心者向けに植田まさしを楽しむエッセンスを提示することが目的なので、この辺りで終了する。他にも「『ちょんぼ君』の謎」「旧『コボちゃん』の発行元だった蒼鷹社とは?」「植田まさしがいなければ萌え四コマ誌は存在しなかった」「アニメの主題歌のすばらしさ」「植田のペンは改造した万年筆である」「幻の作品『女刑事マキ』」などのトピックを考えたが、別の機会としよう。このテキストを読んだことで、あなたの植田まさしに対する考えが少しでも変われば幸いだ。

P.S.『植田まさし大全』の発刊時期は未定であるので、くれぐれも入手方法を問い合わせたりはしないでほしい。また植田まさしについての質問には一切答えないので、くれぐれも問い合わせないでほしい。そう、これをきっかけに新たな第一歩を踏み出すのは、あなたなのだから!(ドーン)

文=ばるぼら
【註釈】
三人兄弟の末っ子:三人兄弟はそれぞれ二つちがいで、姉・植松英子、兄・植松正晴、弟・植松正通となる。80年代初頭の資料によれば姉は一級建築士、兄は学習塾経営で、サラリーマンは父親のみ。植田の描くサラリーマンキャラは、体験から描かれたものではない。だからこそサラリーマンのあるあるネタに走らないギャグを描けるのだといえる。Wikipediaには「ファミリー向けの作品が多い事から、一般常識などのいわゆるあるあるネタが多い」と書かれているが、むしろ植田の作品であるあるネタは少ない方である。

父親 : 父親の植松正明は1990年4月12日に77歳で亡くなっているから、逆算するとおそらく1913年生まれ。父親は香川県の三木町にある造り酒屋の息子として生まれ、旧制六高(現・岡山大)から東京帝大へ進学。戦後は東京で会社勤めというエリートコースだが、のんびりした性格、かつお人よしで、世渡りはうまくなかったそうだ。

都立田園調布高校:ラグビー部に所属。当時の仲間と1977年にラグビーチーム「ビアーズ」を結成している。植田は酒を飲めないが、特にこの名前に反対しなかったという。植田とスポーツの関係でいうと、中学時代は野球部に所属していた。また、漫画家になってからはゴルフを嗜んでいた時期があるようで、『週刊読売』1994年7月17日号「生島治郎のトラブルショット110回」では、生島が読売文壇ゴルフで植田まさしと一緒にコースをまわった話が書かれている。

書き直し : 「例えば“ハゲ”なんて言い方はまずいし、“膏薬が匂う”なんて描いたら、最近のものは匂わないんですよと指摘されたり(笑)」(『本の窓』1998年4月号)および「ピンク映画に行ったりだとか、警官を揶揄するようなものだとかは描けないんです。『フリテンくん』ならOKなんですけどね(笑)」(『FLASH』2004年5月25日号)という発言を参照。

結婚したのは1982年11月 :お見合い結婚。ちなみに『女性自身』1981年1月1日号「'80わたしの10大ニュース」という企画で植田は「お見合い3回」というニュースをあげている。結婚前には「兄貴が学生結婚で苦労してるのを見てたから、ボクはゆっくり、生活が安定してからと思ってたんですよ。そしたら急に忙しくなって、人に会うヒマもなくなってしまってねえ。でも、なんとかなるんじゃないかな」と『週刊現代』1981年9月24日号で語っている。

露出しなくなる :植田は最近までマスコミに顔写真を出さなかったという俗説があるが、少なくとも80年代前半の雑誌記事には普通に顔を出している。この説を広めたのは『読売新聞』のインタビュアーで、たしかに『読売新聞』紙上では連載8000回記念のインタビューまでほとんど顔を出していなかった。それを他の雑誌でもそうだと勘違いしていたのだろうと思われる。

不条理四コマ : 不条理四コマは『ビッグコミックスピリッツ』の功績が大きい。編集者の立川義剛が担当した一連の作品、相原コージ「コージ苑」、吉田戦車「伝染るんです」、中川いさみ「クマのプー太郎」の系譜は、もはやクラシックである。

