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↑「なつかしの美少女エロ漫画を語る会」オープニング。左から浦嶋嶺至、眠田直、ねぐら☆なお、稀見理都の各氏(6月25日・ネイキッドロフト)

2010.06.25 Fri at NAKED LOFT
イベント「なつかしの美少女エロ漫画を語る会」
2010年 6月25日(金) 於・東京・新宿「ネイキッドロフト」
1980年代初頭、SFファンジンからロリコン/美少女コミックというムーブメントが生まれました。 それは短い期間で『プチ・アップルパイ』、『美少女症候群』や『レモンピープル』に『ロリポップ』、そして『漫画ブリッコ』を経て、やがて『ペンギンクラブ』に端を発するエロ漫画誌の時代へと移り変わっていきます。 歴史的にも貴重でレアな証言が満載だったユニークなイベント「なつかしの美少女エロ漫画を語る会」のレポートを添えながら、漫画評論家・永山薫氏に80年代初期ロリコン漫画誌の時代を振り返っていただきました。
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■懐マンとしての美少女エロ漫画?

6月25日、「『萌え』の源流、ロリコン漫画の草創期を語る!」と謳う『なつかしの美少女エロ漫画を語る会』が開催された。出演は、眠田直、ねぐら☆なお、浦嶋嶺至の三人を中心に、ゲストとして千之ナイフ、シークレットゲストとして、小杉あや(ゆきあやの)、横田守(イラストレーター、アニメーター)、田中雅人(南京まーちゃん)、猫井るととが登場という、豪華でマニアックなラインナップ。データ協力にエロ漫画研究家の稀見理都という強力な助っ人を配した一夜となった。

正直、現役読者だった筆者としては「えーっ、もう懐マンなの!?」と驚いたりもしたわけだが、考えてみれば、ロリコン漫画、後の美少女系エロ漫画が商業誌として登場したのが81年暮れ。ほぼ30年前の話である。今回の話の中心が80年代初期から80年代後半と考えれば、当時の高校生(まだ18禁ではなかった)が、現在では30代後半〜40代後半である。実際に会場に足を運んだ観客も、30代から50代、中心になるのは40代という印象だ。壇上の漫画家たちのエロ漫画を読んで育った次の世代のエロ漫画家の姿も見える。予想以上の満員御礼で、立ち見も出るほどだった。

エロ漫画の歴史については、拙著『エロマンガ・スタディーズ』(イースト・プレス)と、ようやく一冊にまとまった米澤嘉博の『戦後エロマンガ史』(青林工藝舎)、エロ漫画編集者・塩山芳明の『エロ漫画の黄金時代』(アストラ)など、参考になる書籍が増えてはきている。ところが現場の漫画家視点のエロ漫画史は意外と少ない。ダーティ・松本の『エロ魂』(オークラ出版)がフィクショナルな要素を含みながらも数少ない例外と言える。その意味でもベテラン漫画家の肉声による「歴史語り」は、主観的で客観性に欠ける部分があるとはいえ、いや主観的な分リアルで貴重であるとも言えるだろう。今回は初期ロリコン漫画の歴史を振り返りつつ、イベントで得られた証言をピックアップしていこう。


■前史1:ロリータ写真ブーム

↑70年代の美少女ブームのサブジャンルとしてのアリス・ブーム。『金子國義アリスの画廊』(72年・美術出版社)と、沢渡朔の写真集『少女アリス』(73年・河出書房新社)。


イベントは美少女系エロ漫画の源流であるロリコン漫画が誕生した80年代初期の話から始まる。しかし、注意しておかなければならないのは、どんな文化もゼロから生まれるわけではないということだ。この世界的に見ても特殊なジャンルであるロリコン漫画が登場するにはそれなりの前史があり、過程があった。
そこで、まず70年代には、現在からは想像しにくいほどの美少女ブームがあったことを知っておいて欲しい。このブームは当初、美少女写真集という形で立ち現われる。日本最初の少女ヌード写真集は剣持加津夫の『ニンフェット・12歳の神話』(66年・ノーベル書房)とされているが、この時の衝撃はあくまでも一時的な衝撃に終わったと見るべきだろう。ブームの火付け役となったのは剣持の七年後に登場する沢渡朔撮影の写真集『少女アリス』(73年・河出書房新社)であった。撮影当時8歳だった少女モデルのサマンサは同書で一躍注目され、明治製菓のチェルシー(キャンディ)のコマーシャルに登場、「あなたにもチェルシーあげたい」のたどたどしい台詞を記憶している中高年も多いだろう。


