Monthly Column "Green is located next to us".
日本は雨量に恵まれた国である。気候も概して温暖だ。ゆえに、私たちの身の回りは緑、ミドリ、みどりで溢れかえっている。
思い浮かべて欲しい。あなたが今日、自宅を出て駅に辿り着くまでのわずかの間にも、実に多様な植物を見かけているはずだ。
お隣の庭木、街路樹、路傍の雑草......名前は分からなくとも、きっと両手両足の指で足りない種類のみどりを目にしているはずだ。
この連載では、それらのごく身近な植物に少しだけスポットを当ててみようと考えている。明日からの生活の中で、あなたがとなりのみどりに少し興味を持つようになれば、本稿のささやかなもくろみは成就する。
第四回となる今回は、真冬に鮮やかな花を咲かせる常緑樹・ツバキを取り上げる。日本人が愛し、切り尽くし、そして育てたこの植物は、ヨーロッパ人にも広く受け容れられた。
それでは、となりのみどりを巡る旅に、しばしお付き合い頂ければ幸いである。
冬になり、気温が下がると、あれほど盛んに生い茂っていた雑草たちは一様に茶色く枯れ、越年草のロゼットを地表に残して、その勢力をほとんど失ってしまう。
しかし、霜が降り、雪が積もるような厳しい冬の季節──夏場より40度近く気温が下がる時期でも、常緑のまま耐える植物は多くある。
ツバキはその中の一種であり、われわれ日本人にとっても実になじみ深い植物である。
ツバキ属に分類される品種は、現在250種類ほどが知られているようだが、これらの原産地は東アジアから東南アジア・ヒマラヤにかけての地域である。ヨーロッパに持ち込まれたのは18世紀と新しいが、アジアにおいては人間と古い歴史がある。
紀元前三世紀の中国で成立した『荘子(そうじ)』の逍遥游(しょうようゆう)篇には「上古有大椿者、以八千歳為春、八千歳為秋」とある。遙か昔に巨大な椿の木があったが、この椿にとっては8000年が春で、8000年が秋であった、という。
黄老思想と紐づいた一節で、その意図するところを完全に汲み取るのは難しいが、成長が遅く、寿命の長いツバキ属の特性は、既に知られていたものと考えていいだろう。黄老の徒が好みそうな特性でもある。
もう少し時代が下ると「松椿」と熟して用いられる例も出現する。冬場も青い葉を茂らせ、長くその生を保つ二木に共通性が見出されたのだろう。
■我が国古代におけるツバキ
ツバキ属ツバキは日本原産といわれる。園芸品種には中国渡来のものもあるが、我が国では、かなり昔からツバキとの付き合いがあったのである。
ただ、椿の字があてられるのは後のことで、古くは「海石榴」の字があてられていた(他の字をあてることもある)。
『万葉集』や『日本書紀』に言及される海石榴市は、現在の奈良県桜井市金屋あたりに比定される。当時の交通の要衝で、市があったわけだが、「海石榴」と冠されているからには、ツバキの木があったのだろう。
『日本書紀』には天武天皇5年にこのような記事もある。「夏四月戊戌朔辛丑、祭龍田風神・廣瀬大忌神。倭國添下郡鰐積吉事、貢瑞鶏。其冠、似海石榴華」。つまり、ツバキの花のような鶏冠を持つ鶏が、瑞祥(ずいしょう)として献上された、というものである。
現在我々がツバキと聞いて想像するもののひとつに、ツバキ油の利用があるが、これも嘗ては「海石榴油」であった。『続日本紀』には光仁天皇の宝亀八年(777年)に渤海使が来朝し「海石榴油」を求めた、とある。どうやら当時の渤海国では、ツバキ油が貴重なものであったらしい。
なお、海石榴市に関する興味深い地名起源説話が『日本書紀』に記されている。12代景行(けいこう)天皇の12年、熊襲(くまそ)が背いたため、景行は九州への征討を行なう。その年の10月、豊後の碩田(おおきだ、大分市)に至り、熊襲同様に服従しなかった土蜘蛛(つちぐも)を攻める。
その際、景行は「則採海石榴樹、作椎爲兵」、つまり、ツバキで槌を作らせた。このツバキの槌で一行は土蜘蛛を破り、その一党を殺した。くるぶしまで浸かるほどの血が流れた、とある。
