special issue for Golden Week in 2011.
2011ゴールデンウィーク特別企画
さやわか × 村上裕一 対談:『魔法少女まどか☆マギカ』【前編】2011年GW企画第4弾は『魔法少女まどか☆マギカ』と2011春アニメをめぐる対談! 話題性もさることながら我々を存分に楽しませてくれた『まどマギ』。一口には語りきれないこの作品、批評家の村上裕一さんと、批評シリーズ「現場から遠く離れて」を連載中のさやわかさんによる考察をお届けします。本日の前編は『まどマギ』、明日の後編は今季アニメの話題です。
さやわか(以下さ) 『魔法少女まどか☆マギカ』、最終話を観て僕は面白いなと思ったんですけど、村上さんはどうでした?
村上裕一(以下村) 僕は対談に先駆けて、観た瞬間に「いやあ、あれはいい。神でしたね」ってメールをまわした前科があるわけですが(笑)。すごく面白かったですね。当初の心配は、やっぱり10話で止まってたので、これは1クールで終わるのかって思いましたが、終わってみると完全に終わっていて。むしろ9話以前がなかったような印象でした。
さ 省略のドライブ感みたいな、ここは説明しなくてもマンガ・アニメ的データベースを参照すれば意味が通じるからOKみたいなことを、ものすごくうまくわかって作ってあるなと思った。
村 そうですね。ループってそういう性質じゃないですか。エロゲーで考えれば、共通ルートが存在していて、共通ルートを半分くらいやって個別ルートに行くみたいな。だからやってると共通ルートの価値がどんどん低くなっていくけど、そういう感じがしないですか、1話から9話の間に。
さ 確かに。エロゲー的なループだと最後のほう、ここは共通ルートがあったという体で始まりますよね。作中でほむらは実際にループを体験するわけだけど、作品の作り方自体がそういうのに近い。
村 10話までは関西で地震前にやったので、共通見解が出来てました。ほむらがループという経験を持っていることを前提にした認識が1話から9話にまぶされていて、それを再検証する動画が「ニコニコ動画」で人気だったんです。それを前提にして観たら、なかなか細かく文学的に演出がなされていて面白いなと思った。でも全体的に観て思ったのは、そんなのどうでもいいと(笑)。
さ そうそうそう、どうでもいいんですよ(笑)。『エヴァ』と比較する人がいるんだけど、そういう意味では『エヴァ』とは結構近くて、枝葉末節は本当にどうでもよくなってる。
さ 確かにそうかもしれません。『エヴァ』は放送終了後に時間をかけて社会現象化していったので、その点では終わったばかりの『まどか』と比較するのは難しい。
村 あれは3年くらいのスパンで形成されたものですからね。『まどか』のその辺の価値を量れって言われたら、やっぱりあと1年くらいは見なくちゃいけないと思います。
さ そうですね。条件があまりにも違うので。ただ、やっぱり作品として『エヴァ』以降、95年以降みたいな問題をずーっとみんなやりあぐねていたのが、ここへ来てメルクマールと言うべき作品が出てきたのはあるんでしょうけどね。
■ループもの作品を総括する『まどか☆マギカ』
さ ゼロ年代ってループものが流行っていたんだと思うんですよ。僕もずーっとループの問題は重要だと思って考えてたけど、よく考えたらループものっていう概念自体がすごくゼロ年代的なものだったんだなあって。『まどか』はそれを総括するようなものだったから、そのことに気づくことができたように思う。そういう意味はあるんじゃないかな。
さ (笑)。
村 これは1回ですからね、事実上は。ワルプルギスの夜に直面しているという事態は作中で何回か繰り返されてるけど、割かれた話数それ自体は最小限ですよね。
さ そうそう。だからエンドレスエイトは視聴者に対してループを追体験させるようなところがあったけど、これはそうではない。『シュタインズ・ゲート』に似てるっていえば似てるんですよね。ループの作り方としては。
村 だから10話を見ていると、明らかにほむら主人公説が強くなると思うけど、これを観てると、『魔法少女まどか☆マギカ』というストーリーはやっぱりまどかが主人公だということを痛感させられますね。
さ そうですね。
村 魔獣の話になるとまどかじゃなくて本当にほむらが主人公になるんでしょうけど。その辺の違いがあるのかなと。エンドレスエイトだと、キョンが主人公だからこそあの繰り返しをせざるを得ない。ハルヒが主人公だとループは生じないはずなんですよね。
さ そうですね。
さ あの因果が積み重なっていくというのはゲーム的リアリズムみたいなものをフィクションの中で説明したんだと思う。
村 一応根拠としては、直前にキュゥべえが過去の魔法少女の歴史を全部見せたのがある。でもあの経験が今回に特別なものとはとても思えないんですよね。これまでにもあったと想定しないとさすがに特殊すぎる。そこから想定できることって、ほむらは何回繰り返してるんだろう、アニメを観てると6回くらいじゃない?って印象だけど、でもたぶん違うんですよね。
さ 違うと思いますね。
村 たぶん無限回くらい繰り返してるんじゃないかと。
さ 視力を魔法で上げてる描写があったけど、それ以外の部分、勉強ができるとか、運動能力が上がってるのは、ループのたまものじゃないかな。
村 そうですよね。「ニトロプラス」的な文脈(※1)では『シュタインズ・ゲート』よりも遥かに『マブラヴ』に似てると思う(笑)。虚淵さんは、2006年くらいからエロゲーは作ってないんですが、こっちで決算というか、清算したのかな。
さ ただ、始まった初期の頃から、「血溜まりスケッチ」みたいな言い方もされてたし、虚淵玄だからこう作るだろうみたいな予測が視聴者の中に働いていて。今なお虚淵が作りたかったのはこういうものだから、だからこうなったとか、もしくは虚淵はこうすべきだったみたいな言い方があるけど、僕それはあまり気に入らないんです。