↑明治製菓「チェルシー」CM


沢渡の『少女アリス』とほぼ同時期に、『アリスの絵本』(73年・牧神社)という高橋康也編集のアンソロジーが刊行された。図版及びテキストを寄稿したのは瀧口修造、四谷シモン(人形を撮影したのは沢渡朔)、田村隆一、谷川俊太郎、天沢退二郎、種村季弘、森茉莉といった錚々たるメンバーである。同書の一年前に出た『金子國義アリスの画廊』(72年・美術出版社)と併せて見れば、70年代初期には写真、文学、芸術というジャンル越境的な、現在でいえばサブカル文化人を核とする、美少女のイコンを賞翫し、少女性というイデアを称揚するミニブームがあったことがわかるはずだ。

このディレッタントの知的遊戯としてのアリス・ブームはほどなく終息に向かうが、この時の衝撃が、一方では70年代後半の通俗的な(というと語弊があるが)大量消費財としての量産型美少女ヌード写真集へとつながっていく。その代表的な例として挙げられるのが清岡純子の『プチ・トマト』シリーズだったし、ヨーロッパの美少女を撮った山本隆夫、身近な日本人少女たちの街撮りで名を馳せた近藤昌良などのムック形式の写真集だった。さらに『Hey! Buddy』(80年創刊・白夜書房)などのロリコン・グラビア誌が裾野を拡げていく。

80年前後の美少女/ロリコンのブームは、よりマニアックなアダルトショップ系市場でも展開され、海外チャイルド・ポルノやヌーディスト雑誌のリプリント版が堂々と販売されていた(ちなみに新宿の某ショップでは、アムステルダムのゲイ出版社の少年愛小説のペーパーバックや、社会学者のペドファイルに関するフィールドワーク資料までが売られていた。これは新宿二丁目が近いせいもあったのだろう。高田馬場にロリコン専門のアダルトショップ「ぺぺ」が開店したのが正確にいつだったのかは記憶にないが、80年代前半だったことは間違いない。いずれにせよ、真性のペドファイルが、さぞや我が世の春を謳歌したであろうことは想像に難くない。しかし、実際のところ、真性ペドファイルだけでこのロリコン市場を支えられたわけがない。後に『Hey! Buddy』85年11月終刊号で公表された読者アンケートによれば、当時「ロリコン者」と呼ばれた読者の9割以上が、ロリコンとは思えない回答を寄越していた(たとえば「女子大生のお姉さんに誘われたらついていく」)。当時はヘアヌード解禁以前であり、ほとんどの読者は成熟した女性器の代替物として「幼女のワレメ」を消費していたのである。

■前史2:SFファンダムから生まれたロリコン

知的遊戯としてのアリス・ブームを継承したのは、後にオタクと呼ばれることになる60年代生まれの(当時の)大学生を中心とする若い世代だった。もちろん彼らとてロリコン写真集の消費者だったろうし、彼らのロリコン趣味に性的ファンタジーが投影されていたこともまた事実だろう。しかし、彼らはそれ以上にロリコンを「ネタ」として、あたかも祭りを楽しむようにロリコン的な企画に参集した。この時、中核となったのがSFファンダムである。オタク的な趣味は後に細分化されていくわけだが、当時は「ネタ」の供給も少なく、オタク的な若者が結集しうる場所はSF界隈しかなかったのである。彼らはアニメや特撮を楽しみつつ、アニメ(79年『ルパン三世・カリオストロの城』のクラリスなど)や漫画(『うる星ヤツら』のラムなど)人気を組み込んだ「ロリコン」ブームを仕掛けていく。コミケットの前代表だった故・米澤嘉博も編集者、ライター、評論家として、このブームを仕掛けた一人であるが、彼もまた評論漫画同人誌『迷宮』のメンバーであると同時にSF大会に参加するSFファンだった。第一回コミケットの開催は75年だが、その前身はSF大会を手本とする「日本漫画大会」であり、SFと漫画、アニメ、特撮は相互に密接に連携していた。70年代末から始まるロリコン漫画同人誌活動の中核となったのも、多くはSFファンだった。

