WEB SNIPER's book review
現代日本は「アイドルの時代」だ!
総選挙後の未来を読み解く!
あなたは「AKB商法」という言葉をご存じだろうか。これは当代の人気アイドルであるAKB48を主に揶揄する際に使われる、つまりAKBを批判する言葉だ。ここでいう「商法」というのは、つまり「商売のやり方」のことである。しかし「○○商法」と複合名詞になると、多くの場合は否定的な意味合いを含む。したがってつまり、「AKB商法」という言葉は、AKBの商道徳に問題があると指摘しつつ、AKBの人気が虚栄であり、まがいものであるということまで示唆しようとしている――。批判の言葉を発端に、アイドル、日本のポピュラー音楽、さらには文化や経済までも視野に入れて語り出す、日本の"今"。 総選挙後の未来を読み解く!
ではこの新著『AKB商法とは何だったのか』において彼は何を書かなかったのだろうか。それは『僕自身のアイドルに対する熱意』(P9)であり、「それぞれのアイドルがいかに魅力的で、どんなに才能にあふれ、どれだけ真剣に活動しているか」「僕自身がそう思う(かどうか)」「そして、自分がどんなアイドルを好きで、どれだけ熱心に支持しているのか」(全てP252)ということである。
このような態度こそまさにそこで書かなかったことが書きたかったことなのだと示している――などと言いたくもなる。必ずしもそれは間違いでもなかろうが、しかし、事態はそこまで単純ではない。仮にそのような欲望を持っていたとしても、そのような目的を達成するためには、決してそのまま書くわけにはいかなかっただろうからだ。なぜか。それは彼が本書で提供したいソリューションと関係している。
ソリューションがあるからにはイシューがある。問題とはAKB商法が何だったかということだが、もう少し分かりやすく言えば「なぜみんな同じことをやっているのにAKB48だけが叩かれるのか」という問いである。本書ではこういう言われ方はしていないが、身も蓋もない言い方をすれば、目立ったからだ、としか言いようがないだろう。「似たようなことは誰もがやっている。しかしAKBはそれを握手会などの手法と結びつけて全面展開したために批判された。」(P206)
なるほど、歴史的に言ってAKB商法的なものは決して目新しくないし、しばしば音楽チャート的に全うなものとして引かれがちなミスチルやB'zとて言われるほど商売っ気がなかったわけではなく――つまり純粋に作品のよさだけでこのような数値を叩きだしたのだと言えるようなデータではない――、さらに言わば同時代の様々なアーティストですら事実上AKB商法をやっているではないか、と言うのは本書にて実証的に示されるところである。
しかし、だからAKB48も免責されるべきだ、という結論には、簡単にはならないようである。しかし、これはAKB48を批判しているということでもない。というか、擁護だとか批判だとか言う概念が重要になってくるタイプのゲームを彼はしているのではない。だからか、AKB商法について語る本書の言説は非常に奥ゆかしい。そこには一種の判断停止が、――逡巡がある。
このような逡巡は、もちろん彼がアイドルという文化圏全体を愛しており、かつ、そこに対してフラットな立場で臨もうとしているゆえの産物だというのはもちろんである。彼が本書で示すのはアイドルの多様化であり、そして多様化に対応した消費態度としてのDD(誰でも大好き)だ。印象的な言葉として先般AKB選抜総選挙で一位となった指原莉乃の「推しは変えるものじゃない、増やすものです」(P236)という言葉が引かれている。これはAKBの内部に限ったことではない。AKB48が気に入らないのなら、他のアイドルを好きになればいい。そうすれば、AKBの少女たちを犠牲にするような倫理的な悲劇を回避することができる。それがアイドルという文化全体に対する貢献たりうると、彼は考えているようにも思われる。これがソリューションである。そして、DDを推奨する以上、間違っても誰かを推奨するなどということを少なくとも本書でするわけにはいかない。特別な誰かは誰であってもよいというテーゼを張る以上、誰かに対して特別に振る舞うわけにはいかないのだ。
そんな、彼にとっては必ずしも特別な存在でもないだろうAKB48についての逡巡は、むろん、DDというテーゼに由来する部分もあろうが、しかし、それだけではないように思われる。むしろその逡巡は、――「DDで倫理的な批判を回避する」(P245)と述べながら、少なくともある時代までのAKBについて、薄々、それが不可避だったのではないかということに気づいているからではないか。
さやわかの言においてもAKB48は多様性のアイドルである。自らの箱庭の中に極めて多様な少女たちが多数存在し、しかも組み合わせることによってさらに様々な可能性に開かれていく。その上で、さらに上位のレイヤーに(あるいはポストAKBとして)存在するのが「アイドル戦国時代」だった。その戦国時代を肯定するのなら、AKBという箱庭もまた肯定されるべきだろう。しかし、そうはならなかった。分析的に言えばまだまだ色々それらしい理由が見つかるかもしれないが、先に述べた通り理由など本質的に「出る杭が打たれた」ようなものでしかない。しかし、その杭打ちがあったからこそ、冬の時代を抜け、戦国とも言われるようなアイドルの百花繚乱時代が再び到来したのだ。
だが、戦国と言うような闘争のイメージをさやわかは否定する。それはコミュニティの蛸壺化を招き、それにともなう特定のグループへの倫理的批判を呼び込むからだ。それはアイドル素としての少女たちを不必要に傷つける。リアルであることを売り物にするかのようである現代アイドル。その一つの典型はやはりAKB48の『DOCUMENTARY OF AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』だろう。戦争のような舞台裏と、闘争のような選挙競争で傷つき続ける少女たち。これに加え、AKB商法というレッテルでさらに彼女らは叩かれる。これではよくないのだ、と思うのは自然なことだ。他方で、そのよくなさを示すためには、傷が顕現している必要があった。私たちはすでにAKB以後の世界に生きている。
それはいいとかわるいとかいう尺度で計るべき問題ではない。ただ、AKB48が、あたかもキリストが贖罪者として振る舞ったがごとく、批判を全面的かつ集中的に集めてしまったことは、AKB商法という言葉を中心に考えれば間違いないことだろう。ましてや、ある一時期、その象徴的人格として振舞っていた前田敦子においては、歴史的にはともかくも、同時代的には異例なほどのバッシングを受けていたことは一方では記憶に新しいし、他方もはや遠い日のことであるかのようでもある。そんな少女たちの思い出を、本書は哀れんでいるように感じる。哀れみという言葉を、優越感や他人事の換言だと取ってはならない。それは愛の変形であり、その否定的状態である。だからこそ彼は「書かない」という手法を取った。
だが/そして――、そんな哀れみなしに、未来について考えることなどできるのだろうか。
文=村上裕一
『AKB商法とは何だったのか』(大洋図書)
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