special issue for happy new year 2011.
2011新春特別企画
相馬俊樹 × 村上裕一 対談:Sound Horizon【後編】2011年お正月企画第3弾は、昨月発売された『クイックジャパン』誌の特集も記憶に新しいSound Horizonを巡る対談! Sound Horizon(サウンドホライズン)は サウンドクリエーターRevo(レヴォ )による幻想楽団。物語性を含む歌詞と組曲的な楽曲を作風とし、多くの幻想楽団メンバーを擁するライブ、そして独特なファンコミュニティなどなど、一口には語れないサンホラの魅力を批評家の村上裕一さんと、美術評論家の相馬俊樹さんによる対談でお届けいたします! 本日は後編の掲載です。
相馬:おお! それはすごい!
村上:で、内容ですが、いきなりとんでもない要約をすると、さっきも述べたのと同様にやっぱり『Roman』も悲劇の物語なんですよ。それは表層的にそうだというだけでなくて、僕の考えだと、謎解きをして現われる真実も悲劇なんですよ。
相馬:やっと到達した真実も絶望的なの! 興味深いけど、どういうことなんですか?
村上:具体的には、イヴェールという青年がこれから生まれていくに至る(足る)物語を人形たちに探索させるというのが筋で、派遣される物語は流産だったり捨て子だったり片親だったり暴力による妊娠だったりとそれぞれ問題含みで、まあどれが幸せなのかというのは結構悩ましい。ところが途中で「11文字の伝言」という曲があって、実はこれには暗号が仕掛けられているのですが、それを解読すると、匿名の母親が匿名の子どもたちに贈った「しあわせにおなりなさい」という祝福の伝言が出てくるんですね。
村上:ですから、どんな物語であれどこかに生まれていければ幸せなのですが、実際にはイヴェールはどこにも生まれてはいけない。これは暗号の解読が間違っていて、本当は祝福の伝言ではなかった。そして真実の解答が明かすのは実はイヴェールは生まれてこれなかった水子だということです。ここの解釈は非常に難しいのですが、ともかく、普通の意味の出生や幸せは彼には与えられない。さてここまでは楽曲内部での話なのですが、ライブになるとそれが変わってきます。たとえば最終トラックである「11文字の伝言」は黙って聞いていると第一トラックの「朝と夜の物語」に回帰するというループ構造を持っています。このループは、まだ謎が解けていないことを示唆すると同時に、真実においては、決して彼がどの物語に脱出することもできずぐるぐると回遊(回幽)するしかない存在であることを指し示しているわけですが、『Roman』の最初のライブでは「伝言」の切れ目に赤ん坊の泣き声のSEが重ね当てられ、イヴェールが「ありがとう、僕もそこに生まれていこう」と言って「朝と夜の物語」が再演され、赤ん坊を抱いたイヴェールが登場するという感動的な演出がなされます。これは楽曲内部での解釈とまさに正反対であると言えます。
村上:このような演出にも明らかな通り、サンホラのライブは基本的にポジティブなカタルシスに満ち溢れていて、RevoもMCの度に、「自殺はよくない」とか「お母さんを大切にしよう」などといった、一見ではあまりにも朴訥に見えるようなメッセージを遠慮なく打ち出してきます。先日の国王聖誕祭というライブではそのために「遺書」という曲まで作ったほどですので、このカタルシス効果は本当に明らかだと思います。
相馬:物語の緻密さというのはさすがですが、あらゆる世界から放擲され、生まれるべき世界を失っているという、あまりにも絶望的な内容を突きつけておいて、ライブにおいてはそこに一滴だけ希望を落とすことにより、その落差から最大のカタルシスをもたらそうとする、ってことでしょうか? 悪い意味ではなく、ファンの気持ちを導いてくのうまいですねえ。それは、どういったらよいのかなあ?