当時は学生だった浦嶋嶺至のイベントでの証言からも、ロリコン漫画がSFの周縁として捉えられていた側面があったことは間違いない。浦嶋嶺至がSFとロリコンの近接として『別冊SFイズム』(みき書房)の『まるまる新井素子』(表紙は吾妻ひでお)、『わくわく谷山浩子』の例を挙げていたのがおかしかったが、80年代ではSFという括りの中に小説から漫画から深夜放送まで違和感なく入っていたのだった。そのため、ロリコン誌デビューの作家が普通にSFに移行する。たとえば、真鍋穣治、あさりよしとお、園田健二などだ。後には唯登詩樹のようにSF→美少女系→SFと自由に行き来する作家も出てくる。

この時期、名を馳せた同人誌は、蛭児神建の『幼女嗜好』、吾妻ひでおの『シベール』(79年)、『クラリス・マガジン』(80年8月)、千之ナイフの『人形姫』(80年12月・サーカス・マッドカプセル)などであり、これらの同人誌に関わった人々が、その後のロリコン漫画ブームを作り、拡大していくことになる。

■『レモンピープル』の時代

かくして、81年末『レモンピープル』創刊をもって、ロリコン漫画、後の美少女コミック(美少女漫画)の時代が幕を開くことになる。ただ、筆者も拙著ではショートカットしているが、米澤嘉博が『戦後エロマンガ史』で、三流劇画ブーム末期に美少女劇画誌が何誌も登場していたことを記録していることにも注目すべきだろう。実際、内山亜紀は野口正之として美少女劇画の人気作家だったし、また、中島史雄に代表される三流劇画の「レモンセックス派」も注目を集めていた。しかし、そうした「美少女劇画」はロリコン漫画によって急速に淘汰されていくことになる。


↑会場のモニターより『レモンピープル』(82年11月号・あまとりあ社)。創刊号からこの号までは中綴じで、表紙は少女モデル。


さて、イベントを少し覗いてみよう。最初に登壇したのは、浦嶋嶺至、眠田直、ねぐら☆なお、稀見理都の四人。まずはモニターには82年11月号が映し出される。ちなみに82年2月号(創刊1号)からこの号までは中綴じで、眠田直が指摘するように「微妙な」リアル美少女が表紙を飾っていた。11月号の表紙には「ロリコン&美少女コミック」とある。つまりこの頃までは美少女グラビアも重要な要素と考えられていた。当初出席を打診されていた創刊当時の執筆者だった劇画家ダーティ・松本は体調不良もあって残念ながら欠席。後で直接本人に確かめてみたところ、当時、久保書店では人気の高かった、野口正之(内山亜紀)と吾妻ひでおをフィーチャーした雑誌を作ろうという動きがあったという。創刊当初の執筆陣を見ても、すでに三流劇画誌内美少女劇画で人気のあった中島史雄、谷口敬などが名を連ねていることがわかる。『レモンピープル』も最初期の段階では『漫画ハンター・ドッキリ号』のリニューアルという位置づけで「美少女劇画」ユーザーを意識していたと言えるだろう。


↑リニューアル後の『レモンピープル』(82年12月号)。


ごらんのように12月号は平綴じに変わり、表紙も写真から吾妻ひでおのイラストに変わった。11月、12月号の表紙に並ぶ作者名の扱いを見て目立つのは、内山、千之、阿乱霊、破李拳竜といった初期『レモンピープル』を代表するロリコン系漫画家だ。ダーティ・松本に訊いたところによると、劇画系は読者の支持を得られず、松本も単行本一冊分(『白鳥の湖』)で撤退したという。筆者の記憶では、時間が圧縮されているが、実際には82年の一年間で、劇画系が淘汰され、ロリコン漫画が勢力を伸張し、定着したと見るべきだろう。なお、表紙の「美少女コミック」は吾妻ひでおが「ロリコンではなく別の名前にして欲しい」と要望したためらしい。美少女漫画(コミック)という呼称は大塚英志が『漫画ブリッコ』で始めたという説もある。このあたりはさらに文献調査が必要だろう。あと、特筆すべきは同誌の創刊号から阿島俊こと米澤嘉博による同人誌レビュー「同人誌ピックアップ」の連載が始まったことだ。このレビューは当初三回で終わる予定が、休刊するまで続くことになる。阿島のレビューは同誌に限らず、大きな枠組みで美少女漫画界と同人誌界をつなぐパイプとして機能したと考えられる。


