A tribute to Dan Oniroku
追悼 団鬼六 |
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小野塚カホリが描く団鬼六の『美少年』〜底知れぬ私小説と漫画の深み
日本人のSM観に多大な影響を及ぼした小説家・団鬼六氏。それは団鬼六というひとつのジャンルであり、日本における官能という文化を語る時、避けては通れない歴史の分岐点でもあるでしょう。去る5月6日に永眠された氏を悼み、WEBスナイパーでは「追悼 団鬼六」と題した特集記事を掲載して参ります。第2弾は漫画評論家・永山薫氏が、団鬼六氏の原作を小野塚カホリがコミカライズした『美少年』を紹介。描き出された登場人物を通して団鬼六作品の核へと迫ります。団鬼六先生が亡くなったのはその2日後である。
葬儀社との打ち合わせ、諸手続に追われていた私は団先生の訃報を上の空で聞き、
「ああ、相前後して逝かはったんやな」
と思ったことを憶えている。あとにして思えば、父も団先生も共に滋賀県人であり、戦争体験世代なのだった。
団鬼六(以下敬称略)の名前を最初に知ったのは大学生の頃だから、かれこれ30年以上前になる。当時、私は大阪にいて、古書店を廻っては二束三文で叩き売られていた『奇譚クラブ』『風俗奇譚』『裏窓』を買い集めていた。だから最初に読んだのは『花と蛇』だ。それも、手に入った順番に読んでいたのだから、文字通りの拾い読みだった。
その中で描かれる緊縛、剃毛、浣腸といった行為は、理論先行の大学生からみれば、
「そもそもタイトルからヴァギナとペニスの隠喩ではないか。SM的な『プレイ』が性器的快楽に奉仕するという意味においてSM小説ではなく、あくまでも官能小説の枠に止まる」
だった。とはいうものの、ちゃっかりそれぞれのシーンで欲情していたのだから「体は正直」である。
美しく高貴なる者が、下層階級の卑しい心根の連中に弄ばれ、陵辱され、果てしなく堕とされていくことの官能……という理屈はわかっていても、団鬼六の世界は青二才にはハードルが高かったのかもしれない。
自分が歳を取るにつれて団鬼六への評価は変転していく。生け贄が一番嫌がることを強制する。それも逃げ道を塞ぎ、緻密に追い詰めていき、「それ」をさせてしまう。あたかも生け贄が自ら求めた「それ」であるように。団鬼六が将棋の名手だと知った時にはハタと膝を打ったものだ。静子夫人を追い詰めていく段取りはまさに詰め将棋ではないか! 将棋における定石と心理戦が、一見無関係にも見える「官能表現」に活かされているのではないか? 団鬼六の小説作法には、将棋に通じる厳格なルールがあるのではないか? そんなことを考えたりもした。
■演劇的人格が世界を支配する
枕が長くなってしまって申し訳ない。編集部からの依頼は追悼特集のために団鬼六作品について書いてくれということだった。
先に挙げた代表作『花と蛇』や、後の傑作『真剣師・小池重明』については他にもっと詳しい方が書かれるだろう。漫画評論家としては漫画化作品を採り上げたい。それも原作が未読なほうがいい。原作との比較ではなく、漫画作品としてどうか?ということである。
そこで、小野塚カホリの『美少年』(マガジン・マガジン)である。
小野塚カホリは主にジュネ/BL(ボーイズラブ)/レディースコミックの分野で活躍するベテラン女性作家だ。昔風にいえば「お耽美」系になるだろう。繊細であると同時にメリハリの効いた鋭利な絵柄の持ち主だ。
