WEB SNIPER's book review
我々とにとっての「外部」を驚くべき物語によって描いたSF小説
初音ミクを特集する『S-Fマガジン 2011年 8月号』の巻頭に掲載された神林長平の小説「いま集合的無意識を、」。インターネットにおけるコミュニケーションの向こうに集合的無意識の存在を見出し、批評的に描き出したこの作品から見えるものとは――。村上裕一氏のレビューをお届けします!!あらかじめこの小説の驚くべき筋書きを要約しておこう。しかし、何か複雑な構造があるわけではない。「三十年以上SFを書いてきた」「<最後の手書き作家>世代」である「ぼく」が、ある日、壊れたパソコンに表示されたメッセージと対話し出す、というただそれだけの話である。しかし、驚くべきなのは、その壊れたパソコンを通じて話している人工知能らしき存在が自らを「伊藤計劃」であると名乗りだすところにある。
急いで付け加えれば、この作品内においては「<さえずり>」という、現実におけるツイッターに対応するサービスが隆盛しており、ところが、最近において膨大かつ意味不明な文言が<さえずり>上を高速で横行し出すようになったという。「ぼく」はこの事態にまさに「いま集合的無意識を、」「人類は意識しようとしている」のだと気づいたという。
書評者はSFに通暁している書き手ではないが、このような設定を見ると思い出すのは東浩紀の『クォンタム・ファミリーズ』である。この作品ではまさにウィキペディアなどのクラウドサービスに量子計算された外部世界の情報が紛れ込み、インターネットは「この世界」だけの情報メディアではなくなっていた。そして、それを通じて別な可能性の自分や家族とのありえない交流が描かれることとなった。
神林の小説はそこまでは描いていない。しかし、それゆえにむしろ東の小説においては語り落とされていたある真実に触れている。それは、何も外部とは可能世界・並列世界ばかりではないということだ。例えば、死者とはまさに我々にとってもっとも身近かつ把握しやすい他者=外部である。
壊れたパソコンは、むろんツイッターのタイムラインと比べればもっとイレギュラーでファンタジックな装置だが、そのことにおいて問題をシャープに暴き出している。例えば、この作品では現れた伊藤計劃を名乗る何者かを、いささかも心霊現象のようには扱っていない。それはまさに集合的無意識である。しかし、集合的無意識とは何なのか。
作中の伊藤計劃もまた説明しているように、それは私でもありあなたでもあるような無意識である。例えば、フロイトの見立てで考えるとき、意識と無意識はそれぞれの緊張関係を人格の内部で取り結んでいるが、ユングの集合的無意識はそれを超えている。しかし、それは神の無意識とでも呼べるような完全なる<外>ではない。それは常に我々によって支えられている。ところが、まさにそれが集合的、つまり他人の無意識とつながっているがゆえに、集合的無意識とは他者的なのである。
このような他者を把握することは本来は難しい。例えば、オースティンやシュッツのコミュニケーション論を引き合いに出せば、コミュニケーションは本来不完全であるが、しかし現実の社会はその不可能性がなぜか補填された形で成立しているという逆説的な見立てがあることに気付く。このフィードバックがあるからこそ他者と死者を分けて考えることができる。しかし、例えばサールの言うような「中国人の部屋」(相手がよく知らない外国語しか喋られない状況)を考えるとき、相手がまっとうなリプライをしていなかったとしても、そこに他者の人格がある可能性は存在し続ける。ラディカルに言えば、コミュニケーションとは思い込みによって支えられた行為である。
もちろん、その場その場の水準ではそのような極端な状態には陥らないわけだが、しかしこの見立てはある先入観を我々から外してくれる。<さえずり>サービス、即ちツイッターがそうであるように、逆に、コミュニケーションが通じていると思いきや実は相手がbotだったというケースが存在している。情報量が限定された空間では、人間とそうでないものを見分けるのなどたやすいという我々の自明な認識は簡単に瓦解するわけだが、むしろ重要なのは、プログラムともコミュニケーションが取れていたかもしれない、という思考の転換がここに可能になるところだ。
実際、個々のプログラムはどうあれ、ツイッターが一種の集合無意識であるということはそれなりに正しい。例えば、東浩紀がかつてここに一般意志を見出したように、タイミングに応じて急激に変容するタイムラインには、個人の意志を超えたより大きなうねりが可視化されている。したがってまさに「いま集合的無意識を、」「人類は意識しようとしている」わけだが、しようとしているのであってまだしていない、と神林が記述を分けていることには注意が必要である。
タイムラインと直接取引することが難しいように、集合的無意識とは単純にコミュニケーションの対象であるのではない。しかし、それらしきものがすぐそばにあることを、誰もが分かりつつある・ありそうであるというのが現状である。神林の小説が批評的なのは、これを取り扱うための方法として、この集合的無意識らしきものに伊藤計劃の人格を与えたところにある。もちろん、伊藤計劃の名を与えた戦略としては、彼の作品がそもそもある種の無意識について批評的に取り扱っていたことや、彼を登場させることでまさにその話題を哲学的に取り扱うことができるなど、様々なメリットがある。、それよりも何よりも重要なのは、この著名な物故作家の人格が、まさに本誌の読者に対しては親しげであるはずであり、その媒介こそが人と集合的無意識を取り結ぶ契機になりうるという点である。
そもそも死者にはそういう性質がある。例えば喪の作業は死者を通じて縁者が繋がり合う儀式だし、仏教圏であれば死者は仏として扱われ、より高次の神的なものとして残された家族を見守ったり、あるいは戒めるものとして取り扱われる。逆に言えば、そういう高次の道徳や信仰へのアクセス回路として死者の名は機能している。
だが、本当に重要なことは、冒頭にも述べた通り、この作品が初音ミク特集の巻頭に置かれていることである。当たり前だが初音ミクは死者ではない。ところが、彼女という事象にアクセスするにおいて、人々が用いている回路はまさしくかような死者の回路と同じような仕組みである。それは、すでに彼女に触れている人にとっては自明だが、外側からそれを眺める他人にとっては恐らくは奇異な光景だろう。ところが、神林の小説は、それが実は、人間の自然な生活において培われた感性の延長線上にあるものなのだということをまさに遂行的に示しているのである。むろん、初音ミクを取り扱う感性は、キャラクター文化を経由することで高度に拡張されている。しかし、遠からずそれはインターネットや拡張現実の技術の発達によって、特定文化に依存することなく全面化するはずの未来の光景なのである(※注)。
文=村上裕一
「いま集合的無意識を、」 著者=神林長平
(『S-Fマガジン 2011年 8月号』/早川書房 所収)
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