Monthly Column "Green is located next to us".
日本は雨量に恵まれた国である。気候も概して温暖だ。ゆえに、私たちの身の回りは緑、ミドリ、みどりで溢れかえっている。
思い浮かべて欲しい。あなたが今日、自宅を出て駅に辿り着くまでのわずかの間にも、実に多様な植物を見かけているはずだ。
お隣の庭木、街路樹、路傍の雑草......名前は分からなくとも、きっと両手両足の指で足りない種類のみどりを目にしているはずだ。
この連載では、それらのごく身近な植物に少しだけスポットを当ててみようと考えている。明日からの生活の中で、あなたがとなりのみどりに少し興味を持つようになれば、本稿のささやかなもくろみは成就する。
第五回となる今回は、日本食に欠かせない食材を提供し、花でも目を楽しませてくれる樹木・ウメに焦点を当てようと考える。あまりに身近すぎて、その実を食すことについて我々は普段違和感など持たないが、今一度考えてみると、他に長期保存可能な状態にしてまで日常的に利用する果実などあるだろうか?
それでは、となりのみどりを巡る旅に、しばしお付き合い頂ければ幸いである。
■ウメをことさらに愛した時代があった
東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
菅原道真
この著名な歌は、延喜元年(901年)、藤原時平との政争に敗れた道真が太宰府に左遷される時に詠んだものと伝わる。
住み慣れた京を離れ、僻地に赴く彼の心情が、日々親しんだ庭木への哀切となってにじみ出るような秀歌である。
この歌にもあるように、ウメの花はかつて、春の訪れを告げる事象のひとつであった。
現在では、その役目をサクラ、特にソメイヨシノに奪われてしまっているが、どうやら我々の先祖はある時代において、サクラよりもウメのほうが好きであったらしい。
今回は、今はサクラの影に隠れているようにも見える、ウメを訪ねるものである。
しかし、本稿ではサクラを殊更にけなすようなことは書かぬようにしたい。「サクラは明治以降、国策によって浸透したものであり、それは作られたものである」というような議論は、時に政治的な活動とも結びついて活発に行なわれるし、一面の真理は含んでいる(実際は平安頃からサクラの地位が向上していくようである)。
しかし、敗戦後70年を経た現在でも、我々はサクラを愛するし、歴史的過程を解き明かすことは重要だが、特段にサクラの美しさを否定したり、サクラが好きな自分、或いは桜餅が好きな自分などを卑下することはない。私もサクラや桜餅は好きだ。
それに、先述の菅原道真もウメと同様、庭に植わっていたサクラやマツも愛した。故に、我々は花見だって堂々とすればよいのである。
■『万葉集』におけるウメ
出だしから、話が横道に逸れかけてしまった。引き戻して、ウメについてみていくことにしよう。
ウメはバラ科サクラ属に属する。その原産地は中国であると言われる。我が国に渡来したのがいつ頃のことかははっきりしない。
文政10年(1827)の成立である(刊行は明治になってから)、狩谷エキ斎(かのやえきさい、「エキ」は木偏に夜)の『箋中倭名類聚抄』(『倭名類聚抄』の注釈書)には「皇国古くは梅なし。ゆえに古事記、日本書紀に皆是物なし。後に西土より之を致す」とあり、これを元に奈良時代の渡来説が唱えられてきた。
しかし、その後に西国の弥生遺跡から梅の種子が出土するようになり、上述の説は揺らいでいる。
実際のところ、何事においても我が国への渡来・伝来というのは、一度きりと考えるのではなく、数次に及び、段階的に普及していったと考えるべきであろう。それに、伝来と普及はまた別である。これは他の渡来植物や馬、あるいは仏教や漢字、製鉄技術などを論じるひとびとにも見られる考え方である。
しかしながら、ウメが少なくとも弥生時代の終わり頃には(恐らく中国でそうであったように薬種として)移入されたこと、奈良時代に貴族を中心にその花を愛でる文化が広まったこと、この二つはある程度信用してもよかろう。
