新連載 異端のAV監督・ゴールドマンが放つ衝撃の告白小説 毎週日曜日更新!
Autobiographical novel by Goldman [SEX・MOVIE・BLUES]
数々の伝説に彩られた異端のAV監督・ゴールドマンが書き下ろした衝撃の自伝的小説。セックス、ハメ撮り、結婚、逃避、勃起不全……余りにも赤裸々に語られ尽くす、ゴールドマン史における事実、裏話、そして苦悩は、読む者を人生の迷宮に拉致監禁せずにはおかない文学的事件だ。しかし、それを、職業として生きていくと、やがて、鉛のリュックを背負ったまま、ぬかるみの海に沈んでいくような、苦悩を味わうことになる。
2 悪夢のゴム人形
決定的な挫折を味わった。
離婚直後の35歳の時だった。
たぶん、俺のボッキに対する不安は、この時から生じたように思える。
俺は、離婚をしたのをきっかけに、それまで西新宿に借りていた事務所を引き払い、スタッフにも独立してもらい、仕事上は、とても身軽になった。
家庭と事務所を維持するために、俺は、馬車馬のように働いていた。
最盛期には、月に10本以上のAVを監督した。もちろん、ハメ撮りだけでなく、いわゆる企画モノのAVで、女の子が一作品で、5〜10人ぐらい出てくるヤツだ。多いものになると、当時は20人以上出てくるモノもあった。それゆえ、専属のスタッフと撮影機材、小道具、衣装などがおける事務所が絶対的に必要だった。
そもそも、なんでそんなに一生懸命働いていたかというと、その理由は家庭にあった。
結婚して、しばらくしてから猫を飼い始め、最初は2匹だったのが、そのうち子供を産んだり、いろいろあって常に4〜5匹の猫が家にいるようになった。そうなると住居の問題だ。家を買うほどの資金はなく貸し家に住んでいたから、当然、追い出されたり、長くても2年以上借りられる家はなく、10年間で7回も引っ越しをした。それも、すべて一軒屋だったので、引っ越し費用だけでも相当な負担だった。
そして、一番の問題は、別れた嫁だった。
わかりやすく言えば、底のぬけたバケツのような人間だった。生活費として渡した金は、全部キレイに使ってしまう。翌月までには、絶対足りなくなっている。おまけに、健康保険も税金も滞納していたから、次の年にまとめて払わされるハメになる。とくにゼイタクをしまくるとか、ブランド品を買い漁るとかでもないのに、すべての金は消えていってしまう。そのことについて注意すると、泣いて反省しているようだけど、また同じことを繰り返す。
長男が10歳になった時、貯金もゼロで、やはり健康保険も税金も払われておらず、嫁はあいかわらず自覚も反省もなかったので、俺は悲しみと怒りの入り混じった気持ちで、離婚を決断した。
それから、仕事を整理して、できればなにもせず、誰にも会いたくないという心で、ぽつんと新しい生活をはじめた。
事務所のあった西新宿のビルの三畳ほどの水道しかない部屋を借りて、ひさしぶりの銭湯通いも経験した。
とにかく、今までのすべてを変えたい気持ちが強くて、それまで仕事をしていたAVメーカーとは、決別した。
一カ月くらい、ボーッと過ごしてから、最低限の生活費と養育費を稼ぐために、俺は、新しいメーカーで、ハメ撮りをすることにした。
いくつかピックアップしたAVメーカーの中で、一番近かった中野坂上にある会社に、営業に行って即決した。
面倒なことは一切やりたくなかったので、一対一のホテルでのハメ撮りで、なおかつ編集なしの60分ワンカットのリアルな作品を、制作することになった。
離婚のショックと、なれない孤独な生活のため、とにかく、わずらわしいことは避けたかった。心が、空洞になっていたのだ。
なかなか、女のキャスティングが決まらなかったが、もう、そんなことにも興味がもてなかったので、メーカーのプロデューサーにお任せした。俺は、ギャラさえもらえれば、なんでもいいとさえ思っていた。
無事、女も決まって撮影当日。
待ち合わせは、新宿歌舞伎町の風林会館前。
俺は、その日ハメ撮りする女を見て唖然。
“あってはならないことがっ!!"
まさに運命のイタズラだろうか?
