A tribute to Dan Oniroku
追悼 団鬼六 |
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団鬼六と『花と蛇』〜永遠の桃源郷へ
日本人のSM観に多大な影響を及ぼした小説家・団鬼六氏。それは団鬼六というひとつのジャンルであり、日本における官能という文化を語る時、避けては通れない歴史の分岐点でもあるでしょう。去る5月6日に永眠された氏を悼み、WEBスナイパーでは「追悼 団鬼六」と題した特集記事を掲載して参ります。第1弾は『花と蛇』はなぜこんなにも愛されたのかというテーマを踏まえつつ、エロ系ライター安田理央氏に団鬼六氏のバイオグラフィを紹介していただきます。
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5月6日、団鬼六が80年の生涯に幕を下ろした(※註1)。
官能小説の巨匠と呼ばれる作家は何人もいるが、これほど長い年月に渡って活動し、愛されてきた存在は団鬼六だけだと言ってもいいだろう。しかも、団鬼六は事実上、日本のSM小説というジャンル、そしてSM観を作り出したパイオニアでもあるのだ。
SMという、本来アンダーグラウンドな嗜好である団鬼六の小説、とりわけ代表作である『花と蛇』は、どうしてここまで日本人に受け入れられたのだろうか。
■黒岩松次郎から団鬼六へ
よく知られているように、団鬼六の作家としてのスタートは文芸小説であった。高校時代から演劇の脚本を書いていた少年が、やがて小説家を目指すのは自然な成り行きだった(20歳前後にはジャズ歌手としても活動していた!)。1956年、25歳の時にオール読物の新人杯に応募し『浪花に死す』が佳作入選し、翌年には『親子丼』で見事入選。ここから小説家・黒岩松次郎(当時の筆名)の作家活動が本格的に始動する。
1958年には初の単行本となる短篇集『宿命の壁』が五月書房より発売され、さらに書き下ろし長編小説『大穴』が大ヒット。杉浦直樹・芳村真理の主演で松竹でも映画化された(後に、植木等主演でテレビドラマ化も)。
順風満帆に見えた作家生活だったが、やがてスランプに陥り、酒場を経営して失敗したり、詐欺にあったりと私生活でも次第に追い詰められていく。
依頼された小説を書こうとしても全く書けず、その代わりに性的欲望を原稿用紙にぶつけていた。本人のいうところの「自分用の猥文」だが、破り捨てるのも惜しいと思って「奇譚クラブ」へ投稿した。これが『花と蛇』のはじまりである。『大穴』映画化の際に招待された撮影現場で、一緒に食事をした女優たちのきらびやかな姿を思い出しながら自慰的な気分で書き綴ったのだと太田出版版『花と蛇』の序文には書かれている。
実はそれ以前にも、『お町の最期』という短編小説を、愛読していた「奇譚クラブ」の懸賞小説募集に応募し、一位入選を果たしたことがあり、さらに「裏窓」などの他誌にもSM小説を数本発表している。この時の筆名が花巻京太郎。『花と蛇』も連載当初はこの筆名になっていた。
もちろん「自分用の猥文」「自慰小説」というのは自虐的な照れ隠しな言い方とも思えるが、もともと団鬼六=黒岩松次郎は、文芸小説家としてやっていこうという気持ちも薄かったらしい。「机の前に終日、座りこんで原稿紙に向かい、したり顔で空想物語ばかり書いている小説屋という商売が何とも男らしくないようにその頃、私はかんじていたのである」(『団鬼六自伝 蛇のみちは』より)と感じ、むしろ投機こそ自分の道だと考えていたようだ。
しかし、彼の才能を世間は手放そうとはしなかった。投稿された『花と蛇』は「奇譚クラブ」の1962年8月9月合併号、11月号、12月号と3回に渡って掲載され、大きな反響を呼んだ。そして「奇譚クラブ」の編集長は、三浦半島の三崎へと都落ちし、中学校の英語教師としてひっそりと暮らしていた彼にその続きを書くようにと説得した。そして1963年7月号より『花と蛇』の連載が再開。ペンネームはこの時から団鬼六と変わっている。「鬼のような気分で淫靡残忍ないやらしい小説を書こうじゃないか、と、心に誓った」のがペンネーム変更の理由だ。昭和6年生まれだから鬼六で、団という苗字は団令子が出演した映画を観た日だったから、だそうだ。
復活した『花と蛇』は、数度の休止を挟みつつ、1971年11月号まで、11年に渡る長期連載となり、さらにその後も「SMキング」「S&Mアブハンター」などで「完結編」が連載された。
■奇クから日活、そして角川文庫へ
