Criticism series by Sayawaka;Far away from the“Genba”
連載「現場から遠く離れて」
第一章 ゼロ年代は「現場」の時代だった 【3】ネット時代の技術を前に我々が現実を認識する手段は変わり続け、現実は仮想世界との差異を狭めていく。日々拡散し続ける状況に対して、人々は特権的な受容体験を希求する――「現場」。だが、それはそもそも何なのか。「現場」は、同じ場所、同じ体験、同じ経験を持つということについて、我々に本質的な問いを突きつける。昨今のポップカルチャーが求めてきたリアリティの変遷を、時代とジャンルを横断しながら検証する、さやわか氏の批評シリーズ連載。
ゆっくりと回り、煙でできた霞に光線を放つミラーボールは、どんなクラブにも設置されている。ミラーボールは、ステージの上のスターだけを照らすのではなく、アーティスト、ファン、プロモーター、ライター、業界の重役、クラブのオーナー、バーテンダー、常連客、はじめての客など、すべての参加者にスポットライトをあて、通り過ぎ、クラブ地帯の記号論を照らし出している。これらすべてのアクターのあいだに生じるダイナミックな相互作用が、クラブ・シーンに生命を吹き込む。
このいささか詩的な表現によって、コンドリーは「現場」とは特定の場所ではなく、ヒップホップカルチャーをめぐって登場する様々なプレイヤー同士の相互作用によって発展する文化的な創造そのものなのだと説明付けている。プレイヤーとはアーティスト、ファン、レコード会社、メディアという四群に大別されており、特徴的なのはそれぞれに固有の権力を持つことだ。たとえばファンはアーティストから作品やパフォーマンスを与えられるだけでなく、それらに対して直接に意見を述べることができる。またレコード会社はどのようなレコードをリリースするかにおいて絶対的な権力を持つが、それをうまく売り抜けるためにはヒップホップカルチャーの動向に配慮し、それを学び、他の立場にいるプレイヤーと協力しながら適切な商品を送り出す必要がある。メディア・ライターはカルチャー全体に問題提起し、活性化させ、より発展的であるような記事を書く必要がある。そのような相互作用によって成長する文化活動の総体を指して、コンドリーは「現場」と呼んでいる。
翻訳書の解説で上野俊哉が指摘しているように、それは「現場」としてだけでなく、日本ではヒップホップやテクノの関係者の間で「シーン」とも呼ばれているものである。そして「現場」「シーン」という概念は90年代以降にはクラブカルチャー全般でポピュラーなものになっていたし、さらにゼロ年代以降はアイドルファン層にも持ち込まれた。これは単にコンサート会場を「現場」と呼ぶようになったという意味でもあるが、現在のアイドルファンは「オタ芸」や「コール」によって自分たちもまたライブを盛り上げていると自認しているし、CDを買うことによって自分たちが「シーン」を支えているのだという自覚もあるのである。さらにアイドルのプロデュース方針について様々な議論を取り交わし、アーティストがファン層の望む方向性と異なる行動を取った場合やレコード会社がアーティストの魅力を損なうような商品化を行なった場合には大いに批判的な姿勢を取る。こうした傾向はヒップホップやテクノでの感覚と何ら変わらない。アーティスト、ファン、レコード会社、メディアが相互にコミュニケーションしながらよりよい形で文化を拡大しようとする、全く同じ「現場」の姿があるというわけだ。
もっとも、「現場」が総体としての文化創出の場として賞賛されうるとしても、コンドリーの記述にあるように、「現場」にコミットするプレイヤーの中心に場所としてのクラブ、あるいはライブハウスなどのように、宇川の言葉を借りれば「身体的なコミュニケーション」のある場所が据えられているのは明らかである。コンドリーは渋谷にある有名レコードショップ「マンハッタンレコード」の経営者、板垣年哉によるコメントを紹介して次のように言う(※11)。
購入するだけではファンではない。むしろ、人は積極的にヒップホップ文化に参加しなければならない。このことはその人の表現スタイルを見つけるということも意味している。クラブでまわしている多くのDJと同じように、多くの若者が自分をDJであると称する。だが、かれらがプレイしている場所を訊いてみれば、ただ自分の部屋でプレイしているだけだということが明らかになると板垣は述べている――すなわち、「かれらはただのオタクだよ」。ある人がヒップホップに関与していることを証明するためには、その人はクラブ、つまりシーンの〈現場〉で演奏し、バトルでスキルを示し、そしてクラウドを揺り動かさなければならないのだ。