『美少年』の筋立てはシンプルだ。関西のK学院大学で軽音楽部に在籍する主人公が、同大学に通う日本舞踊・若松流の御曹子である絶世の美少年・風間菊雄(芸名・若松菊香)と出会う。交際するうちに、菊雄は主人公に惚れ込み、やがて肉体関係を結ぶ。菊雄は男性しか愛せないゲイ(またはGID)だった。しかし、主人公は菊雄との情交に官能しながらもホモフォビアが強くゲイ(またはバイ)であることを自認できない。やがて二人の関係は主人公の恋人・久美子の知るところとなる。その間も菊雄の一方的な恋慕は高まり、主人公の就職にまで手を回すなどストーカーじみてくる。愛想を尽かした主人公は、久美子と悪友の山田に菊雄を陵辱させ、関係を断ち切ろうとするのだが……。
小野塚カホリによる『美少年』の印象は「見事」に尽きる。
BLやレディース作品を私のような男性読者が読む時に生じがちな違和感がないことも大きい。これがもっと少女漫画的な画風であれば無理が出ただろうし、かといって劇画調が強すぎても厳しいだろう。硬質と柔和を兼ね備えた「この絵柄ならばこそ」と思わせる「絵」としての説得力。
特に「美少年」である菊雄の造形には溜息が出た。主人公との逢瀬にはしゃぐ乙女のような菊雄の表情。芸者衆の前で詰め襟の学生服姿で三味線をつま弾く端然とした姿。毅然とした少年と凜とした少女と恋に身もだえする「女」が一人の「男」の中にいる。それを絵で表現できるのが漫画の強みだと言ってしまえばそれまでだが、それにしても……である。
菊雄の内面が「絵」で表出されることにより、読者(私)はさらに深い所へと連れていかれる。この、小学校に上がるまで女装で育てられ、同性しか愛せない、愛らしく、凛々しく、素直で、したたかで、わがままで、傲慢で、底意地が悪く、執念深いという複雑な内面を持つ菊雄の「天性の演技者」性が徐々に見えてくる。
菊雄は普段は「家の躾」で標準語を話すが、「母国語」は関西弁である。つまり内語とは違う「台詞」が日常語というあたりからして、演劇的とも言えるのだが、主人公に、
「……あなたとのお話の時、私も関西弁を遣っても構いませんか?」
と問う菊雄の含羞の表情がなんとも色っぽい。
「これから私とあなたの関係は一線を越えますよ。生の私を見せますよ」
という宣言である。私も東京では標準語を使う大阪人だからわかるのだが、標準語と関西弁の切り替えを意図的に行なうのは難しい。耳から入る言葉によって自然に変化する(なので大阪にいる時に編集者と電話すると、最初は別人かと思われることもある)。本来なら親しくなるにつれ関西弁に推移するはずなのにわざわざ宣言するところが「役者」なのだ。余談ながら、小野塚カホリはあとがきで「上方文化の優雅さと豊かさ」と記しているように、この作品で大きなウエイトを占めるのが、言葉遣いを中心とする上方の匂いである。関西弁の柔らかだったり、下品だったりする言葉遣いの機微は関西人でなければ理解しにくいだろう。また、昭和20年代末期のK学院大学と周辺、つまり西宮、芦屋、神戸文化圏のお育ちの良さと、その裏の不良性は現地に近い人間でないとわからない。その意味で私はある意味特権的な読者の一人であろう。
菊雄の演劇的人格の表出は随所に見ることができる。菊雄が『娘道成寺』の清姫の舞台姿で主人公を追って「うちは清姫になってでも追いかけていくさかいな」と絶叫するシーンなどは役柄への強い投影が見て取れる。だが、それもまた伏線にすぎない。
最後の陵辱シーンにおける菊雄の殉教者的な自己陶酔の姿は、すでに主人公への執着を超えている。主人公はこう独白する。
女の恐怖
屈辱
羞恥といった
表情が
舞台上の演出に
よるかのように
せっぱつまった
倒錯心理の中で
計算されているような疑念さえ感じる
その姿は
まさに
凄惨なまでの
美しさだった
主人公はこの「陵辱劇」のフィナーレに「敗北感に似た惨めさ」を噛みしめることになる。舞台上で久美子や山田にいたぶれる菊雄の姿に受難劇の主役たるキリストを幻視してしまった主人公は、自分が先に舞台を降りてしまったユダであることに気づく。踏み込んで言ってしまえば、ユダの裏切りは天の配剤であり、それは神にとっての必然である。ユダの裏切り無かりせば、キリストの受難と復活もありえず、キリスト教の隆盛もまたありえなかった。