村 不思議な話ですよね。はっきり言って小手先の話じゃないですか、虚淵玄はこう作るべきだって。そういう発想は吹き飛びましたよね。全宇宙規模のまどかのこう……これを見てると、そういうスケールの話ではない。
さ 脚本家一人がこの話をコントロールしてるっていう見方はもう全然できない。もちろんそれは新房昭之でもないし、蒼樹うめでもない。
村 ましてや、シャフトとかイヌカレーではない。
さ そうですね。作家論をやるべきではないとは言わないけど、作家論やジャンル批評の範疇でのみ語ってしまうと取りこぼす部分があまりに大きいように思うんです。特にこの作品は(『エヴァ』もそうでしたが)データベースの組み合わせが非常にうまく機能している作品なので、だからこそそこに拘泥してしまうと作品を小さく見積もることになるのではないかと。
■ゼロ年代的バトルロワイヤルの不条理
村 内容的にはどうです? すべての魔女を生まれる前に消すみたいなことをまどかが言って、実際に消し始めるわけですが、問題なし、めでたし、と思いきや、それと同じくらいの呪いが星に降ってくるというシーンがあって、あれがやっぱり面白い。あれを省略したらヤバかった、あまりにもチート感がある。でも結局さらに吹き飛ばしてるからチートなんですけど(笑)。
さ それを超展開と呼ぶ人もいるし、あるいはまどかが神的なものになってしまうことに違和感を感じる人もいるってことはわかるんですけどね。
村 でもあれは論理的な展開だと思う。つまり魔女というか呪いが生じる前に殺すとなったら、それに対応する呪いが降ってきても、さらにそれにかぶせる形でまどかがでっかくなるに決まってる。
さ なるほど。それは面白いですね。僕もシナリオのレベルで論理的な首尾一貫性を感じました。というのも、最初から実はまどかって「魔法少女になれる」と言われた時に、まずは衣装をノートに落書きしたりするようなイノセンスが勝っているような人なんですよね。「魔法少女は夢と希望を与える存在」ということを子供に近い感覚で信じている。だから、あのラストの選択は最初っから一貫してたんだなあって思いました。で、「こんなの絶対おかしいよ」って6話で彼女が言ってたのは、バトルロワイヤル的な空間、ゼロ年代的な空間に置かれてしまった「魔法少女もの」ということに関しておかしいと言っていたわけですね。ゼロ年代には少年少女が戦うという不条理を、バトルロワイヤル的なゲーム性を導入することで成り立たせていたんですが、そこに異を唱えている。だから自分はそこにコミットしない、絶対組みしないんだってことを言ってるんですね。途中、何回かへこたれて「誰かを助けたい」みたいな気持ちで魔法少女になろうとするんだけど、みんな止めるんです。まどかがほんとに望んでいるのは、そんなことではないからですよね。じゃあ最後にどうするのかっていったら、「魔法少女もの」というジャンルを救うみたいなところに落ち着けたのかなあと。だから必然的にメタ的になるんですけど、そもそもまどかは、ノートに書くという仕草に象徴されていますけど、メタ的な考え方に踏み出しているキャラクターだったのでしょうね。『エヴァ』以前の時代のフィクションでは少年少女が戦うことに理由はいらなかったんですよね。しかしその想像力は90年代に頓挫してしまう。だから『エヴァ』は少なくとも旧劇場版まで、そんな不条理に直面して戦えるわけないじゃないか、というドラマになっていた。この10年はそれを回復させるためには登場人物をゲーム的なバトルロワイヤル空間、殺伐とした世界に置くしかない、みたいなことをやったけど、それ自体をまどかは否定したんです。
村 戦う理由は、まさに大きな物語の一つだと思う。大きなものと戦う理由が崩壊したせいで、じゃあ小さな物語はというと個人的な事情だから本当に救いようがない。魔獣の世界になってからも魔法少女は戦ってるけど、そこでほむらだけはまどかが守った世界を守るという戦う理由を持ってる。でも戦う理由を持っちまったら駄目じゃないかって怒ってる人がいた(笑)。
さ ああ、なるほどね。ほむらもまた無邪気に戦えってことですか(笑)。
村 でも結構辛いんですよ。あの世界って救われた世界じゃないですか。あの記憶がないところ、あの記憶がないっていうのはまさに我々の現実の20年くらい前の世界で。そこにはやっぱり戻れない。
さ それを受け入れて、というのをほむらは象徴してやってるわけで。
村 まったくその通りですよ。だからそこは勘弁してくれと思いました(笑)。
さ そこで何もなくなったら、この話自体、意味がなくなっちゃいますからね(笑)。
さ もちろんそうです。それこそ今、地震が起きて「日常はもう戻らない」みたいな意見を言う人もいますけれども、いや日常は戻ってるけど形が変わるんでしょっていうことを、ちゃんと受け入れて表現してますね。
■僕らが観てきた“魔法少女”
さ 本当にそうですよね。ループものの表現の仕方もそうで、単に繰り返しているように見えてもそうではなかったのだっていうことをきちんとやっているから新しいわけで。だから、最後のまどかの選択は単なるジャンル回復という閉ざし方をさらに越えているようにも思います。
村 ループといってもいろんなループがあって、平行世界として散在している可能性と、ひとつの歴史が何回も繰り返してるというのはまた違うと思う。まあこれは最大に試行回数を上げれば同じになるけど。『まどか』に関してはその違いは重要なのかなあと思っていて。何故かというと、卑弥呼とか、ジャンヌ・ダルクだとか、バルキリーみたいな、あとアンネ・フランクもいましたね。これ見ると、一貫した地球という星の歴史なんです。全然複数の可能性とかない。世界史の話ですよ。だからあそこでリセットされたものと、ほむらが経験したループって、本質的に質が違うのかなって思ったんです。
さ うんうん、確かに。
村 その質の違いが、どう話につながってくるのか……。たぶんつながってなくてピタッとはまってないんですが。