↑阿島俊『漫画同人誌エトセトラ'82-'98』久保書店

中とじのエロ劇画誌スタイルだった同誌は、エロ劇画家と同人誌出身作家が混在する過渡期の形態であり、同人誌というものを紹介、説明する必要があった。「シベール」登場以降の「ロリコン同人誌」と既存のエロ劇画を繋がなければ雑誌が成立しないと考えていた事もあって、おいしいところを紹介するようにしていた。

『漫画同人誌エトセトラ'82-'98』
著者=阿島俊 発行=2004年9月 出版社=久保書店)

同書では触れていないが、90年代には久保書店から阿島俊や岩田次男編集の『美少女同人誌アンロソジー』がほぼ定期的に刊行されており、当時の同人誌作品の「現物」に触れることもできる。後発の美少女漫画誌の多くも同人誌レビュー欄を設けることになるし、同人アンソロジーの類も複数の版元から出版されるようになる。同人誌界は、新人作家の供給源としての大きな役割を果たしていくことになる。

■美少女漫画とエロ漫画

↑ 『アニメージュ増刊 アップル・パイ 美少女まんが大全集』(82年3月・徳間書店『アニメージュ増刊』)。


現在からは想像しにくいかもしれないが、当時の「ロリコン」はそれほど後ろ暗いものではなかったし、世間がさほどバッシングすることもなかった。エロではない漫画情報誌『ふゅーじょんぷろだくと』やアニメ誌の特集でも流行現象の一つとして採り上げられているし、イベント当日の浦嶋嶺至の証言によれば読売新聞でもロリコン青年の姿が紹介されている。ある意味オーバーグラウンドの世界にも認識された「流行」だった。その好例が『レモン・ピープル』創刊直後に出版された『アニメージュ増刊 アップル・パイ 美少女まんが大全集』である。版元がエロとは直接関係ないがSF(小説・アニメ・漫画)に強い徳間書店であることにも留意されたい。そのラインナップは三流劇画でもロリコン誌でも活躍する谷口敬、村祖俊一、アニメ系のこのま和歩、『スケバン刑事』が大ヒット中の少女漫画の和田慎二、今でいえばサブカル系に近いふくやまけいこ等だった。ジャンル横断的というべきか、とにかく「可愛い女の子」が描ければオッケーという誌面作りだったのである。この流儀は同増刊の後継誌(アンソロジー)である『プチアップル・パイ』(同誌名は第二号より。第一号は『美少女まんがベスト集成』82年11月)でも踏襲される。


↑ 『プチアップル・パイ』第6号(84年3月)徳間書店。表紙は江口寿史。


同誌では先に挙げた作家陣以外にも、めるへんめーかーなどの少女漫画家も寄稿していた。また、あさりよしとお、あびゅうきょなど独自の世界を構築した漫画家も多い。この徳間の「美少女まんが」にかかわったのが大塚英志だ。後に大塚は緒方源次郎とともに、後に『漫画ブリッコ』(セルフ出版/白夜書房)のリニューアルに携わる。この新編集部が、同誌に起用した作家は『プチアップル・パイ』と大きくかぶっている。一般誌とロリコン漫画誌の垣根は極めて低かったわけだし、そもそもロリコン漫画のエロ度も極めて低かった。フェチ度が高く、現在でいえば「萌え」要素も強かったが、具体的な性交シーンは売り物というよりは「エロ漫画」としてのアリバイ作りに近いところがあったし、全く性交シーンのない漫画も少なくなかった。


