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「お絵描き文化」の特異な発達を遂げた国、日本。「人は何のために絵を描くのか」、「人はなぜ描くことが好きに/嫌いになるのか」、「絵を描くとはどういうことなのか」――。さまざまな形で「絵を描く人々」と関わってきた著者が改めて見つめ直す、私たちと「お絵描き」の原点。幼い頃は思うがままにお絵描きに没頭し、小学校低学年頃までは自由に楽しく描いていた子どもが、次第に描くことに対する興味が薄れたり、苦手意識をもつようになっていったりする。これは実は、当たり前のことである。それが「大人になる」ということなのだから。
などと言うと、絵を描くのが好きな大人の人はムッとするだろうか。
絵には、子どものその時の精神状態や興味のあり方といった 「心的現実」が色濃く反映される。ことに、言語コミュニケーションが十全な発達を遂げていない時期の幼児にとっては、お絵描きがその時々の自己の内面を直接的に表出する手段。
子どもはまず、「知っていることを描く」。たとえば、空は上にあるから画用紙の上のほうだけ青く塗る。下のほうに描いた家と空の間は空白のままである。その後、だんだんと細かい観察力がついてくるに従って、「見えていることを描く」ようになる。つまり、木々の隙間や屋根の後ろにも空が見えることに気づき、空白のまま放置することがなくなる。こうして子どもは、完全に主観の世界から視覚的、客観的世界へと入っていくのだ。
そうなると、「それらしく」「リアルに」描くために、自分の描いている対象と絵とを、絶えず比較する必要が出てくる。そして観察力や集中力がつけばつくほど、対象と自分の絵との違いに悩まされることになる。あそこを直せばここが気になり、ここを描き足せばそことの辻褄が合わなくなり......。ああ絵ってなんて面倒臭いんだ。
じゃあ目の前のものに囚われず、好きなものを自由に描けばいいんじゃないか? たしかに。だが、人間を一人描くのでも、家や車を描くのでも、動物や花を描くのでも、実物がどうなっているか知っていてそれらしく描ける最低限の画力が必要だ。それがあって初めて、何でも見ずに好きなように描けるのだ。そのためには、やはり「観察して描く」ことを積み重ねないとならないわけだ。結構な修行である。
では、まずお手本を真似して描く練習をすればいいんじゃないか? 好きなマンガやアニメのキャラを真似して描くように。そう、多くの子どもは、一度はマンガや図鑑の絵をそっくりに写して描くということをする。私も数えきれないほどやった覚えがある。トレーシングペーパーに写し取るという方法も試みた。二次元のマンガや図鑑の絵は、三次元の現実より情報が整理されていて、動いたり影が変化したりしないから、見て写すのには適している。日本画で模写が重んじられているのと同じで、結構、描き方の勉強になったりする。
さて、ここで道は二つに分かれる。一部の子どもは写す中で覚えた手法を使い、自分のオリジナルを描こうとますます絵に没頭していく。だが多くの子どもは写すのに飽きたり、それでもう充分描くことに満足したりして、絵から離れていく。
なぜかと言えば、絵での表現より、言語での表現のほうが圧倒的に便利だからだ。
人に強制インストールされる社会化ツール「言語」は、子どもの成長とともに急速に発達し、お絵描きによる感情表出やコミュニケーションを追い越す。みんなにわかる言葉遣いで、みんなに伝わるように自分の感情や意見を表明したり、書いたりすること。それは社会に参入するに際しての、つまり「大人になる」ための必須条件だ。
従って、日々さまざまな言葉を覚え、言葉を使いこなすことで成長していく子どもにとって、お絵描きはまだるっこしい方法となってしまうのだ。小学校低学年のうちは図工が楽しいが、言語活動が高度になっていく小学校中学年くらいから、次第に興味関心が低下していく傾向があるという。描くことに特別な楽しみや遣り甲斐を見出していたり、言葉以上に自己の感情をそこに託せると信じる、一部の子ども以外は(彼らの中から画家やイラストレーターや漫画家を目指す者が出てくる)。
京都造形芸術大学アート・プロデュース学科の、私の講義を取っている学生たちに聞いてみると、小学校の図画工作が「楽しかった」人は「つまらなかった」人の約2倍いるが、中学校になるとそれが逆転する。この現象は、私がこれまでにあちこちで見たアンケート結果ともほぼ一致している。
「つまらなくなる」理由を聞いてみると、いろいろ出てきた。中学生の場合を挙げていくと、受験に関係ない、何の役に立つのかわからないといった、目的の喪失。教科書がつまらない、扱う範囲が広過ぎる、急に専門的になる(デッサン、美術史など)、身近なこととの繋がりが感じられないなど、内容の問題。
