Monthly Column "Green is located next to us".
日本は雨量に恵まれた国である。気候も概して温暖だ。ゆえに、私たちの身の回りは緑、ミドリ、みどりで溢れかえっている。
思い浮かべて欲しい。あなたが今日、自宅を出て駅に辿り着くまでのわずかの間にも、実に多様な植物を見かけているはずだ。
お隣の庭木、街路樹、路傍の雑草......名前は分からなくとも、きっと両手両足の指で足りない種類のみどりを目にしているはずだ。
この連載では、それらのごく身近な植物に少しだけスポットを当ててみようと考えている。明日からの生活の中で、あなたがとなりのみどりに少し興味を持つようになれば、本稿のささやかなもくろみは成就する。
第六回となる今回は、救荒作物として導入されて以降、その美味と生産性の高さで日本人の食卓に寄り添うようになった作物・サツマイモをとりあげたい。
サツマイモをめぐる挿話には魅力的なものも数多いので、できる限りそれらにも紙幅を割いた。よって、はじめての前後篇でのお届けとなった。
それでは、となりのみどりを巡る旅に、しばしお付き合い頂ければ幸いである。
今では我々の食卓になじみ深いものとなっているサツマイモだが、その日本への伝来は案外新しく、恐らくは江戸期に入ってからのことであると考えられている。
この連載では、今までこれほど伝来の新しい植物はとりあげていなかったが、江戸期に伝来した品種というのも案外多い。インゲンやシロツメクサなどもそうである。伝来が新しいものほど、その栽培がはじまった頃の資料が豊富であるから、今回はそのあたりも詳しく書いていければと思う次第である。
さて、伝来に触れる前に、サツマイモの特徴と原産地を申し述べておきたい。
サツマイモはヒルガオ科に属す、つる性の植物である。本州では気候のせいであまり見ることはないが、熱帯地域ではアサガオに似た花を咲かせる。
根の一部がイモとなる(塊根)ため、主にその部分が利用される(後述するが、つるの部分も食用可能である)。
現在、全世界で三番目に生産量が多いイモ類であり(一位はジャガイモ、二位はキャッサバである)、なんと6500種の栽培品種があると言われているが、当然ながら正確に把握することは困難である。
その食物としての特質は、なんと言っても豊富な澱粉と糖質、そして特徴的な黄色のもとになっているベータカロチン類であろう。美味かつ、滋養に富むというわけである。
また、茎を差すことで不定根が発達して芋(地下茎の肥大したもの)をなすため、栽培がしやすい。暑い土地で、水が少なくとも良く育つため、救荒作物として重宝され、それが伝播に一役買ったという歴史がある。
もともと、サツマイモの原産地については二つの説があった。
中南米説とヨーロッパ説である。ヨーロッパ説は根拠に乏しく有力ではなかったのだが、さりとて中南米説も決め手がないという時期が長く続いたようである。
この原産地をめぐる問題に結論をもたらす発見が1955年にあった。京都大学大学食糧科学研究所の西山市三が、メキシコにおいてサツマイモの祖先種と思しき野生種を発見したのである。
この野生種はイポメア・トリフィーダと名付けられ、その後の研究でサツマイモの祖先であることが確かめられた。南米原産ということで結論を見たわけである。
なお、この種はイモができないようであるから、現在のような形のサツマイモは、変異種などをある時期に人類が利用しはじめ、それによって栽培種として固定化していったものだろう。
■サツマイモを世界に運んだ二つの波
南太平洋の人々は、古くから優れた航海技術を持っていた。
数千キロ離れた島々にまで往来し、その足跡は現在でも巨石を用いた遺跡や、風俗の類似となって残っている。
それがムー大陸などの誇大妄想をも生むのだが、ヘイエルダールのコンティキ号航海(彼の説は現在では否定されているが、偉大な冒険である)や、以降のより実証的な研究に繋がってゆく。
どうやら、サツマイモも最初は彼らによって運ばれていたらしい。
たとえば、ニュージーランドには、すでに10世紀には伝来していたようである。当地ではクマラと呼ばれることから、この伝播ルートにはクマラ・ルートという名がつけられた。すなわち、マルケサス諸島、イースター島、ポリネシア、メラネシア、ニューギニアなどがこのルートで伝わった地域に当たる。
