special issue for the summer vacation 2008 2008夏休み特別企画! web sniper's book review 時代を切り拓くサブ・カルチャー批評 『ゼロ年代の想像力(早川書房)』 著者=宇野 常寛 【後編】 文=さやわか 『DEATH NOTE』、宮藤官九郎、よしながふみ……格差・郊外・ナショナリズム、激震するゼロ年代に生まれた物語たちの想像力は何を描いてきたのか。時代を更新するサブ・カルチャー批評の決定版。 |
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宇野がポスト決断主義として考えた作品への読解に、現実との齟齬が感じられた点は他にもある。木皿泉によるドラマ版『野ブタ。をプロデュース』(二〇〇五、日本テレビ)についても同様で、こちらは作品側のレベルで宇野の期待するポスト決断主義の構想に追いついていないように見受けられる。宇野はこの作品について、主人公である修二が決断主義的な動員ゲームへのコミットを通して、ゲームの勝利では購えない「関係性の共同体」というものを理 解し獲得したとしているが、この作品はそこまでの到達点を見出せているだろうか。ドラマの最終話で、修二の転校によって「プロデュース」チームが終焉し、「どこへ行っても生きていける」という確信を得たことについて宇野は、ここにおいて修二が無限に続くバトルロワイヤル的状況よりも、有限な「関係性の共同体」に希望を持ったのだとしている。だがここで宇野は、このドラマにおける彰というキャラクターの存在をおそらく意図的に見落とそうとしている。もし、このドラマが例えば原作である小説と同じく修二が教室におけるバトルロワイヤルに敗れた結果として転校し、それでも「プロデュース」チームの思い出を寄る辺に「どこに行っても生きていける」と自覚するのであれば、全く宇野の望んだ通りの結末だと言っていいだろう。しかし実際には、ドラマ版では修二は親の都合で転校するだけであり、教室におけるバトルロワイヤルにおいても失地を回復し、しかも決定的なのは第一話から全面的に修二を承認するキャラクターであった彰が共に転校してきてくれる、というラストが描かれてしまうことである。
最終的に「プロデュース」チームは宇野の述べるように「有限で終わりのある」ものとして決したが、ここで「修二と彰」という関係は無限のものとして保証されるのである。だから修二がラストで述べるのは単に「自分が」どこに行っても生きていけるということではなく、「俺たちってさ、どこででも生きていけるんだよな」なのである。つまりここで、修二は自己を承認してくれる人物として、彰という「他者」を所有したのだ。また、付け加えておけばこのラストの描かれ方はある種の(セックスの存在しない)やおい・ボーイズラブ系作品の描く愛情関係に典型的だとも言えるし、さらに言えば彰というキャラクターは、美少女ゲームが「レイプ・ファンタジー」であるがゆえに男性が所有の対象として切望すると宇野が指摘する「白痴のような」キャラクターである。しかも彰は修二の最後のセリフを「聞き逃してしまう」という演出がなされ、修二が彰から拒絶される機会は安易に受け流される。これほどまでに全面的に修二という「自己」が守られるドラマ版『野ブタ。をプロデュース』は、果たして宇野が評価するほどに決断主義の課題を乗り越えていると言えるだろうか。これはまさに、宇野が美少女ゲーム『AIR』(二〇〇〇、Key/ビジュアルアーツ)などについて厳しく非難する「安全に痛い」筋書きであると言えないだろうか。
しかし、だからこそ断っておきたいのは、ここでぼくは、宇野がポスト決断主義として挙げた作品の質が低いとか、前時代的なものに対して超越的でないから唾棄すべきだと言いたいわけではないということだ。同じく、他者の所有の構造を持つ作品が間違っているという点で宇野に同意するわけでもない。彼がポスト決断主義として挙げた作品群は十分に評価に値する優れたものであるし、またもし仮にぼくがそう思わなかったとしても、それを単に否定することは、まさしく宇野が現状として指摘する小さな物語同士の決断主義的な動員ゲームへと変貌する。だから読者にはどうか、例えば『野ブタ。をプロデュース』ではダメで、やっぱり『AIR』がいいのだ、などと考えないで欲しいし、またさらに別個の物語こそがいま求められるものなのだ、とすべきでもない。