ゆえである : 新聞四コマは単行本が出ること自体少ない。長谷川町子『サザエさん』は風刺漫画でありながら単行本が出た、さらに売れたという稀有な例である。ただし、あまりに時事ネタすぎるものは削られて、収録されていない。

【参考文献】

『週刊ポスト』1980年8月15日号「人間探検 言いにくいけど、おもしろいから売れたんでしょう」
『週刊朝日』1980年9月12日号「リーチのみで130万部売った植田まさしのフリテン哲学」
『週刊現代』1980年9月25日号「ヘルスパトロール 漫画家・植田まさし」
『週刊サンケイ』1980年10月2日号「現代人劇場 いまサラリーマンにバカ受け!四コマ漫画」
『女性自身』1981年1月1日号「'80わたしの10大ニュース「フリテンくん」大人気」
『週刊文春』1981年3月12日号「ぴいぷる フリテン君海を渡る」
『週刊文春』1980年4月9日号「私の好きな人(植田まさし)」
『女性自身』1981年4月23日号「ボク、無味乾燥人間なのかなあ? 話題の「フリテン君」の作者、植田まさしさん(33)ドマジメな素顔」
『週刊読売』1981年9月6日号「オチは意地悪でも、ぼくは哲学科出身の気の弱い男で… 漫画家・植田まさしさん(週刊インタビュー17)」
『週刊現代』1981年9月24日号「植田まさし(34歳=漫画家) 月産180本『らくてんパパ』「で本誌初登場!」
『SELF HELP GUIDE』第1号(1981年11月25日発行)「4コママンガの術」
『週刊宝石』1982年3月6日号「4コマ・ギャグで大ウケの漫画家 植田まさし チョンボとフリテンの悲哀をギャグって連日徹夜!」
『週刊読売』1982年5月2日号「四コマ漫画ひさびさ満開の秘密」
『文芸春秋』1982年8月号「四コマ・ナンセンスで第28回文藝春秋漫画賞受賞「久しぶりの大物」植田“まさし君”」
『週刊読売』1983年5月8日号「週刊読売と私「すっから母さん」には愛着が(植田まさし)」
『週刊読売』1994年7月17日号「生島治郎のトラブルショット110回 眼の前での優勝争い」
『THIS IS 読売 5』1995年3月号「対談シリーズ、内館牧子の毒をひとつまみ(植田まさし×内館牧子)」
『本の窓』1998年4月号「ギャグ・コミックの世界(10)植田まさし」
『週刊ポスト』2004年4月16日号「マンガ流!大人の作法 44回 “鼻つまみ者”と付き合うコツとは 植田まさし『ほんにゃらゴッコ かりあげクン』「(斎藤孝)」
『FLASH』2004年5月25日号「世界の中心で、ギャグをさけぶ4コママンガ家笑いの系譜 笑いを生み出す人気作家の苦悩の日々 植田まさし」
『Yomiuri Weekly』2005年9月11日号「商売道具158回 改造ペン 漫画家・植田まさし 今の目標は「コボちゃん」1万回」
『EX大衆』2005年12月号「臼井儀人・しりあがり寿・さそうあきら有名作家が送る異色トリビュート! かりあげクンとの未知なる出会いを誌上実現だっ!」
『Diamond visionary』2006年5月号「Business Heroes 漫画の中のできるやつ(第2回)おとぼけ課長 胃に穴開けない自然体」
『ブレーン』2007年2月号「青山デザイン会議(第91回)輝き続けるものづくり 朝原雄三×植田まさし×太田恵美」
その他、『読売新聞』『朝日新聞』『産経新聞』および単行本

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ばるぼら ネットワーカー。周辺文化研究家&古雑誌収集家。著書に『教科書には載らないニッポンのイ ンターネットの歴史教科書』『ウェブアニメーション大百科』など。なんともいえないミニコミを制作中。
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