The ABLIFE February 2013
アブノーマルな性を生きる全ての人へ
縄を通して人を知り、快楽を与えることで喜びを得る緊縛人生。その遊行と思索の記録がゆるやかに伝える、人の性の奥深さと持つべき畏怖。男と女の様々な相を見続けてきた証人が、最期に語ろうとする「猥褻」の妙とは――
自分が施した縄テクニックの絶妙な効果を
目前にして自賛し、満足する自己陶酔。
この感覚を倒錯と呼ぶのだったら呼ぶがいい。
この世に倒錯の快楽ほど
妖しく甘美なものはあるまい。
目前にして自賛し、満足する自己陶酔。
この感覚を倒錯と呼ぶのだったら呼ぶがいい。
この世に倒錯の快楽ほど
妖しく甘美なものはあるまい。
いかにムラムラ欲情しようとも、自分の性器を女性器の中に挿入するという行為に執着しない男と、どんなに好ましい男がすり寄ってきても、自分の性器の中に男の性器を挿入されることを避けようとする女が、ある日、ある時、あるきっかけのもとに出会う。
話し合っているうちに、やがて二人は親密な関係になっていくのは当然といえるだろう。
そういう共通した感性を持ち、さらに一般的な常識や社会通念にも酷似したものがあるとしたら、この男と女の仲は、さらに緊密度が加わっていくことだろう。
などともってまわった言い方をしなくても、どんなに興奮しても男には女のオ○○○を狙う欲望はなく、女のほうも自分のオ○○○で男を引きつける意志はない、その種の性器結合以外のところで気が合ってしまって仲良くなった、といえば話はかんたんである。
その男は私であり、女は落花さんのことである、と言えば、話はもっとわかりやすくなる。
落花さんのほうは縛られることだけが好きであり、私は縛ることだけが好き、と言ってしまえば、さらに話は単純明快となる。
え、なんだい、またその話かい、それはもうわかったよ、もういいよ......などと言わないでいただきたい。 わかってもらえる人にはすぐわかってもらえるのだが、わからない人にはなかなかわかってもらえない。
わかない人のほうが圧倒的に多い。だから私のほうもムキになる。
男のくせに女のオ○○○が嫌いだなんて、そんなことがあってたまるものか。ウソだ、ウソだ、ウソにきまってる。
呆れたような目で私を見て、みんなそう言う。その目の中にはたいてい軽蔑の色もまじっている。
あんたたち、そんなことを言いながら、裏へまわったらSM雑誌のグラビアみたいに、アクロバットダンサーも真っ青な凄いポーズでオ○○○おっぴろげて、ガバガバやってるんじゃないの? そうだろう、え?
面とむかって私にそんなことを言う人もいる。私は苦笑するより仕方がない。
じつはつい先日も、ある酒の席で映画製作者だという初対面の人に、同じことを聞かれたんです。 「おもしろそうですねぇ、わたしも一度、ああいうの、やってみたいですよ」 と。
ちょっとちがうんですよ、私は答えました。表紙には「SM」と確かに印刷してあるけど、ああいのはSMまがいの味つけをしたポルノ写真であり、私たちが好むものとはいささかちがうんです。ああいうものが好きな読者もたくさんいるから、営業的にはどうしてもポルノに傾くのは分かりますけど......。
私のようなマニアは、女の露出した下半身に対して、それほどの興味はないんですよ。つまり、性に関して私たちは異端者であり、変態といえば変態にちがいないのですよ。
逆に、どんなにアクロバット的縛りをやったとしても、女がオ○○○をひろげていれば、それはもう変態ではなく、やはりポルノと呼ぶべきではないでしょうか。
女がマタをひろげれば、それはもうわかりやすい多数派の男の欲望の対象であり、マタを閉じたほうが欲情するというのは、少数派つまりマニアの領分になってくるのですよ。
多数派にはわかりにくい性癖だけに、踏み込めばこれほど味の濃い世界はないのですよ。
私の縄に縛られている落花さんの忘我陶酔の姿を見れば一目瞭然なのだけれど、それは「オ○○○絶対派」のあなた方には、とてもお見せすることはできない。
本当のマニアは、何もかもさらけだしてエクスタシーの境地にいる自分の姿を、写真にも映像にも撮らせようとしません。
自分のいちばん恥ずかしい姿なのですから、たとえ映像でも他人に見せたくないのはあたり前でしょう。
なので、証拠みたいなものは何もない。
一本の縄で後ろ手高手小手に縛り上げられ、しっかりと左右の太腿を閉じて陶酔している落花さんの姿を、これまでに何度か文章で伝えようと挑戦してきたのだけれど、表現力の乏しさもあって、うまくいかない。
エロティシズムを超越して、ときには神秘的な輝きさえ感じさせるあの美しい姿を、他人に伝えるのは不可能に近いという気持ちもある。
私に縛られ、全身を「く」の字に屈曲させて横たわったまま、彼女は何度も何度も「イク」のです。
「イク」とはっきり口に出さないので私にはわからないのだが、あれはきっと「イク」という状態なのでしょう。
全身を悩ましくけいれんさせるのだ。
ここで「イク」などという下品な俗語を使うのは彼女に対しても失礼だし、私もいやなのだが、他に適当な言葉がないので仕方がない。
縄を解くまでの間、三十分でも四十分間でもけいれんは間欠的に連続するのだが、声は出さない。恥ずかしいので声は殺しているのかもしれない。吐息だけがときどきもれる。
彼女は人一倍羞恥心も自尊心もつよく、日頃は凛とした気位を持つ女性である。
そのけいれんは、まぎれもなく彼女の快楽の絶頂度を示していると私は思う。せつなくやるせない思いを凝結させてのけいれんのような気がする。
このときの私は、彼女の体に一指も触れていない。横たわっている彼女の背後にすわり、じいっとみつめているだけである。私の心は彼女と一緒になり、快楽の波動を合わせているのだ。
おわかりだろうか。
彼女の肉体と心と、私の肉体と心は、このときも一体化しているのだ。
縄一本で若い女体を快楽の頂上へ押し上げている私と、魅惑のけいれんを反復させている彼女の心とが渾然と一体化して奥深い陶酔の中にいる。
相手を拘束して体の自由を奪うことを加虐というならば、私は加虐者であり、同時にこのとき私はまぎれもなく被虐者の快楽を味わっているのだ。
自分が施した縄テクニックの絶妙な効果を目前にして自賛し、満足する自己陶酔。この感覚を倒錯と呼ぶのだったら呼ぶがいい。
この世に倒錯の快楽ほど妖しく甘美なものはあるまい。
え、なんだって?
倒錯の意味を知らない?
教えてあげましょう。
倒錯とは、本能・感情などが正常とされる状態とは逆の形になって表われ、反社会的・半道徳的な行動を示すこと、と辞書にある。
性器と性器を単純にこすり合わせて得る快楽よりも濃密で味が深いのは、正常なるものの裏側に息をひそめ、性の感情を無限にひろげて展開させるがゆえである。
八十三歳を超えて性器本来の機能にたとえ衰えがみえようとも、性の快楽を享受し得る感性に生命力がある限り、常識人には味わうことのできない無上の愉悦を、こうしていまなお、むさぼることができるのだ。
女性器だけにあたふたと神経を集中させ、あさましく右往左往する多数派の「正常人」たちを見ながら、私はきょうもまた心中ひそかに「ざまァみろ」とせせら笑いを浴びせる。
(続く)
『濡木痴夢男の秘蔵緊縛コレクション1「悲願」(不二企画)』
『濡木痴夢男の秘蔵緊縛コレクション2「熱祷」(不二企画)』
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