なぜそうなのか。これは宇野も指摘していることだが、ポストモダン状況における小さな物語の乱立にあって、「真正な物語」を模索することには意味がないからだ。「大きな物語」の喪失とは「真正」という概念自体の喪失なのだから、それについて問うことは無意味なのである。だから「南京大虐殺が捏造か実在か、戦後民主主義が虚妄か否か、好きなほうを信じればよい」(本書50ページ)という宇野の主張に、ぼくは全く賛同する。そして、ただ好きなものを好きだと言っているだけでは、やがては決断主義的な動員ゲームに招かれてしまうという理由で宇野が主張する「物語への態度、つきあい方を考える必要性」がいま重視されるべきだという意見にこそ、諸手を挙げて賛成する。いずれの物語も真実でないのであれば、我々が行なうべきなのは、等価に並べられてしまった物語たちにいかに向かい合うべきなのか、それこそが今まさに問われているのだ。この主張は、宇野が本書で繰り広げる一連の状況認識の中でも最も優れたものであり、最も読者に注意深く読まれてしかるべきものだ。この認識を言葉にしたことこそが、本書の最大の成果であると言ってもいい。
しかしだからこそ、本書でのポスト決断主義への主張のあり方は問題視できるものだ。宇野は結局、自身の挙げた作品の中から自分の考えるポスト決断主義的な態度を読み出し、それを解説することしかしない。現状においてポスト決断主義的作品の支持者層は特定されえず、ゆえに語ってみせることが原理的に不可能であるのは分かる。しかし、それゆえにここでの宇野の議論は非常に啓蒙主義的な態度でしか進まない。九〇年代的な「引きこもり」からゼロ年代的な決断主義へ、という流れにおいて、彼は常に時代状況における実存のあり方と、それを象徴する作品例の両方を挙げていた。それが彼の主張に説得力を持たせていた。ところがポスト決断主義については、「これらの物語は素晴らしく、ぜひここから生き方を学ぶべきだ」という、ほとんど教条主義的な態度しか提示できない。宇野は結局、ポスト決断主義だとする作品を挙げながら、彼が九〇年代的なモードを引きずっているとして論難する「セカイ系」の作品や、あるいは単に決断主義的な時代状況を示唆するに終わった作品に対する倫理的な正当性を語るに終わってしまっている。そう、彼はポスト決断主義的な作品の「真正」さを説いてしまっているのだ。この啓蒙主義的な態度はまさに、読まれるべき作品を決定するというレベルで人々を「正しさ」へと動員しようとするもので、ここで彼自身が決断主義的な動員ゲームに荷担してしまっているとは言えないだろうか。
おそらく宇野自身には、そのことすらも織り込み済みなのかもしれない。若者たちがインターネットで意見を戦わせるバトルロワイヤル的状況に彼は最強のメタ・プレイヤーとして介入し、彼自身が「真正」だと予見する作品への動員をかけ、自分たちの行なっているのが不毛な動員ゲームに堕した膠着状況なのだとプレイヤーたちに気づかせることで状況を切り開こうとしているに違いない。
逆に言えば、本書は明らかにインターネットに接続してバトルロワイヤル的状況を繰り広げる、例えば「ネット論壇」のようなものにコミットする若者の意識を変革しようという動機に基づいたものである。思えば、本書はそれ以外の読者にとっては極めて読みにくく作られている。例えば本書では九〇年代初頭にアメリカン・サイコサスペンスが流行したとされているが、それについては自明のこととされ、作品名すら示されない。ぼくはたまたま、宇野と同世代と言っていい世代にいるので、それが『ツイン・ピークス』『ミザリー』『羊たちの沈黙』(いずれも一九九〇)あるいは『セブン』(一九九五)などの作品のことを指していると推測できるが、それを知らない読者には何が語られているかすら分からない。
