WEB SNIPER Cinema Review!!
世界初! ペールに包まれた伝説の修道院の全貌があきらかに――
フランスのアルプス山脈にある男子修道院、グランド・シャルトルーズ。カトリック教会の中でも戒律が厳しいことで知られるその内部へ、ドイツ人監督、フィリップ・グレーニングが世界で初めてカメラを向ける。毎日を祈りに捧げ、清貧のうちに生きる修道士たち。中世から変わらぬその姿が我々に伝えるものとは。7月12日(土)より岩波ホールほか、全国順次ロードショー
グランド・シャルトルーズは、その名にもある通り、人里離れたシャルトルーズ山地の奥にあり、観光客はおろか、あらゆる訪問者を受け付けておらず、そのような目的で周辺の道路を自動車で通りかかることすらも禁止されている。かように徹底的な隔離により、グランド・シャルトルーズは10世紀もの長きに渡り、そして今もなお、敬虔な静寂を保っている。
『大いなる沈黙へ』の監督であるフィリップ・グレーニングは、1984年に取材の依頼をしたものの、まだ早いとの拒絶を受けた。閉ざされた門戸が僅かに開いたのはそれから16年後の2000年、ミレニアムの節目のことである。
グレーニングが撮影にあたり課された条件は、作品に一切の音楽をつけず、外部照明を使用せず、ナレーションを用いることもせず、そして、彼が一人で修道院に入ることだった。グレーニングはその条件を遵守し、ことによってはより厳しい条件を自らに課すこととなった。撮影に要した半年の間、彼もまた一人の修道士として、そこに住まう人々と同じ孤独と静寂に身を浸したのである。
169分。
これが本作品の上映時間であるが、果たしてこの時間は長いだろうか。それとも短いだろうか。単純な視聴経験として考えれば、この長さは異様なものである。なぜならば、この作品には、グレーニングが控えるまでもなく、会話はおろか、物音らしいものもほとんど登場しないからだ。修道士たちは、実務上の極僅かなやりとりと、聖歌の詠唱、聖書の朗読、そして、日曜日に4時間だけ許される時間を除いて、会話というものが禁じられている。実務上のやりとりですら、世俗的な交流は忌避されていると言えるだろう。
たとえば、彼らの食事は広い台所で用意される。何人かの人物が、修道士たちのために料理を行なう。なぜ台所が広いのか。それは人と人とが触れ合わずに済むようにするためだ。同じ室内にいたとしても、まるで誰もいないかのごとく振る舞うことができるように、その部屋は空隙に満たされている。
では、彼らは何をして日々を過ごしているのだろうか。
すでに述べた通りだ。聖歌の詠唱、聖書の朗読、生活のための身の回りの仕事、そして、沈黙の中でなされる祈り。これが一日の全てであり、毎日繰り返される彼らの生活である。
修道院には20数名の人々が過ごしている。新しく入ってくるものも何人かはいるが、多くは途中で、この信仰の道が自分に馴染まないことが示され、自発的に、あるいは修道会の決定によって外に出される。しかしながら、そこに残るものたちがいるのも事実である。修道院には、生まれたばかりとも言えるような若者もいれば、死を目前にしつつある老いた人々もいる。
169分。
この作品を傍観する視聴者の多くは、かような厳しい信仰とは無縁である。その点では、まだ世俗の意識が強く残る、若い入門者と同じような立場に比較的近いだろう。しかしながら、そのような視点から眺めるに、このような反復的静寂を半世紀以上続けてきた修道士たちは、想像を絶する存在となる。彼らの生から考えれば、169分など、一度の瞬きも同然だろう。
このような反復は、およそ理解の対象ではない。外部の浅薄な理解を拒絶するために、彼らは外界を遮断し、また、隔絶されている。このような要約も、我々がかような修道会の存在をやりすごすための、一時しのぎの説明に過ぎない。
日曜にだけ許される会話の一部が、映画の中に記録されている。そこで彼らは、まるで世俗の人々のように談笑していたが、そこで語ったのは、およそ問題というのは外側にはないということである。問題は、我々の内部にある。