まず、最初の連載誌である「奇譚クラブ」での人気は凄まじいものであった。『花と蛇』に対しての読者からの感想の投稿も多く、時には「花と蛇は読物か、小説か?」と言った論争が読者の間で巻き起こったり、別の作者(山村純)による『贋作・花と蛇』が連載されたりもしたほどだ。また、後に団鬼六と並ぶSM小説の巨匠と呼ばれる千草忠夫も熱烈な『花と蛇』ファンで、「『奇譚クラブ』の代価三百円のうち、二百九十円までは『花と蛇』のために支払っているというのが、私のいつわらない気持ちである」とまで語っている。すでに自分も「奇譚クラブ」に小説を発表している立場でありながら、熱烈なファンレターを送り、三崎の団の自宅まで訪れたこともあるという。ちなみに千草忠夫も女子高の英語教師をやっており、この頃に中学教師の職にあった団鬼六とは共通点も多かったようだ。
こうしてSM愛好家の間では団鬼六は圧倒的な支持を得るものになっていた。70年代に入ってSM雑誌がブームとなり次々と創刊されるが、それらのすべての雑誌の巻頭を団鬼六の小説が飾ることになる。
そして団鬼六と『花と蛇』の名を世間的にも一躍有名にしたのが1974年の日活ロマンポルノ『花と蛇』の公開だろう。
主演の谷ナオミが団鬼六の原作ならばと、指名したのだという。日活ロマンポルノ初の本格SM物ということで話題となり、その後も団鬼六・谷ナオミのコンビは、ドル箱シリーズとして作られ続けていくことになる。
実は『花と蛇』の映画化はこれが初めてではない。連載開始の3年後の1965年には早くもピンク映画(ヤマベプロ制作)として作られ、シリーズ化している。これは以前から団鬼六が脚本などでピンク映画の制作に参加していた流れによるものであろう。この頃から谷ナオミとのコンビは始まっていたのだ。
当時日活ロマンポルノのポスターを見て驚かされるのは、「原作:団鬼六」の文字が監督よりも大きく、主演の谷ナオミと同格の扱いなのだ。これはポルノ映画としては異例のことだろう。さらには『団鬼六 薔薇の肉体』のようにタイトルにまで名前が入るほどになっていく。
しかし最も大きな驚きは1984年に、角川文庫から『花と蛇』が刊行されたことだろう。もともとはマニア向けのSM小説と書かれた作品が、角川文庫に入る。以前には全く考えられなかっただろう。世間の非難をかわすためだろうか、各巻の解説には吉行淳之介、宮本輝、高橋源一郎、小池真理子、西村京太郎、村上龍といった錚々たる面々が寄稿し、いかに『花と蛇』が文学的な作品かを語っている。
それまでにも、同じ「奇譚クラブ」から生まれた『家畜人ヤプー』(沼正三)が三島由紀夫や澁澤龍彦、寺山修司らに絶賛され、文学的に評価されたという例があったが、『花と蛇』もこうした流れによって、サブカルチャー的に語られることが多くなっていく。
SM小説とはいっても、団鬼六は、そして『花と蛇』だけは別格だという評価だ。団鬼六自身が社交的で、出たがりという面があったためにテレビや雑誌などの一般メディアに頻繁に顔出ししていたことも、この傾向に拍車をかけていった。
SM作家としての団鬼六のピークは1980年前後だろうか。SM誌への連載は10誌近くになり、1年間に26冊もの単行本を発売している。時代物の最高傑作と評価の高い『鬼ゆり峠』や、団本人も最も気に入っているという『肉の顔役』といった代表作もこの頃に書かれている。
団鬼六のブレイク以降、日本のSMは団鬼六が基本となっていく。美しく清純な女性を調教し、羞恥に悶えさせるというパターン。多くのSM作家がこうしたスタイルを取っていった。それがあまりにも類型的で、馬鹿の一つ覚えのように浣腸プレイを行なうので、「浣腸小説」などと言われることもあった。
1975年にデビューし、フェティッシュな描写と高いストーリー性に定評のあるSM作家・館淳一は、当時をこう振り返る。
「やっぱり団さんは、当時は大きな存在だから、これを乗り越えなければならないと思いましたね。だから僕はあえて違う世界、団さんが絶対に書かないところを書いたんです。親に対する反抗みたいなものです。でも、ファンだと言う人からこんな手紙をもらったんですよ。『ファンとして忠告します。どうして鬼六さんみたいな小説を書かないんですか?』って。お前、本当におれのファンなのかって思いましたよ(笑)」
いかに団鬼六スタイルがSM小説界を席巻していたかを物語るエピソードだ。
■断筆から復筆、終わらない『花と蛇』の世界
1989年に団鬼六は突然断筆を宣言する。若い編集者に「緋色の蹴出しと書かれてもわからない、ピンクの腰巻と書かなくては」と言われたことで現代の情緒のなさに絶望したのがきっかけとも言われているが、六十歳を目前にして、もうポルノは書けないと思ったという理由もあるらしい。