我が国最古の歌集である『万葉集』は4500首あまりの歌を収めるが、この中でウメが登場するものは118首あるという。全体の2.6%をウメに関する歌が占めていることになる。
植物の登場しない歌も多いから、万葉の時代におけるウメの存在感は非常に大きいものであったと言って良いだろう。なお、サクラが詠まれた歌はもっと少ない。これをもって、古くはサクラよりウメが支持された、という向きもあろうが、たまたま普及から日が浅いウメが、『万葉集』に採録された歌が詠まれた時代おいて流行していただけの可能性もある。
また、後に述べる「梅花の宴」関連の歌が、ウメの比率を押し上げているが、この宴のそのものに中国大陸の文化からの影響を重視する向きもある。
さて、ウメを詠んだ歌に話を戻す。流石に118首もあれば、秀歌と言ってよいようなものも多いが、ここでは素朴な味わいのある次の歌をあげたい。
山高み 降り来る雪を 梅の花 散りかも来ると 思ひつるかも
詠み人知らず
意味は、「山が高く、降ってくる雪を、梅の花が散り落ちてきたのかと思ってしまいました」というほどである。
この時代、まだ紅梅は伝来しておらず、ウメと言えば白梅である。雪に喩える歌は他にも何首かある。
■曹操とウメ
ウメの果実は、特有の甘酸っぱい匂いがある。
熟したものでも、生食すると現代人には酸っぱいのだが、それはそれで趣のある味だとも今では思う。
小さい頃、近所の空き地にウメの木があった。ウメの実が熟する6月頃になると、実にいい匂いがするのだが、齧るとやはり酸っぱい。
しかし、そんな酸っぱい梅でも、匂いに惹かれてカナブンなどがやってくるので、私たち子供はよくそれを捕えて遊んだものである。
酸っぱい梅の果実に関わる挿話をひとつ。
『三国志演義』において、曹操が喉の渇きを訴える兵士たちを、「この先に梅林がある」と言って行軍させるというとんち話のような逸話がある。
これは勿論、正史『三国志』にはなく、『世説新語』(せせつしんご)という小説集が元ネタである。
魏武(魏の武帝=曹操)、行役して汲道(水をくみに行く道)を失うこと有り。三軍皆渇く。及ち令して曰く、前に大なる梅林有り。子(梅の実)、饒(ゆたか、多くある)にして、甘酸なり。以て
えを解くべし、と。土卒これを聞き、口に皆水を出し、これに乗じて前源(先にある水源)に及ぶを得たり。
この逸話は史実とは認めがたいだろうが、『世説新語』が編纂された南朝宋の頃の風俗を反映していると考えることは可能だろう。
南朝宋は日本では仁徳系の大王の時代、つまり、大陸に盛んに使節を送ったことで知られる倭の五王の時代に当たる。「梅の実」と聞くと、口内に唾が湧く感覚を、当時の中国の人々は持っており、倭国はその国と盛んに通行していた。文化や技術、植物がもたらされる過程で、いつしか倭国の人々も「梅の実」と聞けば口内に唾が湧くようになっていったのであろう。
なお現在、ウメの品種は300種ほどあると言われている。地域性のある細かな栽培品種がこの母数をもたらしている。多くは果実を利用するために、近縁のアンズ等と交配させ、大きな実を結ぶように品種改良されたものである(自然交配したものが品種として固定化されることもあっただろう)。
『世説新語』の編者・劉義慶が想定していた梅は、「甘酸」とあるし、「大梅林」ともある。すでにある程度栽培化が進み、品種改良も試みられていたのかもしれない。
■武家とウメ
本邦に舞台を移し、中世におけるウメに関する記録をひとつ紹介しよう。
南北朝時代の1352年(正平7年/文和元年)閏2月から3月にかけ、北朝方の内紛に付け入る形で南朝勢力が蜂起する。
南朝の大立物・北畠親房(きたばたけちかふさ)の作戦立案により、上野や信濃で蜂起した南朝勢は閏2月18日に鎌倉を一旦占領し、閏2月20日に足利尊氏の軍と大規模な合戦が行なわれる。
この一連の軍事的衝突を武蔵野合戦という。
三陣には花一揆、命鶴を大将として六千余騎、萌黄・火威・紫糸・卯の花の妻取たる鎧に薄紅の笠符をつけ、梅花一枝折て甲の真甲に差たれば、四方の嵐の吹度に鎧の袖や匂ふらん。(『太平記』武蔵野合戦事)