また「九〇年代以降の村上龍の小説にはサブ・カルチャー的な偽史が導入された」ということについての説明では「『機動戦士ガンダム』シリーズの宇宙世紀のようなもの」という説明が加えられる。そもそも、村上龍は知っていても『ガンダム』の宇宙世紀は知らないという読者の方が多いだろうと思うが、宇野はこのように主従が逆転した形での説明をしてしまうのだ。むしろ、宇宙世紀を知らない読者を、ほとんど意図的に対象読者に含めていないとも言える。実際、一般読者に説明的でなく語られる事物は非常に多く、あるいは「mixi」、あるいは「ニート論壇」、あるいは「秋葉原解放デモ」など、挙げていけばきりがない。つまりここで宇野は、明らかに最低でもインターネットに接続し、「ネット論壇」的なものの存在を知っている読者だけを選んでいるのだ。例えば『仮面ライダー響鬼』(二〇〇五、テレビ朝日)について「中高年消費者から熱狂的な支持を受けた」としたり、「放映途中で高寺プロデューサーとメインライター陣は降板し、白倉・井上コンビが番組後半から再登板するという『事件』に発展した」(258ページ)としているが、それらの情報を彼はどうやって仕入れているのだろうか。ここで別に宇野が検証的でない、ということを言いたいわけではない。むしろ、インターネットを見ていれば、中高年層が『響鬼』を支持していたことは分かるし、降板が「事件」(=ブログの炎上)だったということは分かってしまえるのだ。つまり、驚くべき事なのは、本書がそうやってインターネットを介して宇野と共通認識を保てる層に向けてのみ書かれているということなのだ。
ひょっとすると、この本が最もエポックメーキングなものとして記憶されるのであれば、そこかもしれない。これだけインターネット上で話題にされた本であるにもかかわらず、宇野が自明にしている部分は従来の批評や評論の読者にとって全く自明ではない。宇野は本書の中で八〇年代以前の批評の読者に対してあまりに説明的でなく、読みにくさを強いる。彼らにとっては「ゼロ年代の想像力」について考える前に、ほとんど「宇野常寛の想像力」についていけない、ということになるだろう。そのような読者に対する宇野の説明的でない姿勢は、ほとんど冷淡ですらある。彼はそこを読みこなせない読者を読者層として選んでいないのだ。彼は従来の批評や評論の読者層を全く遺棄して本書を著すことで、そしてそれでも本書の存在によってインターネット上の議論がさらに活発化し拡大することで、彼がコミットするような論壇が存在することをなし崩し的に顕然化しようとしている。だから本書は、本書からはっきりと伝わるように、猛烈な熱意をもって新しい批評を開いていこうとした本だが、同時に「ネット論壇」的な「島宇宙」のためだけに閉じている、とも言える。このような形で作られた本がどこまで流通し、そして従来の批評の現場をどう変えてしまうのか。または変えてしまわず、勝手に発展していくのか。あるいは閉じていくのか。本書の議論を突き放してしまえば、ぼくが本書に最も強く関心を持つ点はまさにそこにある。
しかしまた、宇野が見出した、現在においては真正な物語を峻別することではなく、物語への態度、つきあい方を考える必要性こそが重視されるべきだという本書において提出された課題はいまだに残されたままだ。この課題自体は、狭い読者層ではなくあらゆる批評の現場で重く受け止められるべき問題であるし、また「ネット論壇」にとって、さらには一読者にとってすら有効なものである。次のステップは確かに示された。我々は小さな物語の乱立する状況で、いかにして他の物語を否定することなく自分の物語を享受するのか。ポストモダン状況の徹底からバトルロワイヤルという暴力的な回路へと至った我々の隘路を打破する鍵がそこにあることだけは、まず間違いないであろう。
文=さやわか
『ゼロ年代の想像力(早川書房)』
著者:宇野 常寛
価格:1,890円
ISBN:978-4-15-208941-0
刊行日:2008年07月24日
発行:早川書房
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さやわか ライター/編集。『ユリイカ』(青土社)、『Quick Japan』(太田出版)等に寄稿。10月発売の『パンドラ Vol.2』(講談社BOX)に「東浩紀のゼロアカ道場」のレポート記事を掲載予定。
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