その女は、よりによって別れた妻に、そっくりだった。目線を合わせようとしないところも、なぜか、そっくりだった。
俺は、ゾッとして鳥肌が立った。
世界で一番、セックスしたくない相手。
この地球上で、最も裸で交わりたくない動物。
打ち合わせしながらも、俺は心の中で、津波のように押し寄せてくる絶望と戦っていた。
しかし、勝負はすでに決まっていた。
予想通り、ホテルの部屋で二人っきりになると、さらにイヤ〜なムードが漂い、会話が弾むなんてことは別の宇宙の出来事のようで、結局、俺のペニスは60分間フニャフニャのままだった。
衝撃的だった。女と二人きりの密室で、AV撮影とはいえ、終始まるでボッキする気配がなく、むしろ普段よりも縮まって、やわらかすぎるくらいの俺のペニスだった。
AVの仕事をはじめて、これほど無残な結末をむかえたことは、かつてなかった。
その女は、感情のない顔と、ブ厚いゴムみたいに無反応なカラダで、横たわったままだった。俺は、射精さえできずに、撮影を終えた。身も心も凍りそうなほど、寒い寒いセックス撮影だった。
同じメーカーで、3本ハメ撮りをしたが、その後は、ふつうにボッキして、エロいAVになった。
この悪夢のような出来事は、トラウマとまではいかないが、俺のカラダに刷り込まれていて、年に何度か顔を出すようになった。
恋人同士では、絶対に体験しえないお寒いセックス、今これを読んでいるアナタにだけは、味わわせたくないのだけれど……。
3 ニューヨークの妄想
2001年11月、生まれて初めてニューヨークへ渡った。38歳の冬だった。
その直前の9月11日にアメリカでは同時多発テロ事件が起こり、ニューヨークでも世界貿易センタービルが崩壊し大変な事件として日本にもその衝撃が流れた。
別に俺はテロ事件に興味があったとかそういうことではなくて、その1年以上前からニューヨーク行きは決めていた。
できれば永住するつもりだった。
知人たちにはAVの仕事は一切やめて、アメリカの地で音楽活動を中心に生活したいと語っていたはずだ。
でも今思うと根本的な理由としては、30代後半にさしかかり、それまでにないボッキ力のおとろえを痛切に現場で味わい、もうハメ撮りをするには肉体の限界だなと人知れずひしひしとかみしめてした時期で、よく言えば自ら転機を作ろうともがいていた、悪く言うとAVからの逃避だろう。
十数時間もきゅうくつな飛行機にゆられ、はじめて降り立ったニューヨークの空港から俺の中では異常なまでの緊張感が生まれていた。それまで海外といえば、グアム、サイパン、香港にしか行ったことのなかった俺にとって、このニューヨークという街はやけに物騒な気がして、それこそ、もう二度と日本に生きては帰れないというような恐怖にも似た感情が生まれていた。それというのも中学生くらいの時に読んだなにかの本に、ニューヨークの街では眼球に注射針が刺さったままの死体がころがっていると書いてあって、それが自分にとってのニューヨークのイメージとして刻まれていたからだ。
まあ実際は、90年代以降は治安もよくなり、比較的、安全で住みやすい街にはなってるらしいのだが……、それでも、まるで知らない、言葉も通じない異国の地で生活していくとなると不安にならずにはいられなかったのだろう。
AVを捨てたそんなに若くない男のゆれる心情だ。
空港からイエローキャブに乗ってマンハッタンの街に近づくにつれ、どこか懐かしさも漂う巨大なビルの大群が、ひしめきあって俺におそいかかってくるように思えた。
とにかく、それまで日本で、ハメ撮り一直線に生きてきた俺にとって、ここが新しい人生の舞台となることは間違いなかった。
俺の心は、ものすごく不安もあったが、子供のようにワクワクしていた。
最初の2週間くらいは長期滞在者用ホテルをブロードウェイの近くに予約しておいた。
コインランドリーのついた安ホテルだった。
そこにしばらく生活しながら、日本語の通じる不動産屋を探したり、日本人向けのスーパーの貼り紙でルームシェアを探したりと、次に住む部屋を必死に見つけた。
テロ事件が起こったために予定していた英会話学校のビザが取れなくなり、よって入学もできず、することもなくなった俺はマンハッタンの楽器街でアコースティックギターを買って、地下鉄で演奏するようになった。
もちろん英語はしゃべれないので、日本語で作った唄をシャウトした。少しだが金も稼げた。
そんなことをつづけて、部屋も3回くらい引っ越した頃、偶然知り合った日本人のカメラマンと一緒に住むことになった。
彼はヤスさんといって、広島県出身で、東京の美術系の大学を卒業してすぐにニューヨークへ来たらしい。当初はやはりアーティストとして絵を描いたり、オブジェを作ったりしてたらしいが、ウェイターのアルバイト生活に流され、そのうち酒とドラッグにおぼれるようになって、最近ようやく立ち直って少しずつ仕事もはじめたらしいのであった。
ヤスさんとは歳も同じくらいだし、音楽好きということもあって、すぐに仲良くなった。
それに、もうひとつ。
彼の一番の趣味がオナニーすること。
ガールフレンドはいるものの、ヤスさんの性欲が強すぎるという理由で、一切ヤラせてもらえないため、怪しいルートで入手した日本の裏ビデオのコピーをたくさん持っていて、一人の時は全裸でそれを楽しんでいたらしい。
俺が日本でAVの監督をしていたというと喜んで自分のエロについて語ってくれた。
たぶん、そんな話をできる相手もいないし、アメリカ人の感性とはやはり違うものだろうし、とにかくアル中気味のヤスさんは酒を飲むと必ずと言っていいほど朝まで、うれしそうにいかに自分がスケベかということを一生懸命に俺にむかって語ってくれた。
50種類を超える人種のるつぼのニューヨークで、俺は毎日のように、この日本人のヤリたい男の妄想話を聞かされつづけ、そして、なにかそこに運命のようなものを感じはじめた気がした。
やはり俺は、エロから逃れられないのか?
ニューヨークに住みはじめて一年が経つ頃、結局、テロ事件以降はビザがないとバイトもできず、ストリートミュージシャンだけでは到底生計も立たず、たくわえの金も残りがゼロになり、俺はやむなく日本に帰ることを決断した。
美しくきらめくマンハッタンの街、様々な人種と文化がミックスするエネルギーに満ち溢れた大都会、どれもこれもが俺にとっては魅力的な宝物のようだった。
しかし、一番強烈だったのは、マンハッタンのド真ん中のボロアパートに住む、ヤスさんという孤独な日本人の男のくめども尽きぬ性欲だった。
よき出会いに感謝!
(続く)
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ゴールドマン 87年にアートビデオより「電撃バイブマン」で監督デビュー。その後、実験的な作品をリリースするなどAV業界に対して常に挑戦的な姿勢を持ち続ける。中でも89年に発表された60分ワンカットの8ミリビデオ作品「なま」は伝説級。近年はハメ撮りでの言わせ系淫語で独自の世界を展開。20年間で約1500人の女とハメ撮りし、300本以上のハメ撮り作品を制作してきたAV業界の巨頭。
10.08.01更新 |
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