さ ほむら一人がいわゆるループものをやっていて、『まどか☆マギカ』という物語自体ではループものになってないのかもしれないですね。
さ なるほど。僕もあの結末は予想していませんでしたね。やるとしたら、キュゥべえの言うエントロピーの増大を食い止めるという発想自体が宇宙の熱的死を食い止めるみたいなことなので、それは意義があるのかもしれないけど今ある時空間を崩壊させるようなことなので前向きとは言えない、だからお前要らないってキュゥべえの提案をなしにしちゃうかなと思っていました。もしくは、魔法少女のエネルギーを使わずにキュゥべえの望みを叶えるか。でなきゃイデ発動みたいなことで、宇宙ぶっこわして全て終わりみたいな(笑)。
さ 思いますよね(笑)。実際のラストもそれに近いことは近いと思ったんだけど、実際はそういう意識で作ったわけでもないと思う。これは魔法少女ものだから『魔法少女まどか☆マギカ』というメインタイトルへ最終的にこのゼロ年代的なアンチ・魔法少女もの的なバトルロワイヤル世界から戻っていくにはどうしたらいいのかという解決をしたんだなって思いましたね。
村 極端な解釈をすると、我々の現実には魔法少女っていないけど、我々の現実がかつて持っていた魔法少女像はまさにまどかが願ったもので、我々の生きてる現実はまどかによって構成されたとするような考え方が容易にできると思うんです。
さ そうですね。僕らが今まで見てきた魔法少女ものが平穏無事でいられるのはまどかがいるからという話になるんですよね。だから僕が思ったのは、それぞれの魔法少女ものを神話とすると、神話素としてまどかが働くことによって、すべての魔法少女ものを無事な終わりに、機械仕掛けの神的に登場して、最後の部分で魔女になるような悲壮な終わりに導かないってことをやってるという。
村 それは完全にメタ神話ですよね。特に最後のでっかいまどかは『THE END OF EVANGELION』の綾波だと思いましたね。
さ だからこそ、まどか自身が自己犠牲的に世界を救う選択をして女神というか、神になったって言ってしまうと、僕は少し違うなと思っていて。どちらかというと神話的なものに対して、メタ的に介入している何かなわけですね。
■「ニコ動」的マッシュアップとゲーム的リアリズム
さ そうそう。
村 『まどか』は完全にそういうものですよ。
さ 僕、「ニコ動」のことも考えてたんです。まどかのジャンル救済というのは、魔法少女ものの最後の部分だけマッシュアップ的にガンと差し替えるようなことなんですよね。それぞれの魔法少女もの物語のいちばん最後の、魔法少女が魔女になる瞬間に、いやいやこれはいいエンディングだからって、まどかという個が働くことによって全部を差し替えていってるような。
村 確かにそうですね。この手で消すみたいな、本当に分身していってますから。あれはすごい。因果律を無視っていうか……。
さ そう。キュゥべえも、これは因果律を無視してるじゃないかって。本来こんな話はこうなるというような論理的な整合性、フィクションとしての組み立てを無視しちゃってるじゃんって言って困惑してたけど、マッシュアップ的な解決にとっては整合性なんて何の意味もないことなんですよね。まさに因果律の無視というのはそのことを指していると思うんです。ようするにこれはMADだからいきなり差し替えて、物語は安穏と続いてるっていうふうに見せられればそれでいいんだよって。
さ いきなりあの町じゃなくなってますもんね。
村 極端に言えば、『まどか』の二次創作の結果としてありますよね。普通の二次創作と違って、権威があるというか、強力な。
さ 唯一人まどかの記憶を持った魔法少女の、終わりを描いてるのかなって。他の魔法少女は普通の魔法少女ものとして終わっていけるけど、ほむらだけ記憶を持ってしまっているので、だから微妙に翼が黒くなるとか、ちょっとダークなエンディングを迎えざるを得ないんだろうなとは思うんです。
村 『ゲーム的リアリズムの誕生』だと、ループしてるやつは基本的にプレイヤーと対比される存在。だからほむらがいることによって何が伝えられているかというと、ほむらと同じように対応する権利が視聴者に生まれるという感じがする。だからビジネス的に考えるとちょっと熱いですよね。こういう仕組みにしておくと、二次創作とかわんさか出てとか、そこまで計算してたらすごいんじゃないかと。
村 従来であればこういう作品が、たとえばシェアード・ワールド的な作品って90年代に流行ったじゃないですか。世界の成立そのものって、実際にはシリーズが7章か8章くらいあるとしたら、6章とか後半になって明らかにされる話だと思う。だから最初にこのようにして世界が成立したんだから、あとは自由自在に展開してもいいし、我々はそうするよって態度はチャレンジングでもあるし、態度自体は時代の違いっていうのを強く思わせるなって。だってこんな終わり方したら、さっきの発言と意見が翻ってる感じがするかもしれないけど、終わった感じしますからね。まどかのすごい巨大な射精によって世界が始まった、ここでいう始まったは終わったとほぼ同義だと思う。
さ ああなるほどね。むしろ世界が始まったところで終わってるような感じもしますしね。
さ 人知れず主人公が世界を救って、その人のことを誰もが忘れました、終わりっていうお話も結構あるじゃないですか、世の中には。そういうものとは、少しこれは違いますね。たとえば『ストーンオーシャン』のラストなんかも並べてみると面白いかもしれないなあ。
■子供のまどかと100歳(推定)のほむら
さ 母親はどうですか。11話で割とフィーチャーされてましたよね。12話では女性らしいキャラクターに戻されてた。これは結構、意味があることだったんだなと。6話で「間違い続けてもいいんだよ」って言ってたじゃないですか、意味ありげに出てきて。つまり、ある程度は親子の問題をやろうとしている。逆に言えば、もしこれが父親だったら、すごくいやな話だと思うんですよ。