↑ 『漫画ブリッコ』85年9月号 白夜書房。大塚英志と白倉由美はこの号が最後。次号以降は斎藤O子が編集長に。


たとえば、『漫画ブリッコ』の85年9月号を見てみると、巻頭カラーは『魔法のルージュ リップ☆スティック』関連でワンカットのみフェラ前イラスト。実は前半で唯一の「エロ」がこれだ。外園昌也のSFアクション長編『KIM』最終回31P全編エロなし、西秋ぐりんの淡々コメディ『ミヤイヌミ』16Pエロなし、みなみゆうこ『コマンド・レイナ』20Pエロなし、早坂みけ(三留まゆみ)のギャグ『シリーズ麻衣子お!』8Pエロなし、後藤寿庵のギャグ『宇宙刑事モーモー』4Pエロなし、暮林ともの少女漫画『スーパーガールレイリィ』2色始まり20Pエロなし、中田雅喜のコメディ『真・ダンボ』8Pエロなし、寄生虫(増田晴彦)のスペオペ長編『キャプテンジーク』20Pページ(女の子も出てきません)、おおやまさひろ(オーヤ舞/おおや舞)の女子プロレスコメディ『ブロイラー・エンジェルズ』16P(性行為2P)、岡崎京子『さらば愛しき者よ』16Pエロなし、中森愛の艶笑コメディ『締切厳禁トラブルあんね』16P(性行為12P)、川野靖博のコメディ『部長刑事バイダー』6P(エロなし)。なんと228P中、性行為を描いているページは14Pにすぎない。しかもそのほとんどは中森愛のスラップスティック・エロコメディの中での性行為描写である。これで抜ける人もいるだろうが、筆者は無理だ。エロ含有量は現在の一般青年誌以下だし、内容的にはほとんどSF漫画と少女漫画だ。この号に限らず女性作家が多いこともポイントだ。これのどこがエロ漫画なんだ!?と思うだろうが、『漫画ブリッコ』では、この後もこんな調子だったし、先行誌の『レモンピープル』も似たようなものだった。当時はこれでもエロ漫画誌として認識されていたし、三流劇画はとは違う自分たち好みの「エロ」として愛好していたのである。

では初期のロリコン漫画、美少女漫画にかかわった漫画家たちはどうだっただろうか? イベントで興味深かったのは浦嶋嶺至がしきりに「ロリコン漫画」と「エロ漫画」を分けて語っていた点だ。エロ漫画のエロをちゃんと追求して描いている浦嶋嶺至なので、この「切り分け」感には説得力がある。「描きたかったのはポルノではないサムシング」という言い方もしていた。そのサムシングはある意味、後の「萌え」として展開していったと見ることもできるだろう。


↑ ねぐら☆なお「ファーストレッスンABC」(『漫画ブリッコ』85年11月号所載)


ねぐら☆なおは元々、少女漫画を目指していた。美少女漫画については「少女漫画のハッピーエンドの次を描きたかった」というのが原動力になっている。そのため眠田直が「ねぐらさんの漫画って和姦なんだよね」と証言するように、レイプしてどうのこうのというスタイルではない。今回、古い資料を漁っていたら、わりと早い時期から自称・他称ともにねぐら☆なお=「和姦漫画家」という肩書が定着していた。ねぐらの少女漫画スタイルは、その後も大きく揺らぐことはなかった。


↑ イベント中盤。横田守(左)小杉あや(ゆきあやの・左から3番目)、千之ナイフ(4番目)

↑ 千之ナイフの初単行本『夜姫』(82年・久保書店)

↑ モニターに映し出されたゆきあやの作品(『コミック・ラム』87年VOL.1・司書房)


ロリコン/美少女漫画の描き手の意識はそれこそケースバイケースだと思うが、先に挙げた『漫画ブリッコ』の実態を見ても、「エロ漫画は抜かせてナンボ」とポルノ的表現に邁進した作家の方がマイノリティだったはず。今回のイベントに登場した、千之ナイフにしても、女性作家の小杉あやにしても、エロ追求型の作家ではない。千之は後にホラー系の少女漫画誌でも活躍する。基本は耽美的なファンタジーであり、その美学こそが主題である。女子高生時代に同人を始め、短大生時代に『漫画ブリッコ』でデビューした小杉は図版を見ればわかるように少女漫画そのものだ。

■エロ漫画化する美少女漫画

↑ 『プチパンドラ』(89年9月号・一水社)

↑ 『メロンCOMiC』(84年6月創刊号・ビデオ出版)。

↑ 『ロリポップ』(85年3月号・笠倉出版)

↑ 『ロリタッチ』(88年1月号・東京三世社)。『ロリポップ』亜流誌の確信犯。ロゴも似ていればマスコットキャラのサイズも同じ。本家の部数を抜いたこともあったらしい。


乱暴にいえばロリコン/美少女漫画誌は「エロ漫画も掲載されている漫画誌」であって、エロ漫画誌そのものではなかった。しかし、この路線には限界があった。一つには路線を維持するためには少女漫画やSF漫画の描き手を常に確保しなければならないからだ。さらに、マイナー業界の通弊として、売れたジャンルには後追い企画が集中する。有名どころでは83年には、蛭児神建編集の『PETITパンドラ』(一水社)、84年には『メロンCOMiC』(ビデオ出版)が登場しているが、長続きしなかった雑誌も多数存在する。その中で生き残って行くにはエロの強化というのが一つの答えだったのだろう。一応はエロ漫画ジャンルだった初期ロリコン/美少女漫画誌に物足らなさを感じていた読者も多かったが、三流劇画に美少女キャラが登場したとしても、後にオタクと呼ばれることになる彼らの嗜好に合わなかった。少女漫画、少年漫画、アニメの絵柄で、物語はラブコメ、SF、ファンタジーで、しかもエッチであること。その嗜好の中には、もはやロリコンはマイノリティであり、より現実味のある年齢の美少女キャラ、それも充分に成熟した体型のキャラクターへの需要が高まっていく。このロリータから童顔巨乳美少女への移行を象徴するのが、わたなべわたると、85年末に刊行された『パンプキン』(白夜書房)だった。