尊氏の近臣である饗庭命鶴丸(あえばみょうつるまる、のちの氏直)を大将とする「花一揆」なる部隊が、総勢6000騎あまりもの大軍を率いて参陣している。
また、ウメを一枝手折り、それを兜に差したとある。命鶴丸は「容貌当代無双の児」ともあるから、さぞかし美々しい軍団であったのだろう。
なお、命鶴丸は歌人としても知られ、『新後拾遺和歌集』に彼の歌が残る。ウメを一枝兜にあしらったのは、彼の風流人としての発案だったのかも知れない。武蔵野合戦は激戦が予想されていたと思われる。命鶴丸は何を思ってウメの花を手折ったのだろう。
なお、閏2月20日の合戦は痛み分けに終わったものの、体勢を立て直した足利尊氏により、関東の南朝勢力は撃破されることになる。
■馬王堆の梅干
ウメと聞いた時に思い出す食品と言えば、まずは梅干であろう。
梅干といえば現在では赤シソで漬けたものが一般的に想起されると思うが、赤シソを使わない製法のほうが古い。赤シソを用いる製法が一般化したのは江戸時代のことという。他に、鰹節やはちみつを用いて漬けるものもある。
また、梅干は、漬けた後に天日で干すことからそう呼ばれており、干さない場合は梅漬けと呼ばれたりもする。私の実家でも梅干を漬けていたが(赤シソを用いている)、日干しにしないので正確には梅漬けと呼ぶべきなのかもしれない。
梅干の歴史は古い。実は、2世紀に活躍した曹操よりもずっと以前の時代から食されていたと思われるのだ。その確実な例に、中国は湖南省長沙市の馬王堆(まおうたい)漢墓がある。
馬王堆漢墓は、前漢の初期に、諸侯国である長沙国の丞相を務めた利蒼(りそう)とその妻子を葬ったものである。この漢墓は1972年の発見時より、その豪華な副葬品と豊富な文字史料、そして一号墓に葬られた利蒼夫人・辛追(しんつい、辛が姓かどうかは未詳)の生けるが如き遺体(湿屍、と呼ばれる特殊な状態にあった)があいまって、大きなニュースとなった。
さて、辛追夫人の葬られていた一号墓より、梅干と思しきものが出土している。
元栂(梅)二資其一楊栂(梅)
整理班によって一三九番が振られた遣策(つけ札)にはこのようにある。133,229号の硬質土器のかめに入っていたウメ、ヤマモモの種と対応すると見られ、意味としては「加工を施したウメの実が二はい。うちひとつはヤマモモ」といった具合になろう。
他にも、一号墓からは「竹串に刺し、竹のすのこに挟んだ干しウメ」「行李一杯の干しウメ」などが出土し、それぞれ遣策と対応している。なかでも、最初にあげた例は、梅干の原初的な形態と疑うに充分である。
辛追夫人の夫である利蒼は、前186年に没している。この夫妻はほぼ、項羽や劉邦の同時代人と言っていいだろう。前2世紀にはすでに、中国の人々は梅干を食べていたのである。
■工業用の需要があった梅酢
前項で梅干の話をしたが、実は梅干は、もともとそれを目的として作られたものではなかったらしい。
市販の梅干を買った際に、容器の底に水分が少し溜まっている場合があると思う。これを梅酢といい、本来、梅干は梅酢を作った後の搾りかすであったといわれる(薬として、煎じて飲んだりしていたようだ)。酢と名がついているが、発酵過程は経ていない。
さて、梅酢は極めて酸味が強い。この正体はクエン酸である。本来の梅酢は赤シソを用いていないから、色は透明であっただろう。
この透明の、極めて酸味の強い液体は、傷口の消毒などにも用いられた。焼酎などのアルコール度数が高い酒と同じような用い方である。
また、金属器の皮膜酸化処理などにより多く用いられたと思われる。古代中国の冶金技術は相当に高度なものだが、裏では梅酢がその一翼を担っていた。つまり、梅酢は工業用に大量に必要とされたのである。
或いは、先述の『世説新語』で登場する梅林も、そのような工業用の需要を見込んで経営されていたのかもしれない。
青酸が登場してから、工業用に梅酢を用いることはほぼなくなった。
しかし、現在でも思わぬ使われ方をしている。
春先に、桜餅とともにいただくことのある桜湯である。桜湯はサクラの花の塩漬け(桜漬け)に湯を注いだものだが、実は単なる塩漬けではなく、梅酢も用いられているのである。