村 確かにそうですね。
さ 父親に、間違えてもいいんだお前はって言われたり、それでもよし、闘いに行け、とか少女に言ってたらこれヤバいだろ(笑)って話になると思うんですが、男性じゃなくて女性なんですよ。それは男性性を排除している問題なのかと思ったら、12話で最後に母親がいかにも女性らしい女性にキャラクターが書き換えられる。なんなんだろうなあって。
村 いやな言い方をすると、基本的にヘテロなものが正常だというような、ある種の常識があるとして、それをちょっと回復したなという気がします。
さ それはあるかもしれない。ここで平和な世界がきて、母親も女性に戻りましたみたいなことを言っちゃうと、なんかこうね(笑)。いいのかなって思いました。
村 あやしいなって思いますよね。結局、鹿目家は3人家族になって核家族感が増している。幸せそうで。
さ まどかがいなくなることでいわゆる平凡な家庭になるという。ただ、後で思ったのは母親はまどかに対して同性親だからこそのロールモデルたろうとしていたのかなとは思うんです。女の子らしいかわいいリボンの付け方から強い女性として社会で渡り合っていく方法まで教えなければならないと、気を張っていた。だけど、まどかがいなければ、最初からそうする必要はなかった。
村 実際まどかは従順ないい子かと思いきや、魔法少女話にコミットしてから、いろんなところに出歩くようになって、ちょっと不良感も増してきて。
さ そうですね。だから普通に見れば単純な成長物語の構図だと思うんですよ。まどかは親からさまざまに教えを受けながらも最後に自立して大人になったんだという解答に見えなくはない。けど、実際のところ母親のアドバイスは有効に機能してないし、お互いに話している内容は最後まですれ違っている。これは親が子を教育したり両者が対立するような近代的な親子像じゃないんですね。むしろそうでない親子関係を描こうとしている。だから、近代的な親子関係から導き出される典型的なまどかの成長物語というのとは少し違う。それにまどかは子供の想像力で子供を救ったわけですよね。弟の心の中にまどかみたいなものが残っているのは象徴的ですが、無数の魔法少女の物語、イノセンス、ファンタジーを救うというメタ的な解決を行ないながらも、自分がイノセンス自体を使って救うって話だから。実は大人になってない。
村 夢と奇跡でしたっけ。
さ 夢と希望。
村 子供には夢と希望があるけど大人にはないのか、マジで夢も希望もねーって思います(笑)。
さ ビルディングスロマンが見たかった人にとっては、これはよい解決ではないと思う。僕はこういう子供にしかできないことがあるみたいな甘い終わり方が非常に好きですけどね。言い換えると、これはまどかの成長がないからダメだ、それを描くはずだったろうに、っていう言い方は、僕はあてはまらないと思う。
村 この話ってほむらだけが成長する主体だと思うんですよ。ほむらはどうですか。
さ そうですね。ほむらは成長する主体にならざるをえない。それも喪失を伴って。
村 結果的にまどかは世界を救ったけど、その世界を救うため……これも『マブラヴ』からの議論だな(笑)。『マブラヴ』の何が素晴らしいかって、あれはセカイ系をアップデートしてるんです。どうアップデートしてるかというと、セカイ系は基本的に、好きな相手と世界の危機みたいなものが同期してるわけですが、『マブラヴ』は好きな相手を守りたいから世界を救う、というふうに弁証法的に止揚される。同じようなものをまどかに見たような気がするんです。まどかはそうは言ってもやっぱり子供だし、そんなに世界のことわかんないと思う。つまり世界を救いたいと思ってる他方で、そう思ってるうちは何もできないのが一般的な子供じゃないですか。これが上手くいったのは、明らかにほむらのせいですよね。
さ うん。
村 ほむらって実際の年齢をカウントしたら100歳くらいだと思う。まさに魔女ですよ。本来はこういう負債って、この魔女があがなうはずだったけど、まどかが代わりにあがなったという感じがすごいするんです。だから代わりに残されたほむらはつらいなぁと思う。死に場所を失っているので。ほむらの重要なところはキュゥべえによって、自分のループでまどかを犠牲にしていることが判明したために、あいつ最後に死のうとするじゃないですか。あれすっごい重要だと思うんです。あれがなかったら、それこそエンドレスエイトでキョンが花火を思い出すシーンとまったく一緒で、まどかは違うことをやりたかったんじゃないですか、もしかしたら。このアニメにおいて、あれだけが本当に取り返しのつかない瞬間だと思うんです。そういうこと言ったらさやかがすごい不憫なんですけど(笑)。
さ なるほどね。それは確かにほむらはかわいそうなことになってる。
■ゼロ年代的プレイヤーと呪いをまとったフィクション
村 でも逆に言えば、一般的にバトルロワイヤルの解決法っていうのはルールを改変するとかが妥当ですが、ほむらはちょっと違いますよね。自分がゲームをやめる、まあ世界を救ってはいないけど、確かにあるタイプのバトルロワイヤルは終わる。
さ ほむらはひとつのメタには立っていて、ゼロ年代的なプレイヤーの極限みたいなものをやってたと思う。この物語の中で、ゼロ年代的な解決を目指していたのはほむらだけなんですよ。だから、『ひぐらし』と一緒で何回もループしながら、最もいいループの仕方を探るみたいなことをする。途中のループでみんなに、キュゥべえに騙されてるんだよって言ってたのも同じことで。
さ なんにも起きないやつですか。
村 そう。僕が最も憎悪する話で。あれはホントに羽入殺そうと思いましたよ(笑)。一番最初に、梨花を復活させないで、この死を受け入れてしっかり生きろみたいなこと言うわけですよ。そりゃそうだけどさ、責任とってねえ!とか思った。