問題はそのあとである。「故時人其作海石榴椎之處、曰海石榴市」、要するにこの故事にちなんでその場所を海石榴市と名付けたというのだが、これは豊後の話であり、どう考えても場所的な齟齬がある。何らかの編集上の問題で、大和の海石榴市に関わる説話がここに挿入されたのかもしれない。
ともあれ、古代においてツバキ材が利用されていた傍証になるだろう。熊野や新潟にはツバキの槌が化けるという伝承が残っているが、これもツバキ材が盛んに使われた時代があったことの残滓であろう。
なお、現在では、ツバキの大木は日本列島に殆ど存在しない。ツバキ材が硬く、すり減りにくいことから盛んに利用され、結果として古木は失われてしまったのである。
われわれの祖先がツバキを愛したことは間違いないが、争って切り倒したことも覚えておくべきだろう。
■江戸のツバキブーム
長い戦乱の時代が終わり、江戸の泰平が拓かれると、大名や富裕な商人たちの間では造園ブームが巻き起こる。
庶民の間にも鉢植えを愛でる文化が広がり、一大園芸ブームが訪れる。江戸っ子たちは奇態な植物をありがたがったりもし、その中で外来植物のシロツメクサなども広まっていくのだが、それはまた別の機会に語ることにしよう。
さて、ツバキである。
造園ブームの起きた江戸初期には、すでにツバキの収集家が存在したようである。その中でも特筆すべき人物に、安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)という人物がいる。
策伝は落語の祖ともいわれる僧で、京都所司代・板倉重宗の請いで『醒酔笑』(せいすいしょう)とい笑話集を著した。例えば、現在スタンダードとして知られる「平林」も「推は違うた」というタイトルでこの笑話集に収録されている。因みに、策伝の俗名は平林平太夫という。
この安楽庵策伝、文人・茶人としても高名で、実に多彩な活躍をした人物である。江戸にはこの手の意味不明なほどに多彩な人物が多く、時にうんざりもするのだが、策伝が著した書物の一つに『百椿集』(ひゃくちんしゅう)というものがある。
読んで字のごとく、ツバキの図鑑である。江戸時代には植物図鑑も多く作られたが、『百椿集』は1630年という江戸初期の著作であり、一種類に焦点して作られたものとしてはかなり早い時期のものである。
策伝の趣味人としての優秀さとともに、ツバキがいかに愛されていたのかが分かろうというものである。
なお、策伝より少し遡る慶長の終わり頃、江戸では徳川秀忠の庇護の元、吹上御殿に多くの花々が集められた。この中にも多品種のツバキがあり、ツバキの愛好家たちが多く現われる。後水尾(ごみずのお)天皇もツバキを愛好したが、秀忠の娘を中宮に迎えたことと無関係ではないだろう。京にいた策伝がツバキに興味を示したのも、元はと言えば将軍家のツバキびいきに端を発していたのかもしれない。
この後、江戸時代を通じてツバキは多くの園芸品種が作り出される。茶の湯との結びつきもあり、大名家や裕福な町人たちも盛んに栽培を行なった。
■ヨーロッパにおけるツバキ
ツバキをはじめてヨーロッパに紹介した人物は、オランダ商館に医師として勤務していたケンペルであると言われている。これは17世紀のことで、日本国内のツバキブームは出島にいたケンペルが触れるほどに加熱したものだったのだろう。
ただし、ケンペルは著書で紹介しただけであって、実際にツバキがヨーロッパに持ち込まれるのは18世紀、流行は更にくだって19世紀になってからのことであるという。
18世紀後半以降のヨーロッパでは、イギリスを中心とした列強のプラントハンターが、世界各地から植物を持ち帰り、それを園芸会社が高値で取引するということが盛んに行なわれていた。有用植物・観葉植物を問わず、膨大な品種がヨーロッパに紹介されていく。
例えば、著名な「ヒマラヤの青いケシ」を持ち帰ったフランク・キングドン=ウォードもイギリスのプラントハンターであったし、ペリーの艦隊にもプラントハンターが乗り込んでいた。
ともあれ、そのような世情の中で、東洋からもたらされたツバキは園芸植物として広まっていった。
アレクサンドル・デュマ・フィスの小説『椿姫』で、ツバキは重要な小道具として登場するが、それもヨーロッパでのツバキの受容が背景となっている。