↑ 『ペンギンクラブ』(86年10月創刊号・辰巳出版)。森山塔(山本直樹)の作品を載せるために創刊されたという。エポックメイキングな雑誌だった。


美少女漫画のエロ漫画化については、まだまだ研究の余地がある。その意味でイベントで興味深かったのは浦嶋嶺至の「陰毛描き始めた頃が端境期」という説。つまり、それまではかなりアバウトで「多少のエロさえあればなんでもあり」だったロリコン誌の編集方針が、『ペンギンクラブ』の頃からエロ強化へと変わり始めたという。その象徴が「漫画におけるヘア解禁」だったというわけだ。さらに浦嶋証言によると、エロシーンのノルマ化も始まったという。正確な年代こそ不明だが、浦嶋の証言によれば、16ページ作品で当初のエロ・ノルマは6ページで、後には8ページへと増加した。残り8ページには扉も落ちもあり、話として使えるのは実質4〜5ページ程度になってしまう。「これでは話が描けないよ」と漫画家がこぼすのも当然だろう。しかし、その要求に応え、エロ漫画のクオリティを上げていったのも漫画家たちだった。そして、その方向性をさらに進めて、劇画的なパワーを導入し、ハードなエロ漫画を追求し、成功したのが90年代の『夢雅』(桜桃書房)であり、同誌編集部がスピンアウトして立ち上げたティーアイネットの『夢迅』である。そうした流れは実は80年代後半にすでに出来ていたのかもしれない。

しかし、エロ強化によって、売れ行きは伸びたが、失ったものも大きかった。それがロリコン漫画にはあった「サムシング」(浦嶋)ということになるわけだが、これに近いことは拙著『エロマンガ・スタディーズ』でも、エロ漫画から一般誌への「萌え」の流出という形で触れている。かいつまんで言えば少女漫画志向、可愛いもの嗜好、フラジャリティ、フェティシズムといった、性器や性交描写以外の魅力が、外に出て行ってしまったのだ。

もちろん、全編エロだからと言って否定するつもりはないし、否定すべきでもない。萌え志向の読者がエロ漫画ジャンルから流出したかもしれないが、エロに絞り込むことによって、拡がった表現というのもまたある。取ってつけた性交シーンではなく性交のシークエンス自体に物語性を組み込んだり、今一度萌えと抜きの融合が図られたりと漫画のエロ表現に終わりはない。

イベントの最後に、エロ漫画最前線を知る稀見理都が「エロ漫画家はエロ漫画が一番表現力のあるジャンルだと口を揃えている」と述べて、喝采を受けたが全くその通りだろう。エロ漫画家の多くはエロ漫画の表現に賭けているし、メジャーに行くための腰掛けだとも考えていない。卑しい仕事などと言いたいヤツに言わせておけばいい。

■イベント登場作家

■眠田直
アニメ『ミンキー・モモ』パロディや、いしいひさいちファンクラブ、オタクアミーゴス(岡田斗司夫、唐沢俊一とのユニット)などの活動で知られるが、実は別名で『レモンピープル』デビューしていたことを告白。
眠田直 公式サイト「MINDY POWER」

■ねぐら☆なお
『レモンピープル』に「メカと美少女」物を描いて行ったら、「阿乱さんがいるからいらない」と断わられた。ねぐらが同人誌研究家の故・岩田次男(イワエモン)は、ねぐらが通う大学の生協の職員だった。岩田はねぐらに同人誌を出すことを薦め、「お金貸してやるから」と同人誌デビューさせた。また、ねぐらは『メロンコミック』の投稿欄にハガキを投稿し、掲載されるようになっので、原稿を持ち込んだところ、早速、巻中の二色カラーと巻頭のピンナップと巻末のカラーに大抜擢されたという。ただ残念ながら「その後2号くらいで潰れた」
ねぐら☆なお 公式サイト「NNaoSaloon.com」