さ ははは(笑)。あれは祭囃し編を正当化するために用意されたお話という印象が強いですよね。『まどか』は賽殺し編に近いんですかね。
村 賽殺し編に近くないと思う。何故近くないかというと別にキュゥべえがそそのかしてループさせたわけじゃなく、ループ自体が、ほむらが何も知らなかった頃に選びとったものなので。だからほむらの願いとまどかの願いの質の違いっていうのは考察対象になるかもしれないですね。
さ ほむらの願いってまどかを救いたい、ゲームに参加させないことが大事だって思ってたんですよね。まどかは、それはもういいからみたいなことを言ったわけで。そうやって見ると、それぞれの魔法少女がそれぞれの「魔法少女もの」をどう生きているかがわかりますね。バトルロワイヤルに普通に参加しようとしてたのは、一番最初の杏子じゃないですか。それを自分もうまくやろうとして失敗したのがさやかだったのかな。で、まあ、マミさんはとにかくかわいそうで、ドラマも特にないのに交通事故で判断の余地なく魔法少女ものに登場してしまった人なんですよね。しかもそこそこ戦えてしまうからよけいに孤独が募るばかりで(笑)。
村 (笑)。
さ そこでほむらは、いやいや、メタ視点に立つとこれは危険なバトルロワイヤルだから、やっちゃダメだからって言ったんですよね。それでまどかをなんとかゲーム盤の上に置かないようにしてたんだけど、まどかはさらにいやいや、そういうことじゃないですからみたいなことをやった。
村 最終回の上条のシーンを見た時、僕はショックをうけました。あれは辛いですよね。
さ やっぱりこうならざるをえないんだなって。そしてちゃんと、寝取られは事実だったってわかるようになってる。上条君はやっぱり悪い奴ということですね(笑)。
村 悪いですよ(笑)。
さ あいつ最低だなっていう(笑)。
村 最低ですよ(笑)。お前のためにこんなに骨折ってるやつがいるのに、そいつには目も向けずに安穏な人生をって……また『マブラヴ』ですが(笑)、『マブラヴ』で最後の世界に戻るとき、こういう述懐があるんですよ。「夢を見た。平和の意味も知らず、無邪気に暮らしている人々の夢を。 夢を見た。命を危険に晒しながら、守るべきものの為に生きる人々の夢を。」みたいな話です。美樹さやかの話を観て思うのは、確かに上条は、さやかのことなんか一顧だにしなかったクズではあるが、しかし平和ってそういうことなんだろ結局という(笑)。
さ 安穏とね。バイオリンとか弾くわーみたいな(笑)。
村 さやかはさやかで魔法少女してるんだなって。最後の魔獣編だと結局魔獣に全力の攻撃をしたら力つきちゃったみたいな感じじゃないですか。だから本編よりはよっぽどいい。
さ 魔法少女になって、力を使い果たすことになるリスクまでは、まどかは消すことができないわけですよね。魔法少女になることは、結局は死ぬようなことになる可能性を秘めてるんだってところまでは、どうしても排除することはできない。
村 それは完全にエントロピーですもんね、それこそ。
さ そこで、人のために戦っていたはずが、自分が悪しき存在になってしまうという、その連鎖自体はすごく醜いものなので打ち消そうと思った、という話ですよね。
さ ははは(笑)。
村 でも届かないんですよ、3週間前に注文したのが。注文が大挙してるに違いないんですよ(笑)。何を思ったかというと、もし魔法少女が、そもそも人間と異なった超越的存在だとしたら、その人たちにまともな死を与えるというか、レクイエムとなる作品という印象はぬぐえないなと思ったんです。そう言うと悪印象に思われるかもしれないけど、それはしっかりしてるなと。何故かというと、もし魔法少女が戦うことを運命づけらけれるとすれば、それって結構すごい呪いだと思うんですよ。
さ うんうん。
村 その呪いから解放することをしてるので、これは重大な使命を負った作品なんじゃないかと。
さ そういう呪いをひっかぶせるような構造に、アニメなり、若年層向けのフィクションがとらわれてしまったのが、この15年くらいの流れでもあったと思うんです。
さ うん。だから僕はどちらかというとフィクション、というか魔法少女ものの可能性を回復させる話だったと思います。
■魔法少女の系譜と戦闘美少女
村 回復させるべき魔法少女……そもそもの魔法少女のイデア像ってどんな感じなんですかね。
村 そうですね(笑)。僕が一番古い魔法少女の印象をひっぱりだすと、サリーちゃんが思い出されますね。やつらってバトルしてるんじゃなくて、単に人間界に修行しに来てて、秘密がバレたら帰るよという、花嫁修業に近い。
さ そうですね。だからそこまですべての魔法少女…60年代から続く魔法少女ものを救ってるという話ではないですよね。あの系統の魔法少女は、少女向けフィクションの伝統としての自己実現、夢みたいな自分になるという物語なので、まどかが救いの対象にしている魔法少女とは明らかに異なりますよね。僕はあの路線は90年代後半以降に『しゅごキャラ』や『めちゃモテ委員長』みたいな学校を中心としたコミュニティでの自己改変ものに受け継がれたと思っているんです。『君に届け』『高校デビュー』とかも同じ部類ですね。それと、戦闘美少女としての魔法少女を分けたのはやはり『セーラームーン』ですね。そこからいつの間にか少女が業みたいなものを背負わされて戦わざるをえなくなった。もっと昔の『キューティーハニー』なんかも戦う美少女だけど、魔法少女ものからの進化の系譜で考えるとやっぱり『セーラームーン』でしょう。「戦う魔法少女」というのもかなりややこしい存在なんですけど、まどかはそこに夢と希望を見ていて、ゼロ年代以降に『なのは』みたいにバトルロワイヤルになって、どんどん悲惨な戦いに身を投じざるをえなくなったことを憂いている、という話ですよね。
村 しかしバトルもの、魔法少女に限らず、能力持ったらバトルしなくちゃいけないみたいな系譜って、結構根強いですよね。ジャンプマンガもそうだし。それって男の子文化の産物で、女の子文化ってほんとはそうじゃなかったですよね。