村上:厳しいなあ(笑)。とはいえ、僕はここにRevoの倫理を見ることができると思うんですよ。彼は本当にあらゆるレベルで「解釈の多様性」を訴えるんですが、実はライブもご多分に漏れず、そこで提示された解釈は一例に過ぎないと前置きするんですね。じゃあライブは何なのかというと、僕の考えでは物語の救済なんですよ。物語の中で物語を救済しようとすると、まさに先ほど述べた内容的主題である「現実と虚構の転倒」という系に囚われてしまう。だからそこに手をつけることができない。でも、だからこそ外でそれが行なわれるし行なわれうる。それはRevoだけではなくてファン、つまり王国民諸君によっても可能なのだと彼は言っている気がしますね。具体的には言っていませんけど。
相馬:難しいですね。もうちょっと説明してほしい。
村上:これは具体的に言い換えると、二次創作と批評の問題なんです。解釈の多様性とはその言い換えであって、ライブは、Revo自身によるサンホラの二次創作に過ぎない。イヴェールの悲劇も、見る人が「幸せにおなりなさい」の暗号が解答なのだと信じればそうなります。価値中立だというのはまさにそういうことにほかなりません。イヴェールという水子を救うことができるのは外部にいる我々だけなんですね。
相馬:救済の希望は物語の外部にいる観客にかかってるってことか……。
村上:で、実はこれを体現するようなエピソードがあります。イヴェール絡みの話題なんですが、実は驚くべきことに彼の新曲がライブで登場しているんですね。それは「冬の伝言」という曲なんですが、これはイヴェールが、自分を産もうとしてくれた母親たちに対してその意志そのものに感謝を捧ぐという曲です。このとき冬とはイヴェールの隠喩であるとともに、生まれてこれなかった子供、つまり水子の隠喩でもあります。Revoは物語の外部でイヴェールに見事救いを与えたんです。と同時に、これはイヴェールに留まらない水子たち、即ち、可能性の子供たちを祝福したのではないかと僕には思われますね。
相馬:産めはしなかったけど、産もうとした意志にこそ価値がある。なんだか、感動的になってきたな。そして、物語の救済……。さっきの密議宗教も、一番、大切なことは救済の約束。やはり、サンホラ・ライブは現代の密儀宗教なのか?
■物語の救済とエヴァンゲリオン
相馬:でも、これって、エヴァンゲリオンでも同じだったのかなあ? あれも物語そのものを救いたかったのかもしれない。外部にいる我々が登場人物たちを救いたいって気持ち強かったんじゃないかな。(特に、僕は綾波かなあ)だからこそ、まだ、新しいのを見続けてるってことかな。
村上:実は僕もエヴァが大好きなんですよ! あれは子供の頃僕の全てでした……。でも、他方で相馬さんにとってもエヴァが重要だったというのは興味深いです。どのような感じだったんでしょう?
相馬:僕はすでに30歳を少し越えてたんですけどね。でも、ここまで言ったら大げさかもしれませんが、正直、90年代で切実でしかも今も残ってるのって、僕個人にとってはエヴァンゲリオンと、あと数えるくらいのものなんですよ。当然、僕個人にとってですけどね。実際、90年代で本当に衝撃受けたものってあまり思い浮かばないかな。だから、そのくらい大事というのは事実ですが、村上さんにとってもエヴァはすべてっていうくらいなんでしょ? じゃあ、たとえば先ほどの物語の救済ということでいったとしても、サンホラはあのレヴェルで重要なのかな? つまり、僕は世代的なこともあってサンホラにはまれないと仮定しても、村上さんははまれたんでしょ? だったら、ちょっとその辺、比較じゃないけど、どうなのかなあと思って。
村上:うーん、難しいな。個人的なことを語れば僕の人生レベルで重要なコンテンツって、1:エヴァと、2:美少女ゲームと、3:現代のいくつかの……終わった言い方をすればニコニコ動画的なものなんですけど、これ後者に行くほど作品じゃなくてジャンルみたいな言い方にならざるを得ないんですよね。サンホラは二番目と三番目の中間みたいなところに僕の中ではいるんですが、だから、作品として比較すればそれはエヴァとは比較にならない。しかしそれは恐らくエヴァと比較すれば何でもそうなのであって、それに匹敵するものなら僕ならX JAPANとかマイケル・ジャクソンとか言わなければならなくなってしまうんですけど、とにかく、エヴァと比較してこれより規模が小さそうに見えるから価値がないのだと見られるような論法には与したくないですね。むしろ、ここで重要なのはエヴァの何が相馬さんにとって重要だったかであって、もう少し詳しくお伺いしたいところです。
相馬:結果的には、どれほど苦痛を伴っても現実世界を受け入れたってことだよね、シンジは。