引退後は、将棋ジャーナルを買い取って経営・編集に乗り出すが、大赤字に終わり5年で廃刊となる。そのため大きな借金を背負うことになり、かつて7億と言われた横浜の豪邸も手放すことになる。
その借金返済のため、復筆を宣言。親交の深かったアマチュア棋士を描いた『真剣師 小池重明』を執筆。従来のSM小説とは違った作風だったが、本の雑誌の1995年度の第五位に選ばれるなど高い評価を得た。
以降、『不貞の季節』『美少年』など、文芸色の強い作品を立て続けに発表する傍ら、幻冬舎アウトロー文庫で過去の作品を発刊。こちらも好評を得る。
そして2004年には、石井隆:監督、杉本彩:主演による新たな映画『花と蛇』が公開されて大ヒット。杉本彩による第二作、小向美奈子による第三作も作られ、さらにはPC向けアダルトゲーム(エルフ)、アニメ(エルフ)、漫画(画:長田要)、演劇(月蝕歌劇団)も登場するなど、新たな『花と蛇』ブームが巻き起こった。
1962年に連載が始まり、1970年に芳賀書店で初単行本化、以降は1973年に桃園書房、1984年に角川文庫(※註2)、1992年に太田出版、そして1999年に幻冬舎アウトロー文庫と、『花と蛇』は何度となく復刻され、その度に話題を呼んでいる。これほどまでに読み継がれているとなれば、もはや国民的小説と言ってもよいのではないだろうか。しかし『花と蛇』はあまりに型破りな作品でもある。
まず、官能小説としては異例の大長編であり、その舞台は主人公の静子夫人をはじめとする美女たちが連れ込まれる実業家・田代の屋敷からほとんど出ることがない。その密室的な空間で、ひたすらヒロインたちが男たちに(時には女に)調教される、ただその繰り返しだけで文庫にして10巻というボリュームの小説になっている。しかも物語の中では、わずか1カ月ほどの出来事らしいのだ。
本人も「ただ官能描写の羅列だけで小説としての体裁はなさず」「一口にいってワイ文であり、小説的機構というものは無視している」と語っているが、確かに小説としては、異形な構成である。
一応、静子夫人の妊娠が発覚したところで物語は完結を迎えたことになっているが、実際は何一つ終わっていない。静子夫人たちの地獄の日々は、まだまだ続いていくはずだ。まるで押井守監督作品の『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』で描かれる終わりのない学園祭のように。
調教を受ける美女たちは、そこが地獄だと何度も口にするが、男たち、そして読者にとっては、田代屋敷は時の止まった永遠の桃源郷でもある。『花と蛇』のページを開けば、いつでもその世界に戻れるのだ。
1997年に脳梗塞で倒れ、その後も慢性腎不全を患い、己の死期が近づいていたことを知った団鬼六は、人気作家・神崎京介に『花と蛇』の続編を託す。
神崎版『新・花と蛇』は2008年より小説現代で連載が開始される。それはあれから20年後の現代を舞台し、年齢を重ねた静子と、その娘である繭子を主役にした物語だった。しかも団鬼六自身が登場し、実は静子は実在するのだと語るメタフィクション的な構造になっているのだ。それは当然、かつての『花と蛇』とは全く肌触りの違う作品となっていた。
考えて見れば、これまでの『花と蛇』の映像化などは、ことごとく原作とかけ離れたものだった。ストーリーも設定も全く違い、同じなのはヒロインが静子という名前だけだと言ってもいいほどだ。原作に忠実であろうとしていたのは長田要の漫画版と、ゲーム版くらいではないか。
おそらく原作の『花と蛇』には、あまりにストーリーがなさすぎるからだろう。そのままでは映画として成り立たない。だから独自のアレンジをしなければならない。
しかし、それはもはや『花と蛇』ではなくなってしまう。美女たちの羞恥心をかきたてる調教が永遠に繰り返される、時の止まった空間こそが『花と蛇』なのだ。そしてそこには、昭和30年代の混沌としつつもエネルギッシュな日本の空気が保存されている。女たちが羞恥心を持っていた時代。いや、それはどこにも存在しなかった幻想の日本なのかもしれないが。
だからこそ、『花と蛇』は多くの人に愛されたのだ。
2010年1月、団鬼六は食道がんと診断される。手術は拒否し、静かに死が訪れるのを待つと宣言。そして2011年、東京都文京区の病院で死去した。
団鬼六は永遠の桃源郷たる田代屋敷へと還っていったのかもしれない。
文=安田理央
※註1 戸籍上の誕生日が9月1日のため、79歳との報道もあったが、実際は4月16日生まれ。
※註2 角川版は8巻までで未完。翌1984年より富士見文庫が引き継いで刊行した。
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