さ 全然違いますよね。
村 『セーラームーン』が例外だったんでしょうか。
さ 『セーラームーン』は作り手にとっては諧謔的なところがあったというか、『仮面ライダー』のような変身ヒーローものをミニスカートの女の子にやらせているという面白さがあったんですよね。ところが、次第にそこにとても大きな意味がのしかかってしまった。
さ そういうことですよね。なぜか女の子を主体にして戦わなきゃいけない形になってしまった。しかも、そこにどんどん強い意味づけが科せられていくんですね。まどかが拒否したのはその部分でしょうね。戦うこと自体は否定していなくて、だからマミさんが魔女を倒したのには単に憧れの気持ちを抱いていたし。もっと牧歌的な時代の、最低でも『セーラームーン』あたりの魔法少女のイメージを持っている。
村 そういうイメージって20年前は出来上がってなかったと思いますけど、10年前だったら単に普通の話といえばそうですよね。現実に魔法少女的な展開があったとして、もし友達がそういうものに覚醒したら「えーやっぱりこんな感じなの?」みたいになると思うんですよ(笑)。だからまどかはあの作品の中で特殊なポジションだけれども、やってることは普通で、むしろみんながおかしい。
さ そうだと思います。
村 さやかはいきなり戦闘にコミットしていきますからね。待てよって感じですよ、普通は。おいおいよく考えろよって(笑)。
さ (笑)。
村 杏子の来歴はドラマチックでしたけど、あれも結局個人史にすぎないので、まどかだけは個人史に依拠してない。
さ だから何もなかったんですよね、まどかは。それこそ望みがなかったこともあるし。トラウマも別に抱えてなかった。
村 いいですねえ。その発想、僕は持ってなかったけど、それを言われると僕は嬉しいです(笑)。ゼロ記号のような奴によって救われるということなので。僕の語彙だとゴーストなんですよそれって。僕には大変好都合な概念ですね。
■ブレイクスルーで輝きを取り戻す物語
村 ゼロ年代の後半、特に美少女ゲームにはあるパラダイムがあったと思う。それは基本的に神を救済するというモチーフなんですよね。
さ 神をですか?
村 はい。まあ神は死んでるのでそのものズバリではないんですが、神はいないのになぜか永遠の世界に閉じ込められている少女がいるとか。神って『まどか』で言ったらまさに魔法少女なんですよ。魔法少女を救済しなきゃいけないんだってみんなで喘いでいて、でもできないんだって嘆いてたら奇跡が起きるようなことになる構造で。特に「Key」がそういう作品で、例えば『ONE 輝く季節へ』は自ら永遠の世界に行って……。
さ ああ、そうですね。
さ はいはい(笑)。
村 そうやって表現するとバカっぽいけど、そういう流れがあったと思う。だから『まどか』はそこに違うアプローチをしてきたなと。
さ 確かに違いますね。なんにも望みがない、トラウマも抱えないキャラクターが救うというのは、それこそ神みたいな慈愛の心を持った主人公が無償の心で救済してるっていうふうに見えちゃうんだけど、もっと別のものですね。
村 そうでしょうね。神っていう言葉を使ったほうが話は早いけど、神でないことは間違いないんですよね。
さ いや絶対に神じゃないですよ。もっともっと子供じみた欲望を呼び起こしてるんだと思う。魔法少女ってこういうもんじゃん!くらいの感じだと思う。
村 ゼロ年代パラダイムで言えば、内面がない問題がありましたけど、まどかって内面がない感じがします。内面が薄っぺらい表層、というか深層がない。むしろ、ほむら内面ありすぎ。お前隠しすぎだろうみたいな(笑)。
さ (笑)。だからほむらは90年代的な心理主義をまとった魔法少女なんですよね。“気持ち悪い”の人なんですよ。まどかに抱きついて「ごめんね、わけわかんないよね、気持ち悪いよね」って言ってましたけど、あれはアスカ的な拒絶をされるに違いないという90年代パラダイムの発想ですよね。
村 「ニュー速」でよく面白いSSがあるんですが、あいつ時間止めれるから、時間止めてまどかのパンツ脱がして自分で穿いてるに違いないとか(笑)。
さ 変態ですよ(笑)。まどかはそういう「内面のある」キャラクターではないんですよね。この話で真に世界を救うのは。
さ 全然ならない。
村 ならないですよね。
さ ロールモデルに全然なってないですよ。
村 無理ですよね、普通に考えて(笑)。
村 心理主義から、バトルロワイヤル、決断主義という流れがあって、宇野パラダイムだとおそらく決断主義の次にくるのは擬似家族とか、共同体主義だと思いますが、そのある種の階梯をすっとばして、心理主義からブレイクスルーした感じがありますよね。
さ そうですね。
村 それはいいですね。何故いいかというと、想像力が勝利した……想像力が久々に開放された感じがあって。喜ばしいことですよ。
さ そうそうそうそう。
村 特にこういうご時勢ですから。人間の閉鎖的な想像力で考えていくと悪いことしか……ここへ来る前にたまたま日本の自殺率とかを調べてたんです。本当に現代社会は閉塞しまくっている。フィクションって何のために……いやフィクションはフィクションのためにあるんですが、でもフィクションの輝きってどこにあったんだろうと考えると、『まどか☆マギカ』というのはその輝きに見合ってる感じがします。ちょっと美しい話になってきました。
さ そうですね。僕もそれはすごくいいと思う。ここで想像力を失わないことが。
■フィクションによる救済と現実的ゼロサムゲーム
さ ただ、フィクションの想像力が全てを救うんだ的なことを言って勝つだけだとここ10年でもほかに見られたというか、割といまどきのテンプレ感があるという感じもするんですけどね。フィクションの想像力がすべてを上回るんだみたいな作品、あるじゃないですか。
村 ありますねえ。