注意すべきなのは、ここで板垣が言っている「オタク」というのは、もちろんアニメやゲームを楽しむ者への批判ではないし、またいかなる特定のトライブへの批判でもないということだ。その意味ではこのコメントは「オタク」批判ではない。そうではなくて、ここでは前世代的な「オタク」像にイメージされていたメンタリティ、つまり中森明夫が揶揄した「内向性」がそのまま「オタク」という言葉に読み込まれて、これが批判の対象となっているのである。
ネット上のコミュニケーションを見た宇川が「ここに足りないものは「身体」だと気づいた」としてDOMMUNEを企画した発想は、日本のクラブカルチャーの文脈を意識したアプローチとしては実に的確だったことがわかる。「現場」はさまざまなプレイヤーが参加して文化を創出する相互作用そのものとして賞賛されており、しかしそれは「フィジカルな人間の交流」への参加を伴うことが半ば前提化されているのである。
逆に言えばこうしたクラブカルチャー的な「現場」像が想定する文化の創出とは、インターネット上だけで完結することはない。『日本のヒップホップ』にはインターネットの立場について言及した個所もわずかにあるが、それはファンが自分の意見を表明するものとして、ファンジンと同等のメディアとしての扱いである。
しかし、反論のために次のような例を挙げることが可能かもしれない。というのも、ネット発のコンテンツの中には、どこにも「身体」を伴わずに生み出されるものがあるのだ。動画投稿サイト「ニコニコ動画」を中心としたコミュニティで作り出される楽曲がそうだろう。ニコニコ動画から生まれる楽曲、そしてそれを商品化したものは、作曲者が音楽を投稿し、リスナーがそれを評価し、絵師と呼ばれるイラストレーターが曲にイラストを付け、デザイナーがブックレットなどのデザインを行なって、レコード会社がそれを商品化するという流れで作られることがある。そこではしばしば「初音ミク」のような合成音声ソフトが使われることもあり、ニコニコ動画を運営するドワンゴの企業理念「ネットに生まれて、ネットでつながる」に忠実であるかのように、徹底して身体性を欠いた形で楽曲が作られていくことも珍しくない。その手の試みで最も成功した具体例としては、たとえば楽曲がニコニコ動画上で600万回以上も再生され、メジャーリリースされたアルバムで5.6万枚の初動売り上げとなったsupercellなどの名前が挙げられるだろう。その活動は「クラブ」が担当していた部分が「ニコニコ動画」に差し替えられただけで、従来の「現場」と同じプレイヤーたちによる相互作用によって営まれているように見えはしないだろうか。そもそもsupercellという名称はアーティストとしてのグループ名やユニット名を指すわけではなく、作曲を行なうryoを中心として様々なイラストレーターやデザイナーがコラボレーションして作品を作り上げていく現象自体を指すものなのである。つまり彼らは従来「現場」と呼ばれていたものを「supercell」と名付けたと言ってもいい。彼らの活動がもし、身体性を持っていないがゆえに従来の「現場」とは異質だと言われるとしたら、それは不思議なことである。「現場」にとって重要なのはプレイヤー間の相互作用による文化の創出ではないのか、それとも、それはコンドリーの誤解であって、実際に重要なのは身体性、場所自体だというのか。
文=さやわか
【註釈】
※10『日本のヒップホップ 文化グローバリゼーションの〈現場〉』(NTT出版、2009)147頁より。
※11 前掲書 219頁より。
関連リンク
DOMMUNE (ドミューン)
http://www.dommune.com/
初音ミク が オリジナル曲を歌ってくれたよ「メルト」 ‐ ニコニコ動画(原宿)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1715919
さやわか ライター、編集者。漫画・アニメ・音楽・文学・ゲームなどジャンルに限らず批評活動を行なっている。2010年に西島大介との共著『西島大介のひらめき☆マンガ 学校』(講談社)を刊行。『ユリイカ』(青土社)、『ニュータイプ』(角川書店)、『BARFOUT!』(ブラウンズブックス)などで執筆。『クイック・ジャパン』(太田出版)ほかで連載中。
「Hang Reviewers High」
http://someru.blog74.fc2.com/
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11.03.20更新 |
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