ヨーロッパ人が世界の海を牛耳る以前に、サツマイモは人の手によって太平洋を渡っていたのである。サツマイモを世界に広めた、ひとつ目の波と評価できるだろう。
サツマイモの伝播ルートには、カモテ・ルートというものもある。二つ目の波である。
こちらは大航海時代以降のスペイン人によるもので、カモテというのは南米に於けるサツマイモの呼称である。スペイン人たちは、メキシコからハワイ、そしてハワイからフィリピンへサツマイモを運んだ。
また、大西洋を渡ってヨーロッパを経由し、さらに喜望峰を回ってインドに到達するという、随分大回りをしたルートもあったようである。
ともあれ、1492年以降、ヨーロッパ人によってさらにサツマイモは世界中に広められた。大航海時代の波は、宗教や政治、経済的な面からも戦国時代江戸初期の日本に多大な影響を及ぼしたが、サツマイモもまた、その大きな潮流に乗って、日本列島に接近しつつあった。
■中国への伝来 陳振龍、ルソンでイモのつるを盗む
当時の日本(琉球・北海道を含まない)への伝来以前に、中国や琉球ではサツマイモの栽培がはじまっていた。特に早いのは、やはり中国においてであった。
まずは、唐(中国)の文献から、漢字文化圏でサツマイモが認識されはじめた頃の様相を確かめておこう。
日本の南方に位置する海域は、古来海民たちが活躍した世界である。海民の世界には国境はなく、国籍の別なく、多くの海の民たちが漁業や交易、あるいは略奪のために往来していた。
16世紀の後半、フィリピンのマニラには多数の福建人が交易のために訪れていた。?人(びんひと)とも呼ばれる彼らが、はじめて中国に本格的にサツマイモを持ち込んだようである。
萬歴22(1594)年、陳振龍なる?人の商人がサツマイモのつるを持ち帰って栽培し、採れたイモを巡撫(地方官の官名)に献じた。そして、その後救荒作物として広まったという挿話がある(このころは朱藷、金藷、蕃藷などと呼ばれていたようだ)。
この陳振龍、いわゆる現在イメージするところの「商人」では恐らくなく、時には非合法なこともする、逞しく強かな海の男であっただろう。彼は金を払って貰い受けたわけではなく、密かにイモのつるを切り取って持ち帰ったのだと言う。
陳振龍がルソンでイモのつるを盗んだ翌々年、李時珍の『本草綱目』が刊行される。この書は所謂百科事典であるが、なんとすでに甘藷が項目として立てられている。が、李時珍自身は実物を目にする機会がなかったのだろう、オリジナルの文章はなく、祈暢の『異物志』を引いている。
それによると「交、廣の南方に産す」とあるから、或いは陳振龍よりももう少し早い時期から移入が進んでいたものかも知れない。
ともあれ、このようにして16世紀末には中国南方でサツマイモの栽培がはじまり、それは情報としては北京にも伝わっていた。
■琉球への伝来 今でも顕彰される儀間眞常
尚氏の治める琉球へは、福建から伝来したようである。
時に1605年(明の萬歴33年、日本では慶長10年)、現在の嘉手納近くにあった野国村の総管が、鉢植えのサツマイモを福建から持ち帰ったのが最初であるという。
当時、尚氏琉球は中国明朝の朝貢国であった(薩摩藩の琉球侵攻は1609年)。両国間には朝貢貿易が行なわれており、総管というのはその事務長のようなものである(残念ながら、この総管の確かな本名は伝わらない)。
いったい、朝貢貿易というものは、宗主国側が何倍もの手土産を持たせて返すものである(卑弥呼が銅鏡を100枚も貰ったのを思い出して頂ければイメージできるだろうか)が、その中に当時まだ琉球では知られていなかったサツマイモの鉢植えがあったわけである。いかにも中華王朝らしい、上から目線かつ気の利いた手土産である。
さて、このサツマイモに目を付けた男がいた。彼の名は儀間眞常(ぎましんじょう)。儀間氏は唐名を麻といい、儀間眞常は麻平衡(まへいこう)とも名乗っていた。古琉球時代の按司の血を引く、古い親方の家系である。
眞常は37歳で家を継いだが、サツマイモに目を付けたのは48歳の時である。彼は礼を尽くして苗を野国総管から分けてもらうと、自らの領地で数年栽培に励んだ。7、8年後、たまたま大飢饉が起こったが、サツマイモのおかげで飢えるものが出なかったとその伝に言う。
眞常という人物は、他にも多くの業績を持つ大人物であった。1609年の薩摩侵攻により、尚寧王が上国する際にはこれに随行、翌々年の帰国に際しては木綿種を持って帰国し、木綿織を広めた。また、1623年には領地のものを中国へ遣わし、製糖法を学ばせてもいる。