さ 『まどマギ』ってなんか違うんですよね。
村 そうですね。普通にそれを言われると、いやいやちょっと待ってくれ、それ無理だよって感じもするし、薄っぺらいよって。
さ いかにも作家が考えたというか、俺たちが作ってるフィクションってもの、やっぱ最強だから、みたいなこと言いたげに見えるんです。
村 文学的に言えば高踏派とかロマン主義って感じに見えますよね。
さ そうそう、みんなでフィクションを崇めましょうよ、みたいな。
さ わかりますわかります。そこを説明しようとしてそういうことだと、なんか違う。
村 違いますよね。なんかその、たとえばさっき無償という言葉が出ましたけど、無償の愛とかすごい古臭いキリスト教的概念ですよね。それで説明しちゃうと絶対違う。
さ 違うんですよ。この人はすごく利己的なことをやっているので。無償といったら無償なんだけど、やっぱりその、イノセンスですよ。
村 無垢ってことですよね。僕、いいなと思うのは、バブル崩壊以降、不況下の日本だと、すごいコスト計算というか、ゼロサムゲームが徹底されてる感じがある。エントロピーの話もそれを匂わせる術語ではある。でも世界ってそういうものじゃなかったんじゃないかというのが発想としてあるんです。合理性だけで全部が動いてるわけじゃないし。
さ 必ずしもゼロサムには帰結しないという。
村 しかも現実社会って実はマイナスサムゲームなんじゃないかって。そこでゼロサムゲームと言い出したら実はすごい息苦しい世界というか、もう枯渇しかない世界になってしまう。それは現実を足場にする論理としては、そもそも問いの立て方が間違っている。
さ それはもう、もちろんです。だからこそやっぱりこれって、現実に対する比喩としては成り立ってないと思うんですよ。フィクションの論理かもしれないけど、これを現実に置き換えて云々っていうのはちょっと難しい。
村 もちろんバカっぽいというか、外向きの希望としては、想像力が人を救うとか言ってしまうと、ボロボロになるんですけど……。
さ いやたぶん、そういうふうに見られることもある程度計算しているんだとは思うんです。観た人が単に気持ちいいような、ああよかったよかったフィクションで救われた、みたいに思えるふうにも、見かけ上は見えるようになってる。ゆとり的にも正しい(笑)。
■異常事態の時代と大艦巨砲主義
村 ゆとり的と言えば、これ中二病アニメではないんですよね。
さ うん。
さ はいはい(笑)。
村 これは中二病的じゃないけど、直感的に何がそれを分けてるのか、ちょっと浮かんでこないんです。
さ いや、単純に言って「そのふざけた幻想をぶち殺す!」みたいな見得の切り方はないわけじゃないですか(笑)。
村 あっちの上条さんはいいですね(笑)。
さ (笑)。あれはあれで様式美。見得きってかっこつけて敵ぶっ殺せば勝ちじゃん、みたいな。
村 歌舞伎とか『水戸黄門』みたいなもんですからね。
さ あれのほうがウェルメイドですよ。だから『まどか』って12話でよくまとめましたね、ウェルメイドでしたねってポーンと言っちゃう人いるけど、全然そんなことない。
村 確かによく出来てるけど、これコピーできないですよね。
さ そうそう。これはコピーできない。
さ そうですよ。これってデータベース的なもの、パーツをすごくうまく使ってるから、ウェルメイドっていうふうに感じる人がおそらくいると思うけど、それは使い方の問題であって、それを使って何か別のことをやってる感じがしますよね。
村 魔獣の世界で、キュゥべえが普通に魔法少女のマスコットに……。
さ ほむらにのっかっちゃったりして。絶対狙って使ってますよね。キュゥべえもまた普通の魔法少女マスコットになりましたって。
村 だから基本的に異常事態だった、このアニメ本編が。この異常事態っていうのは、アニメ自体には登場しない言葉ですが、異常事態ってことに関しては結構ゼロ年代コンテンツを考えたんだなって。
さ ホントにそうなんです。さっきも言いましたけど、異常事態というのは、イコール、ずっとみんながとらわれていた、バトルロワイヤル的なものにせざるをえなかった魔法少女ものが、異常な環境に置かれていたんだよっていうことを言いたいのかなと。
村 ここ数年のアニメって、ここまで派手な展開のアニメってないと思うんです。日常ドラマ系が増えて、空気系が跋扈しているのもその一つ。でもだから大鑑巨砲主義的なものってある意味打ち捨てられたものだと思う。バトルロワイヤルと大鑑巨砲主義は、実は相反するものですが、だからスケールの大きいものを描けなかったということも一つの病理だったのかもしれないですね。
さ そうそう、その通りです。大きな物語が終わった後に、小さな物語としてのバトルロワイヤルがあって、それすらなくなってミニマリズムとしての空気系みたいなものがあったとしたら、もちろんミニマリズムとしての空気系にも、細やかな物語性はあるけれど、基本的にはバトルロワイヤルと地続きですよね。『まどか』はそれを超えていく、本当に大時代的なドラマ感がある。メタフィクショナルでもありますしね。ものすごく使命感に満ち溢れてる。
村 満ち溢れてますね。でも使命感に満ち溢れたアニメってないですよ。
さ そうですよね。
村 使命感じゃなくて焦燥感みたいなのはあります(笑)。そういえば『ウテナ』との比較でしゃべってた人がいたんです。『ウテナ』と比較する視点があったんだなってびっくりした。『エヴァ』と比較する視点があるなら『ウテナ』と比較する視点があってもいいんですけどね。
■『ウテナ』との比較、魔獣から見えるもの
村 幾原邦彦がやってるんですよね。彼は『セーラームーン』の脚本も書いてて、関連性を強調してた記憶があります。
さ 『ウテナ』もセカイ系的な話ではあるので。女の子が戦う問題と『エヴァンゲリオン』的な問題をすごく真面目にやろうとした挙句の話だと思う。
村 『セーラームーン』と『エヴァ』を足して割ったような。確かに『ウテナ』を噛ませると『まどか』だと見えにくいセクシュアリティの問題が扱えますよね。