我々の内部にある問題へと漸近することはいかにして可能になるのだろうか。信仰はその方法であろうが、それは単なる内省とは異なっている。内部にのみ問題があると考えることは、哲学的に言えば独我論である。神は自己の中にある、などというような、ある種の通俗的なキリスト教理解は、独我論の変奏にも思われるだろう。しかし、実際には、そういうことではないように見える。
神は一つだが、その眼差しは常在し、かつ偏在する。ゆえに彼らは内省を通じてそこに触れようとすることを試みることができるが、それは恐らく隠喩でしかない。神は決して我々の心の中にいるわけではないからだ。いくら心理を探究しても、そこに神はいない。
たしかに、聖書を読む修道士たちの学習は、ある意味、神や、使徒たちの教えを、理解しようと試みているようにも見える。しかし、それを超えたものがある。彼らは聖書を朗読し、聖歌を唱う。これは理解だろうか。理解しているとか、していないとか、そういった解答はここに馴染まない。世俗の言葉の排除された世界で、彼らはただひたすら、聖なる言葉を反復している。
言葉は、常に、聖なるものから与えられたものである。瞑想は言葉だろうか。彼らの修行は、自らから言葉を奪うためのものであるように見える。
キルケゴールは『反復』という書物で、このような静寂について考察している。彼はヨブについて考える。ヨブは、神がもし語るなら、神は全てを説明できると確信していた。しかし、神は、沈黙でしかヨブに語ることをしなかった。
かような大いなる沈黙を生きることは、不可避に言葉を催させる。このような人生に意味はあるのだろうか。そのような問いかけを修道士たちは排除する。何がそれを可能にするのか。
映画の最後、老いた盲目の修道士がインタビューについて答える部分がある。これは、この映画にとっては、イレギュラーなものに思われる。グレーニングはなぜこのようなシーンを用意したのか。自分自身もカトリック信徒である監督にとって、このような沈黙がいかに素晴らしいものであるとしても、それが必要であると思われたのだとすれば、それは興味深いことだ。
盲目の修道士は語る。視力を失ったことは神の試練であり、自分はそれを喜びだと感じている。死は恐ろしくない。なぜなら、死に近づくほどに、父との再会が近づくからだ。父との再会は何よりもの喜びである。
ことによっては、この修道院での生は、それ自体が死のようなものである。永久とも思しき孤独の中で、彼らはひたすら神への愛を捧げ続ける。もちろん、これもまた比喩に過ぎない。私は死というものを知らない。そして、誰も死というものを知らない。死のように思われる沈黙は、全て人が考えたものに過ぎない。神が我々の世界の外部にあるように、死もまた我々の世界を超えている。しかしながら、時が静止したようなこの聖別された空間は、儀式的に私たちの世界を超えている。
そうしてそこで彼らは純化される。聖なる言葉に満たされ、ただひたすら父との再会へと備える。
......この映画を見ることで得られる体験は仮想的なものであるが、検証しようとしても、それは不可能なことだ。我々はシャルトルーズを訪問することもできないし、どうせ訪問したところで無駄である。修道の請願を立てて入るのでなければ、どの道、映画を見るような体験でしかないだろうし、映画よりも空疎な事実しか発見できない恐れすらある。
ゆえにこの映画は私たちにとって無縁である。しかし、その無縁の境涯として、私たちはこの映画を見ることができる。それ以上でも、それ以下でもないだろう。問題は私たちの内部にある。
文=村上裕一
構想から21年の歳月を費やして製作され、
長らく日本公開が待たれていた異色のドキュメンタリー
『大いなる沈黙へ-グランド・シャルトルーズ修道院』
7月12日(土)より岩波ホールほか、全国順次ロードショー
関連リンク
『大いなる沈黙へ-グランド・シャルトルーズ修道院』公式サイト
関連記事
地球の果て、見渡す限り無人の海のど真ん中で恋人とskype通信! 冒険映画かと思いきや、最新鋭ヨットのガジェット感に萌えた 映画『ターニング・タイド 希望の海』公開中!!