『椿姫』において、高級娼婦マルグリットは、普段は胸に白いツバキの花を、生理期間中は紅いツバキをつけていたという。ツバキは、ここでは女性の性、そして血(経血)の象徴となっている。
話が飛ぶが、これは我が国の漫画表現にも通低する例が見られる。先述の景行天皇の説話も血なまぐさい内容であったが、いつの頃からか、その花の紅さは、女性と特に結びつくものとなったようである。
つげ義春の「紅い花」の末尾において、初潮の暗喩として描かれているのは実に印象的である。また、高橋留美子作品では、性的なシーンにツバキの花が落ちる様子がしばしば描かれる。この2例は特に著名であるから、ご存知の方も多いかと思われる。
■落椿
この、ツバキが散るシーンで重要なのが、その花が花弁ごとに散らずに、そのままぽとりと落ちる点である。
これは、同じツバキ属のサザンカとツバキを見分けるポイントでもあるのだが(一部の園芸品種ではサザンカのように花弁が一枚ずつ散る)、特に「落椿(らくちん)」という語がある。
ツバキのもっとも趣のある特徴のひとつであり、その特徴を持たないサザンカが、ツバキ属でありながらツバキと呼ばれない所以もこのあたりにあるのではないかと思えてくる。
しかしながら、この趣ある「落椿」は、縁起が悪いものともされるようである。戦場で命のやり取りをし、いつ首が落ちるか分からなかった武士たちが愛でたにもかかわらず、近代以降には「首から落ちて縁起が悪い」とされるようになった。「落椿」に命の散る様を重ねあわせるようになったのであろう。
正倉院にはツバキの枝で作られた卯杖(うじょう:魔除けに用いる呪具)が納められており、景行天皇の故事からも、魔を払い、敵を打ち破る力を持つとされていたことは明白である。
また、縷々述べてきたように、江戸期には風流なものであった。
それが、江戸末期以降には縁起が悪いものとみなされるようになる。いっぽうで、茶席などではいまだに用いられるし、ツバキ油を化粧品などに利用するのは定着した観がある。日本人のツバキ観は複雑化していると言って良いだろう。
私自身の感性もまた、複雑である。『椿姫』の高級娼婦マルグリットのモデル、マリー・デュプレシはツバキの花がぽとりと落ちるように、24歳で亡くなったが、確かに「落椿」は、佳人の命が散る様としても受け取ることができるようである。
■万葉集のツバキ
『万葉集』には、ツバキを歌った歌が、9首収められている。その花の美しさを詠んだものが大半だが、中には以下のようなものもある。
わが門(かど)の 片山椿 まこと汝(なれ) わが手触れなな 地(つち)に落ちかも
物部広足(もののべのひろたり)は、武蔵国荏原郡(現在の東京都品川区)から、はるばる筑紫(福岡県)まで、防人(さきもり)として派遣された農民である。この歌は一般的に、故郷に残してきた恋人(或いは新妻)が、自分がいないうちに他の男に寝取られてしまうことを憂えた歌、と解されているようである。
物部広足
しかし、私は「落椿」と重ねて解したい。自分の家(わが門)の側の、丘の上(片山)に咲く椿の花のごとく可憐な恋人(もしくは思い人)に向けて、その美しさが、自分が防人としてつとめる間に衰えてしまわぬように、という意味には読めぬであろうか。
防人の任期は3年とされたが、延長されることもしばしばであった。広足は勿論そのことも重々承知であったろう。つまり、早く無事に防人の任期が終わって故郷に戻りたい──そのような望郷の気持ちと、残してきた思い人への恋情、そして更に深読みするならば、自分が戻るまで彼女に達者でいて欲しいという祈りまで込められているのではなかろうか。
果たして広足は、無事にツバキの如き可憐な女性の待つ故郷に、帰り着くことができたのだろうか。
となりのみどり 第4回:ツバキ 了
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14.03.13更新 |
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