サツマイモ、木綿、製糖は、その後の琉球と薩摩藩にとって大きな産業となった。黒砂糖の専売による利益が、薩摩藩の倒幕資金の一部となったことはよく知られるところである。
しかしながら、儀間眞常の業績としてもっとも讃えられるべきは、やはりサツマイモの移入であろう。当時、推定7万人程度であった琉球の人口は、サツマイモの普及に従って倍以上の20万人へと増えた。そして、琉球から薩摩へと彼の移入したイモは伝播し、やがては日本各地で人々を餓死から救うことになるのである。
1644年、眞常は88歳で大往生を遂げる。
死後も彼の業績は忘れられることはなかった。彼の墓や顕彰碑は今でも嘉手納海岸の近くにある(米軍基地建設によって現在地に移設)し、1885年(明治18年)には明治政府より追賞として金一封が下された。
そして1916年、当時の沖縄学の泰斗、伊波普猷(いはふゆう)と間境名安興(まじきなあんこう)が『琉球の五偉人』を出版する。儀間眞常は、その巻首を飾っている。
■藷殿様(いもとのさま)・種子島久基
いよいよ、待ちに待った日本への伝来である。
薩摩藩の記録によると、最初の伝来は「慶長元和の頃」(1600年代の初頭)で、坊津(枕崎の西)がその受け入れ地になったというが、これは詳細な記録を欠くため、実態は不分明である。ともあれ、我が国で最初に甘藷栽培に乗り出したのが薩摩であったのはほぼ間違いなかろう。
(実はこれに先んじて、リチャード・コックスがウィリアム・アダムスから苗を譲り受け、平戸で栽培を行なっているが、どうもこの系統は普及しなかったらしい。また、日本人が移入して日本人のために栽培したのではないので事情がやや異なる)
さて、九州ではじめて大規模な栽培を行なったのは、種子島の領主・種子島久基であった。
種子島氏は桓武平氏清盛流を称するが、清盛の系統は断絶しているからこれはハッタリで、実際は菊地氏支流の肥後氏の流れを汲むと見られる。とは言え名族であることにかわりはなく、鎌倉中期以降、連綿として種子島の領主であった。
1543年(享禄元年)、種子島氏14代当主・種子島時尭は漂着したポルトガル人商人から、大金を払って火縄銃2丁を買い入れ、これを元に鉄砲製造に成功した。現在ではこれが最も早い例かどうか疑義も呈されているが、人口に膾炙(かいしゃ)した鉄砲伝来の挿話である。
種子島氏はその後、島津氏に臣従し、江戸期を通じて薩摩藩において一万石格の家老として続く。
この時尭より5代あとが、この項の主人公・久基である。
久基は戦国の遺風もほぼ消え去った1664年(寛文4年)に生まれた。1675年に元服し、最初は義時と名乗るが、その後1695年(元禄8年)に伊時と名を改めた(本稿では久基に統一)。
折しもその頃、種子島の財政は極度に逼迫していた(江戸期を通じ、大抵の藩の財政は逼迫しているのだが)。
さらに、翌年には台風の直撃を受け、全島の家屋の大半が倒壊するという甚大な被害を受ける。極め付きに運の悪いことに、台風の翌年は5、6月の2カ月に亘って一滴の雨も降らないという大旱魃となり、農作物は壊滅的な打撃を受けた。
当時、久基はまだ家督を継いでいなかったが、父の久時が国老として薩摩にあったため、種子島の政務は久基が代行していた。どうやら薩摩藩も大変で、久時は種子島に帰らせてもらえなかったらしい。
父に代わって島民の窮状をなんとかしなければならない久基だが、実は彼は兼ねてより琉球の事情を調査させていた。そこで彼の目に留まったのが儀間眞常以来、琉球で広く栽培されるようになっていたサツマイモであった。
美味で主食として優れ、さらにはコメと違って少量の水で生育し、台風でも全滅しない。台風にしばしば襲われ、大きな河川のない種子島にはうってつけの作物であった。久基は早速、琉球王・尚貞に寄贈を要請する。
待ちに待ったサツマイモは、1698年(元禄11年)に到着した。久基は早速、家老の西村権右衛門に命じて栽培に乗り出させる。この大役を権右衛門より命じられたのが、大瀬休左衛門という人物である。休左衛門は製塩業のかたわら農業を営んでいたらしく、苦労の末、栽培を成功させた。休左衛門は久基から厚く報いられたという。
このあたりのエピソードは農史にも記述が多く、これが所謂「日本における甘藷栽培のはじめ」であると賞するものが多い。