特に、指導と評価への疑問が集中していた。以下はその一部。
・先生の好みや描き方を押し付けられる
・放任気味で適切な指導がない
・評価基準が明確でない
・自由に描いてもいいと言われながら、技術の巧拙で評価される
美術は「自由」で「個性」が大事って言うんなら、点数だってつけられないはず。評価をするなら基準を示して、何をどうすればいいのか方法論や技術を教えてほしい。多くの学生がそう思っていた。
もちろん、良い先生に恵まれたという学生もいる。指導者の裁量に任される部分の多い図工、美術という教科は、先生によって「楽しいか楽しくないか」「興味をもてるか否か」が大きく左右されるのだ。
思春期ならではの自意識の問題を、理由として挙げる人もいた。
・人と比較したりされたりして、自信をなくす
・周囲の人達から笑われたり否定されたりする
・ほめてもらえないと楽しくなくなる
人の視線が急に気になってくるこの時期は、コンプレックスを抱え込みやすく、傷つきやすい。先生の選んだ「優秀作品」などが廊下に張り出されると、上手く描けないのを苦にする子どもはますますコンプレックスを刺激される。
それらの絵が上手いことはわかる。でもどこがどう上手いのか、どういう工夫がされているのか、どういう見方や技術によって、その絵が成立しているのか、そこまで懇切丁寧に解説されてないことが多いのではないだろうか。そして「結局、センスの問題かぁ。あー無理無理」という諦めの心境に至るのだ。
中学生くらいで美術の授業がつまらなくなる理由として、大学生から最後に出てきたのは、技術にまつわることだった。
・自分の表現したいことが思い通りにできない
・なかなか上達しない
美術の授業では、絵画だけでなく、彫刻、デザイン、工芸、鑑賞などさまざまなジャンルを幅広くやるのが通常だが、透視法・遠近法を取り入れた再現描写を基本とする絵画は、やはりその中心にある。写生大会、友だちの顔を描く、校庭で樹木や花を観察して描くなどはもっともよく取り入れられている課題だろう。
ではその再現描写、写実表現の方法論や技術、いわゆる「描き方」を、図工や美術の時間に教えるべきか否か。「小学校中学年くらいから」「高校から」までさまざまな意見が出たが、「描き方を教えたほうがいい」という意見が多かった。
ネットを見ていると「絵が早く上手くなる方法」とか「顔の描き方のコツ」とか「これさえ押さえれば不自然に見えない人体の描き方」といった記事に、いつもたくさんのブックマークがついていて、リアリズム描写への欲求の大きさに驚かされる。皆、「描き方」をすごく知りたがっているのだ。
「でもそれは絵を描くのが好きな人、プロになりたい人じゃない? 一般人には必要ないでしょう」という意見もあるだろう。では将来、絵描きになるわけでもない普通の子どもが、写実表現の方法論と技術を学んでプラスになることは何だろうか。それは大まかに言って二つある。
第一に、観察力の重要性を身を以て知ること。描くためには、対象をじっくりと観察しなければならない。予断を捨て、あらゆる角度からものを見ること。観察力は、自然科学を初めとしたあらゆる学問のみならず、社会生活においても非常に重要な能力だ。絵が上手に描けなくても、物事への鋭く丁寧な観察力によって、発明や発見のヒントを得ることもある。
第二に、美術の知識を得ること。「上手く描けるようになるか否か」は人ぞれぞれだが、知識は平等に学べる。透視法、遠近法は世界認識の方法の一つであり、美術についての知識だ。構図の取り方やその効果、立体表現、質感や空間感の表現も、それぞれの方法と技術に基づいた知識。美術についての知識があれば、絵画作品を「天才のなせる技」という曖昧なものではなく、「知の構築物」として見直すことができる。知っている技術が一つも使われていないのに「凄い」と思える絵は、ではどんな「知」によるものか。こうして、美術を「得意/苦手」「好き/嫌い」とは別の観点から見始め、ものの見方が広がっていく。
一般の人は、絵が下手でも苦手でも何の問題もない。絵を見る側なのだから。でも、ものをしっかりと見る観察力と美術についての知識があれば、その鑑賞体験は何倍も豊かになるだろう。学校での美術教育は、その基礎を作る場。美術の時間とは、「絵を描くのは苦手でも、見るのは好きな子ども、見ることを通してものを考える子ども」を育てる時間なのだ。
絵・文=大野左紀子
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絵を描く人々
第1回 人は物心つく前に描き始める
第2回 「カッコいい」と「かわいい」、そしてエロい
『あなたたちはあちら、わたしはこちら』公式サイト
16.07.02更新 |
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