村上:そうですね。確かにシンジは補完を拒否したわけで、それは母胎的な一体関係を拒否して生まれたということですよね。 もしもそこから僕が違うことを言うとすれば、虚構の人物が「生まれる」ということはどういうことかということで、EoEの最後で彼が一種の現実とも虚構ともつかぬところにそれこそイヴェールのように放り出されていて、むしろそれは、宙吊りになって、二次創作という人々の勝手で暴力的な想像力に耐えることを要求されているように見えるんですが、しかし僕はまさにそれこそが「生まれる」ことに思えるわけですね。
相馬:学園エヴァの切実さということと逆のベクトルではあっても、やはり映画版の最後は切実だったということは思いました。つまり、あれ(映画版)も厳しい選択ではあっても、救済かなと。
村上:救済っていうのは短絡的な「上がり」だけを意味しないってことですね。僕もそう思います。
相馬: そういうことですね。あれほど、見てる人に学園版への欲望を掻き立てたのに、それ以外の救済としては、やはり、かなりのカタルシスがあったのではと思うんですが。
村上: 夢分析でも悪夢こそがカタルシス的であるというのはよく言われますもんね。僕も最近よく見ます……。
■「王国」の軍門に下る日を
村上:サンホラの作品が内容的に絶望感満載なことにはカタルシス効果があると言えるかもしれませんね。たとえば、イヴェールでもタナトスの少女でも、サンホラの作品ではあたかも我々視聴者のように楽曲=虚構を眺める人物が現われます。彼らは他人事のようにその虚構の悲喜劇を眺めるわけですが、ふと気づくと自分もその悲喜劇の中にいる、ということが分かるわけですね。そのとき、彼ら彼女らはまさに現実の我々の寓話になっているはずで、その意味では、ほとんど我々と同じような身の上の彼ら彼女らが背負う悲劇というか負債のようなものは非常にカタルシス的というか、現実への贖罪という感じがしますね。ところが、それこそエヴァでこの手の代償行為は批判されていて、補完された世界に逃げこもうとするシンジにレイが「都合のいい作り事で、現実の復讐をしていたのね」と辛辣なことを言います。シンジは神の子に選ばれたということで好き放題してしまいますが、世界が彼の玩具でないことは言うまでもありません。それが問題になるのが他ならぬ我々の自由な想像=創造行為なのですが、Revoが物語とライブを厳密に区別しようとしているのはここに関わる倫理の発露だと思うんですよね、っていうことで戻ってきたw
相馬:現実に物語で復讐することなんて当然できないわけですが、それを可能だって思わせちゃう態度こそが非倫理的ってことですか? だから、物語とライブをきっかりと分ける。ということは、そういう非倫理的なことが、かなり浸透してしまってるってことですよね。でなければ、わざわざ強調することはない。
村上:というよりはそこにこそ真性宗教と、現代における……擬似宗教の違いがあると思うんですね。僕の考えでは、物語で現実を代償できるというモデルのもっとも典型的な例はスピリチュアリズムで、あれはポジティブな自殺を誘発させています。他にも多くの宗教は来世や天国での救いというのがフィーチャーされていますが、そこに逃げこまず、しかし生に希望を持つためにはどうすればいいのか、ということをRevoは模索しているように見えるんですね。それは倫理的に思えます。
相馬:なるほど。でも、真性宗教と言っても、キリスト教も仏教も救済宗教ですよね。それは、基本的には今より高められた状態を求めてるわけですし、今現在の生を否定して、より高められた生を目指してるわけです。だから、救済なんですよね。でも、そうじゃないものっていうと、今現在をもう一度って求めるというのは、西洋で言うなら、キリスト教以前の自然宗教、たとえば、男性原理が支配的になる以前の原始宗教とかですよね。あれは、たしかに、来年も、再来年も、今現在の生が回帰しますようにっていう永劫回帰の考えに従ってますよね。
村上:細かいことを言えば色々ありますが……たとえばプロテスタントと予定説の関係や、あるいは小乗仏教や禅宗、現世利益や念仏踊りなど様々な関連要素を考えることができるんですが、ここはちょっと大雑把ですが、ニーチェを思い出せばいいと思います。ルサンチマンと永劫回帰、そして超人の話です。つまりこういうことです。もしも虚構を過剰に悲惨にしたり、あるいは過剰に幸せにしてみたりすることで現実の埋め合わせにしているのであればそれは児戯的です。しかし、もし我々が虚構に我々のありうべき姿を映しだして消費しているのであれば、逆転して、虚構を我々のあるべきように描けばいいのだと思います。これは別に現実を写生せよとか、私小説最高とかそういう意味ではないですよ。そうではなくて、我々の現実が取り返しのつかないものとして存在しているように、虚構の一つ一つも取り返しのつかない一つ一つとして存在していて、それを我々の扱う手つきがそのまま我々の現実にも反映されてくる、ということです。
相馬:現実に復讐するためではなく、現実を、それこそ補完するということですか?