サクラとウメは、こんなところでちゃんとコラボレーションしていたのであった。
■我が家の梅酒
我が国に於いて、果実酒の代名詞となっているのが梅酒である。
最近では、どんな居酒屋に入っても、大抵は二、三種の梅酒が置いてあるようになった。日本人の嗜好が変わったのか、平成に入ってからの20年ほどで、消費量は25倍にもなっているという(日本洋酒酒造組合の統計による)。
減ってはいるだろうが、各家庭で作られる梅酒も合わせれば、日本人は相当な量の梅酒を飲んでいることになる。
私も最近の日本人の例に漏れず、梅酒が好きである。
学生時代に、酒販店が経営している居酒屋でアルバイトをしていたことがある。その店では、30年ものの梅酒というのがメニューにあった。
店の冷蔵庫の中に入っている大瓶には、養命酒のような褐色の液体が満ち満ちている。底のほうに梅があるが、もうしわくちゃで真っ黒、そしてカチカチになっている。
なかなか梅酒のイメージとかけ離れた見た目ではあるのだが、これが実に旨い。果実の青さ、特有の酸味はほとんど消え、熟成された深みと、まろやかな口当たりに、何杯でも飲めてしまう。
自宅でも梅酒を仕込むが、なかなかそのような深みが出るまで熟成させるのは難しい。
いま、我が家にある梅酒は4年ものだが、残念ながら、全部がそうというわけではない。注ぎ足しながら飲んでいるので、本当は2.5年ものくらいであろう。
30年ものへの道は、なかなかに遠いのであった。
■梅花の宴
太宰府に左遷された菅原道真は、ついに都に戻ることなく、その地にて没した。道真の死後、都に相次いだ凶事と、彼を祟り神として祀る動きについては、読者諸賢も先刻承知の通りである。
さて、道真の死より百数十年前。同じく太宰府では、ある宴会が催された。
主催者は『万葉集』を最終的にまとめたと目される大伴家持(おおとものやかもち)の父・旅人(たびと)。列席者は紀男人(きのおひと)や山上憶良(やまのうえのおくら)など錚々たる顔ぶれである。これに加え、九州各国の官吏たちが参加していた。
宮中の新年の宴に模したと言われるこの宴会を、「梅花の宴」という。
メニューは実に豪華で、種類や調理法も数多く、当時の食文化の豊かさ(これは『万葉集』を読んでいて驚かされることのひとつである)を知ることができる。
鯛・イカ・つのまた・わかめ・大根・わさびを使った「なます」。干物をとっても、サケ・シカ・キジを惜しみなく使っている。古代のチーズであるところの「蘇」(そ)。デザートには、以前紹介した「あまづら」を使った芋粥も見える。
再現されたものの写真を見る限り、これをいま和食のコースメニューとして食べれば、素材の値段だけで1万円は超えるのではないか、という気がしてくる。
さらにメニューを仔細に見ると、その中に酒肴として「百合根の梅肉和え」があった。
きちんとウメに関連づけたメニューを入れているところなど、主人・旅人と腕を振るった料理人の心憎いところであるが、ここではウメの果実が梅肉に加工されている。もちろん、ウメは塩漬けであったろう。つまり、我が国でもこの頃には梅干が渡来していたようである。
この時にも多くの歌が詠まれたが、一首紹介して結びとしたい。
鴬の 待ちかてにせし 梅が花 散らずありこそ 思ふ子がため
門氏石足(もんじのいそたり)
門氏石足は官吏で、身分は筑前拯。地方の実務官僚であると思えばよかろう。
歌の意味は「うぐいすが(咲くのを)待ちかねていた梅の花よ、どうか散らないでくれ、(私が)想うあの子のために」というほどのものである。
素朴なよい歌だが、情景を想い描いてみて、何か気付くことはないだろうか?
梅にうぐいす。そう、花札の絵柄である。『万葉集』には他にも数種、梅にうぐいすの取り合わせが見える。
となりのみどり 第5回:ウメ 了
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14.07.19更新 |
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