『SMファイナル伝説』、DX歌舞伎町の楽屋にて。長田スティーブ。 |
ジョウジ川上。ストリップ界のつかこうへいとして、様々なメディアを使いストリップに一時代を築いた男。興行師として30年、ストリップと向かい合った男の半生を辿る。
ジョウジ川上55歳の決意 【3】からの続きです。 >>【3】へ
■全ては舞台のために
それでも川上は、ストリップ興行をやめない。「ショーアップ大宮劇場」を離れてからは「プロジェクトSHOW-UP」としての活動を開始。ハコを自分では持たないが、興行を企画して劇場に買ってもらうという方式をとった。
「業界のなかで仕事して、メシ食っていこうと思ったら三つしかないんです。雇われの社長になるか、自分で劇場を借りるか、もしくはタレントを抱えてマージンをハネていくしかない。だけど『DX歌舞伎町』で僕がやってきた仕事は違うんです。タレントにマージンはかけてません。ひと興行やって、それに対しての利益なんです。売り上げの10パーセントが僕の取り分。10パーって重たいんですよ。劇場からすりゃ当たれば結構払った気もするし。当たらなきゃ、なんで10パーも払らわなきゃなんねえんだって話になる(笑)」
『スーパーDXSM伝説誕生編』。2005年3月11日〜20日、「新宿DX歌舞伎町」にて。 |
川上はDXで、都合3回SM興行を打っているのだが、実際の懐具合はどうだったのだろうか。
あいまいな答えが返ってくるかと思ったら、ちょうど確定申告が終わったところだからと、今年度の収支決算書を見せてくれた。
純利益、39万円。
これは一回の興行での利益ではない。川上の一年間の活動の収益である。本当に割に合っていない。
「僕はSMの愛好者でもなければ、その何ていうか、SMで儲けたいからやったわけじゃない。小屋を守りたいからやったわけでね。でもやるんであれば、色んな人が舞台に関わるチャンスをたくさん作ってあげる、そのお手伝いがしたいなと思ったんです。あれだけ大人数で大変ですけれども、新しい人もたくさん噛んでるわけですよ。普段ちょっとしたショーパブでショーをやるのとまた舞台は違うわけです。その違いを皆さん感じてると思う。特に新宿に来てからはね。もう利益じゃないですから」
しかし問題は山積みだった。
DXでの二回目の興行で卯月妙子は舞台上で自害を画策、一命は取り留めたものの、その日の興行は中止。出演者たちにギャラは支払われなかった。川上は卯月に言った。舞台でしたことは、舞台で返して欲しい。
乱田舞に、SMを全然分かっていないと言われた。分かりません。でも舞台のことなら分かります。私は舞台として観てますから。川上はそう言った。
そんな川上が、2006年3月の興行を最後のSM興行とすることに決めた。色んな人から批判を受けた。
「やっぱりどっかで一回区切りをつけなきゃだめなんだなってことなんです。半年に一回ずつやってたわけですよね。行き詰まってるのは事実なんです。参加する人にとっても、なんだ簡単に出れるじゃんって。別に審査があるわけじゃないでしょ。女のコのペアだと4、5万円のギャラを出してますので、やっぱり稼ぎに来るって感覚のコもいますから。自分のなかで考えてる、新しい、こうゆう舞台がやりたいっていう人たちに、そういう場を作ってあげたいなと思ったんですけど」
踊り子たちは、現代の多様化する風俗産業のなかであえて劇場の舞台に載ることを選んでいる。川上はSM業界の出演者たちも同じ気持ちだと思っていた。
「あとはギャラの問題ですよね。明智さんにも言われたけど、自分には営業の値段があるんですと。でも何とか泣いてくれないかってお願いしました。でも結局、川上は自分の価値観を分かってくれない、そう思われちゃった人もいます。だから一回ご破算にして、このあと皆がどう考えてくれるのかとかね、そしてファイナルってことでみんなのテンションを上げてもらいたかったんです」
SM興行をやめる理由はそれだけではなかった。去年の9月、動脈性の鼻出血をおこす。6時間経っても鼻血が止まらない。救急車で病院に搬送、その場で手術。幸いなことに大事には至らなかった。
「そのときにね、ああ、肉体的にも精神的にも本当にギリギリのところに来てるんだなと。それでファイナルにしようと思ったんだ」
ジョウジ川上、55歳。
これを機に酒をやめた。やめたくてやめたくて、でもやめられなかった酒だった。最初の2カ月は禁断症状が続いたが、懸命に耐え忍んだ。彼にはまだ、やらなければいけないことがあったのだから。
ジョウジ川上55歳の決意 【5】に続く >> 【5】へ
インタビューTOP
写真=川上譲治 文=編集部・五十嵐彰
※この記事は『S&Mスナイパー』2006年6月号に掲載された記事の再掲です。