■浦嶋嶺至
『漫画ブリッコ』の後身『漫画ホットミルク』等で活躍。デビューは大学生時代。美少女系エロ漫画誌を経て、後にカムバックした、ふくしま政美のアシスタントを務める。ハガキ職人・三峯徹ウォッチャーとしても知られ、10月には『タモリ倶楽部』の三峯特集に出演予定。今回のイベントをはじめ、イベンターとしても活躍。Tシャツの制作・販売も。
浦嶋嶺至 公式サイト「AREA41」

■千之ナイフ
デビュー前、松本零士ファンクラブ「ハーロック」の一員だった。吾妻ひでおの同人誌『シベール』に刺激され、同人誌『人形姫』を創刊する。同誌に目を止めた内山亜紀に久保書店(あまとりあ社)を紹介され、山本和都(やまもとかずと)名義でデビュー。「千之ナイフ」は同人誌時代、複数のペンネームで描き分けていた時に使ったもので、本人的にはあまり気に入っていなかったが、インパクトの強いネーミングで、編集者好み。『週刊少年チャンピオン』増刊号の『ヤングチャンピオン』の編集者は「千之ナイフ名義で描きませんか?」と声をかけたが、千之は山本名義で押し通した。ところが雑誌が出てみると「千之ナイフ」になっていて、それを見た『レモンピープル』編集長が「ウチも千之ナイフでやろうよ」と言いだして、現在に至る。
千之ナイフ 公式サイト「千之ナイフ美術館」

■横田守
アニメーター、キャラクターデザイナー、イラストレーター、『KANON』(TVアニメ東映版)、『Air』(劇場アニメ版)のプロデューサーの他、作画監督、ゲーム原画家など、幅広く活躍中。今回登壇した中では最若手。
横田守 公式サイト「MY FACTORY」

■小杉あや
漫画デビュー以前には『レモンピープル』のカットを描いていた。『PETITパンドラ』等でも活躍。その少女漫画タッチでなおかつ美人作家という点で浦嶋嶺至世代の漫画家たちのアイドルだった。後に海明寺裕のアシスタント。三和出版から出ている海明寺の単行本の巻末にあとがき漫画を描いている。海明寺裕も『月刊ウィングス』出身のSF系の描き手で、後にエロに転じ、畜化幻想の極みというべき作品群がある。スナイパー読者なら、室井亜砂二画伯と女犬つながりで御存知の方も多いだろう。ちなみに森林林檎のアシスタントをやっていた浦嶋は司書房で小杉にサインをもらったという過去がある。
小杉あや 公式サイト「小杉のお庭」

■田中雅人
かがみ♪あきらのアシスタントだったが、かがみの急逝後、吾妻ひでおのアシスタントに入り、『月刊コミコミ』(白泉社)の増刊でデビュー。生活が安定するかと思いきや、今度は吾妻が失踪。ゆうきまさみ、とりみきの単行本のアシスタントを勤める。白泉社でのSF、ホラー系の仕事が多く、ロリコン漫画というよりは広い意味での美少女系漫画家。美少女系エロ漫画誌でも描いていたが、そちらでもキャラの可愛さとアイディアと漫画としての面白さが強かった。エロ度、フェチ度が高くなるのは、もう少し後の南京まーちゃん名義作品。SF作品「菊の夢」は本人の公式サイトで読むことができる。ゾンビ・ホラー「ZONE」も公開中。
田中雅人 公式サイト「padadime」

■稀見理都
エロ漫画研究者。精力的にエロ漫画家インタビューを行ない、評論同人誌『エロマンガノゲンバ』を発行。資料収集にも積極的。本稿を書くに当たっては資料協力をお願いした。
稀見理都 公式サイト「えろまんがけんきゅう」

取材・文=永山薫
文中敬称略

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永山薫 1954年大阪生まれ。近畿大学卒。80年代初期からライター、評論家、作家、編集者として活動。エロ系出版とのかかわりは、ビニ本のコピーや自販機雑誌の怪しい記事を書いたのが始まり。主な著書に長編評論『エロマンガスタディーズ』(イーストプレス)、昼間たかしとの共編著『マンガ論争勃発』『マンガ論争勃発2』(マイクロマガジン社)がある。
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10.08.21更新 | WEBスナイパー  >  イベントレポート
文=永山薫 |