村上:ソクラテスじゃないですけど、「よく生きる」とはどういうことなのか、って言ったらこういうことじゃないかと思うんですよね。補完って言うと虚構で現実を埋め合わせしているニュアンスが出るので自分としては不本意なところもありますが、虚構に対する倫理的な態度が、現実を「よく生きる」態度へと繋がるというか。具体的には「死なない」とか身も蓋もなくなりますけど。
相馬:先ほどの宗教の話とサンホラの関連について、ちょっと重要に思ったので質問しますね。救済宗教は現在の生を否定的にとらえ、高められた生を求めるって方向ですから、当然禁欲的になります。だって、セックスがはびこって子供がたくさん産まれて今の世界が栄えちゃったら、今のままの世界がずっと続いちゃって、いつまでたっても高められた世界は到来しませんから。で、一方で、自然宗教は現在の生を肯定的に見ますから、創造としてのエロスは賛美されます(性神崇拝などに見られるように)。で、サンホラの提示する生の賛美っていうのが、今ひとつ、つかめなくて。だって、あまり、エロティックにも、エクスタシーというか、ディオニュソス的熱狂っていう風にも見えなくて……。最初の印象に戻りますが、ゴスロリに近いのかなって、思ったとき、どちらかと言うと、単純にスピリチュアルに見えちゃったんです。で、村上さんはそうじゃないって言うから、そこを聞きたいのです。最後に、僕の不勉強をさらしてしまう恥を覚悟の上で! お願いします。
村上:難しい上に重要な質問だと思いますが、まずサンホラは宗教的ではあっても宗教ではない、ということですね。で、そのとき、サンホラはアポロン的にもデュオニュソス的にも見えないのに宗教的であるとはどういうことなのか、それってヌルいだけなんじゃないか、っていう問題だと思います。結論から言うとヌルい、ということになるでしょう。なぜなら、サンホラの「王国」は革命をしようとしていないからです。だから物理的な社会の壊乱を起こそうとはしませんが、しかし他方で革命なんてほとんど出来るわけないのでそれを唱えることは不可能なのに可能だと振舞うシニシズムです。そうではありません。語弊を承知で言いますが、ことは量子力学的なんです。サンホラというもう一つの現実への所属が彼ら彼女らの「よき生」を支えていて、その二つがトレードオフの関係になっていないから外部の人や昔ながらの人にはヌルく見えてしまう。でも、今やサンホラに限らず、ある人にとって大事なものというのは、ローカルであるかノスタルジックであるかの二択を逃れられないのではないでしょうか。サンホラもそんな対象の一つでしかありません。でも、そんな対象をいくつも取り上げていくことが恐らくは今や残された文化的な営みなのだと思えてなりませんね。
相馬:村上さんが言ってくれてよかった。インタビューなど読んだときは結構好感もてたし、だから、今回の対談ではちょっと否定的な態度になっても、村上さんにちゃんと聞いとこうと思った。
村上:本当はこんなこと言いたくないわけですよ。全て外交用のプロトコルですから。本当にサンホラを楽しんでいる内部の人たちの気持ちは全然掴めていない感じがしていて、なぜそれができないかということばかり説明する羽目になってしまう。僕の能力不足もありますが、サンホラのような対象はやっぱり作品論で取り扱わないとダメです。少なくともそれだけの強度はあると僕は信じています。作品論は、門外の人には敷居が高く、意味が分かるように書こうとすると表層的なものになってしまう。でも、サンホラの人気についてもし外部の人が疑問を持つとしたら、その魅力の中心に興味があるということであって、それを対象にしなければいけないけれど、それは作品の中にしかない。ただ、そこに迫るだけの批評はまだ全然ありません。サンホラのメジャー化に伴ってそういった批評が増えていくことを期待したいところです。といっても批評とは評論だけのことを意味しているのではなくて、あなたのやり方でサンホラの解釈を表現してみせてくれよ、ということですね。それはRevoが暗に言っていることでもあると思うんですね。その芽吹きが豊饒であるのなら、それこそ相馬さんのような方もいつか王国の軍門に下る日が来るんじゃないかな(笑)。
文・構成=相馬俊樹・村上裕一
関連記事
2010新春特別企画
ばるぼら × 前田毅〜ビジュアル系対談:激突!!血と薔薇
四日市 × 相馬俊樹〜対談:ビジュアル系文化に辿る黒き血脈!!
さやわか × ばるぼら〜対談:2000年代におけるインターネットの話
セックス・スペシャリスト VS オナニーマエストロ 特別対談!