屈辱
羞恥といった
表情が
舞台上の演出に
よるかのように
せっぱつまった
倒錯心理の中で
計算されているような疑念さえ感じる
その姿は
まさに
凄惨なまでの
美しさだった
では、この陵辱劇における「神」とは誰か? 主人公との出会いから破局に至るまで菊雄がすべてを脚本化し、演じていたとまでは言わなくとも、その場その場で臨機応変にシナリオを書きかえているのは菊雄だ。当初は主人公との綺麗な別れを演出し、それがかなわぬとなると、悲劇的結末に向かって台本を書きかえ、役作りをする。
主人公は菊雄にとって恋慕の対照であると同時に恋愛劇の相手役であり、陵辱されるワタシは、悲劇のヒロインなのだ。主人公には名前すらなく、菊雄が常に「あなた」と呼びかけていることも象徴的だ。あまりにも演劇的な、あまりにも強烈な自己愛が、主人公自身の矮小さを自覚させる。
これは以前から団鬼六世界のみならずSMを巡る「主導権を握っているのは実は被虐側ではないのか?」「奉仕しているのは誰か?」という議論とも直結するし、願望と充足という人間の欲望の深淵を瞥見させる。
無論、原作の奥行きあればこそだろうが、その深淵を漫画家として覗き込む小野塚カホリの筆力にもまたただならぬものを感じてならない。
■不良の面目
原作は「私小説」とされている。どこまでが事実に基づいているのかを詮索するつもりはない。この作品の恐ろしいところは40年後の主人公とすでに末期癌に冒され死を目前にした山田の再会から始まる回想談という設定だ。
原作が上梓されたのは団鬼六66歳頃である。
そこには老いを自覚する作家の死生観が、ニヒリズムが、埋み火のように消えることのない美と官能への欲望がまさに私小説的に重ねられていることはいうまでもなかろう。
漫画の冒頭のモノローグを引用しよう。
今となっては
夢のようだ
わざわざ
思い出したくも
ない出来事だ
しかしそれも
もう
許されない
ことかもしれない
枯れ葉と
同じ
いずれ
朽ちてゆく
身ならば
とはいえ懺悔の書ではない。反省も悔悟も表層であって、この二人のロクデナシの不良ジジイどもは、苦い思い出という顔をしつつ、劇的だった己が青春を反芻しているのである。美しい花を蹂躙し、散らしてしまったことは、この二人にとって、かくあるべきことだったのではないか? 美しい花を慈しむだけでは足らぬ。手折って、散らせて、踏みにじってこそ、その「美」は完結する。それが耽美の極致であろう。
夢のようだ
わざわざ
思い出したくも
ない出来事だ
しかしそれも
もう
許されない
ことかもしれない
枯れ葉と
同じ
いずれ
朽ちてゆく
身ならば
この機微を小野塚カホリのペンは余すところなく表現している。このジジイたちの、枯れた色気は文章でも映像でも表現しにくいだろう。特に今まさに朽ちていこうとする山田の老残の色気は凄絶である。
山田と対比される主人公の色気はさらに屈折していて趣深い。老いを実感しながらも、山田のようにすぐに死ぬわけでもなく、死に後れ、長い老後を送ることになる男の憂愁という色気が漂っている。
早世も不良の美ならば、老いさらばえることもまた不良のスタイルなのだ。
団鬼六の内面はどちらの不良老人にも投影されているのだろう。老いてなお、というよりは老いてこそ描ける世界がある。
そう考えると、改めて感謝を込めて合掌したくなる。
団鬼六の世界は、ハードとかアウトローとか呼ばれながら、肉体的な暴力よりも、演劇性、心理性に重点が置かれている。その意味で、内面重視の女性向け「お耽美」とは極めて相性がいい。未読だが小野塚カホリの団鬼六コミカライズには『美剣士』(マガジン・マガジン)があり、こちらも是非読んでみたい。
文=永山薫
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