さ そうなんです。だからさっきの母親の話もそうですが、『ウテナ』を通すことでセクシュアリティの問題として『まどか☆マギカ』は正当性を問うことができるようになっていくのではないかと思うんですよね。かなり抑止されてはいると思うんですが、そこに問題を含んでいないのかとか。
村 男いないですからね。
さ 男いないですし、しかもまどかは聖なる存在になってしまった聖処女が自己犠牲によって世界を救いました、みたいな話に見えてしまうのも、セクシュアリティの問題にからんでいるんだろうと。
村 見えますし、実際半分以上そうですからね。
さ そうなんですけどね。
村 魔法少女のパラダイムのオブジェクトレベルには確かに男はいないんですよ。むしろ男ってたぶんキュゥべえくらい。
さ 男的なものの理不尽さを代表してるのがキュゥべえってことになる。で、さやかのところで出てきたじゃないですか。
村 上条ですね。男がか弱いものになるとここまで醜悪なのかみたいな。
さ 電車のシーンでも男がいましたよね。エグいシーンがある。あれは完全にセクシュアリティの問題を扱っているんだけど、最終話ではその問題をうやうむやにしちゃった感はあるんですよ。
村 難しいのは、結局あれ、さやかだけが担ってた問題と言えばそうなので。
さ たしかに、僕もそういうふうに見たいです。
村 僕もそうです。さやかは言うこと聞かないじゃないですか。男に目がくらんで。
さ いわゆる一番女性っぽいのが、さやかなんだなあと。
さ そうそう。だからボクっ子が実は一番女の子ぽかったみたいな話になる。
村 そうですよ、高槻ですよ高槻。赤いブラジャー気にしてんだろ、みたいな感じですよね(笑)。
さ そう。エロい感じの人なんですよ、きっと。
村 これが岡田麿里脚本だったら、そこをガンガン掘り下げていくんでしょうね。
さ 全力でね(笑)。さやかは最初っからそうだったのかもしれないけど、変にセクシュアリティの問題に接近していた。だから5人魔法少女がいて、それぞれ別の魔法少女ものを生きていたんだなと僕は思っていて。ループものを生きてるのがほむらで、セクシュアリティの問題をやっていたのがさやかという。
村 するとさやかに友情を示した杏子は、『プリキュア』みたいな感じですかね。
さ ですかね。
村 マミさんはなんですかね。
さ マミさんは……。
村 『クリィミーマミ』ですか(笑)。ひとりだけ脳天気な(笑)。
さ マミさんはいきなり魔法少女になってしまって、ひたすら孤独で、何も考えてなかったですよね(笑)。あ、でも中二病キャラではありますよね。必殺技とか喋ってるから(笑)。
村 僕もそう思いました(笑)。「ティロ・フィナーレ」ですよね。武器とかも頭悪くて、でっかい拳銃ですから(笑)。
さ 最強ってこういうことじゃんみたいな(笑)。
村 設定資料集というか流出したシナリオを見たら、魔獣は名前に反して聖者のイメージで書かれてるらしいですね、男性的なロジックで。魔女は女性的であやふやなもの、聖者は男性的で、はっきりと直線的な硬質なものとして描かれてるらしくて。
さ ほおー。面白いじゃないですか。男性的な論理で作られた世界で、女性同士が永遠に戦う構造だったのをまどかが嫌って、男性を殺すような世界に改変したってことになりますよね。だとしたら面白い。
村 まどかの母親が女の人になったって話がありましたが、まどかを巨大なグレートマザーと考えれば、明らかに母性の復権と言えばそうなんですね、結末だけ見れば。でもその方向の解釈はちょっと、空しいっていうか、厳しいですよね。
さ 僕もそういうもんじゃないと思う。
村 だってまどかは母じゃないしみたいな。
さ そうなんですよ。
村 母になれなかった女ですよあいつは。父になれなかったシンジがいて、母になれなかったまどかがいる。
さ そこはだから、まどかはグレートマザー的なものになってというような発想は、全力で僕は否定していかなきゃなって思うんです。そういうふうにしちゃうとね、今までのパラダイムの中に押し込めることになりがちなんじゃないかなと思う。
村 そうですね。僕はゴースト論者なんで、唯一の単一の集合無意識の表象としてのグレートマザーはいやだなあと思う反面、そういうのがたくさんいるんだったらいいなと思うんです。
さ うん。
村 だから今回はまどかの理性によって様々な次元の様々な魔法少女たちが救われたんですが、そもそもその『まどか』の世界も相対化するような視点がありうるのかなというのが、興味の対象としてはあるんです。
さ はいはいはい、なるほどね。これが最高のメタレベルとしてあるというんじゃなくてってことですよね。
村 そうです。でも描いてない。描いてないということは、あるかないかわからないってことでしかないので。
(続く)
【註釈】
※1「ニトロプラス」的な文脈:ニトロプラス周辺の「ちよれん」的パラダイムのことを指している。誤解なきよう。(村)
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さやわか ライター、編集者。漫画・アニメ・音楽・文学・ゲームなどジャンルに限らず批評活動を行なっている。2010年に西島大介との共著『西島大介のひらめき☆マンガ 学校』(講談社)を刊行。『ユリイカ』(青土社)、『ニュータイプ』(角川書店)、『BARFOUT!』(ブラウンズブックス)などで執筆。『クイック・ジャパン』(太田出版)ほかで連載中。
「Hang Reviewers High」
http://someru.blog74.fc2.com/
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11.05.03更新 |
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