久基はその後、国老としての重責を全うし、1741年(寛保元年)に75歳で死去した。領民たちは彼の功績を讃え、久基を祀る祠を建てた。これが現在の栖林(せいりん)神社であるというが、実際は種子島氏23代当主の正室によって建てられたものである。
ともあれ、久基は「藷殿様」として今も親しまれている。
薩摩では久基による移入の8年後に、前田利右衛門も琉球から甘藷を導入している。他の記録を見ても、どうやら17世紀末、薩摩では大いにサツマイモが広まっていったらしいのである。
■非業の死を遂げた甘藷奉行・井戸正朋
薩摩に遅れながらも、日本の他の地域でもサツマイモの導入は進んでいく。面白い事例も数多いが、いちいち書いていてはいったい何万字になってしまうか分かったものではない。涙を飲んで大胆に割愛しつつ、重要なものだけ紹介しよう。
まずは非業の死を遂げた甘藷奉行・井戸正朋(「正明」とする史料もあるが、本稿では「正朋」を採る)からご紹介しよう。
井戸正朋は大和の国衆である井戸氏の庶流であるらしい。井戸家宗家は、筒井順慶が宿敵・松永久秀に完勝した辰市城の戦いの契機を作った井戸良弘らを輩出し、筒井氏改易後は旗本となった。この家系は幕末に江戸北町奉行として日米和親条約の締結に携わった井戸覚弘(さとひろ)などを輩出している。
(余談だが、覚弘はペリーの日記において「背が高くかなり太っていて、駐ロンドン公使ブキャナン(後の米大統領)に似ている」と記されている。興味のある向きはブキャナンを画像検索されたい。さらに余談だが、井戸宗家は「良弘」「覚弘」を交互に名乗るために極めてややこしい)
ともあれ、この項の主役は正朋である。彼はもともと野中家に生まれたが、見込まれて男子のいなかった井戸氏に養子入りする。勤勉につとめ、元禄15年に養父・正和と同じ勘定役となる。その後、河川改修や稲の出来映えの検査などに精励したことから能吏として認められ、享保16年に石見国大森銀山の代官となった。
大森銀山の代官というのは、単に銀山を管理するだけの仕事ではない。そもそも、大森銀山だけでも大変な仕事であるのだが、実は周辺三ヶ国の天領(幕府直轄領)の代官を兼ねている重責なのである。正朋が起用されたのは、実際に彼がかなり優秀な人物だったからであろう。
けれども、この抜擢が彼の人生を暗転させた。
1732年(享保17年)、涼冷多湿のためうんかが大量発生するなど、西国は未曾有の大飢饉に見舞われた。はるばる江戸から任地に赴いた正朋が見たのは、飢饉に喘ぐ民衆の姿であった。
正朋は私財を投じ、または義援金を募るなど様々に策を講じたようだが、努力虚しく窮民たちは餓死寸前となった。ここに於いて、正朋は大胆にも官米を放出し、さらに庄屋が既に上納していた年貢米も全て放出した。
しかし、領民は救われたものの、独断であるとして正朋はその責任を追及され、罷免されてしまう。
翌年5月には、備中笠岡の陣屋に預けられる。正朋との別れを悲しむ領民の声が、山谷に充ちたという。そして、幕府からの沙汰を待たず、その月の27日、子息に遺書を残して自刃した。享年62。
彼の死については、飢饉対策の心労で死んだという説もあるが、芋代官を慕う者による俗説であろう。
さて、正朋は官米放出に先立って、甘藷の栽培に乗り出していた。石見着任直後のことのようだが、旅の僧より薩摩に甘藷があって飢饉対策によいことを知り、すぐに苦労して種芋を取り寄せた。彼の優秀さがよく分かる。
しかし、ノウハウがなかったためこの時の栽培ではほとんどが上手くいかず、結果正朋は官米放出のやむなきに至る。
が、実は大森からほど近い邇摩郡釜ノ浦で、栽培に成功した者があった。これは正朋の死後次第に広まり、後には彼の期した救荒の目的を大いに果たすことになったのである。
当地で甘藷を移入したはじめであること、また優れた代官であったことから、石見や備中では「井戸正朋」よりも「芋代官」のほうが通りがよいのだという。
石見国という辺地での活動であったこと、また、非業の死を遂げた彼の在世中に栽培が成功したわけではなかったことから、井戸正朋はさほど知られているとは言いがたい。
けれども、彼の事蹟から人柄を忍ぶに、どうにも埋もれているには惜しいと思った。故に、紙幅を割いた次第である。
さて、後篇ではいよいよ、教科書でもお馴染みの「あの男」の登場である。
(続く)
関連記事
となりのみどり
第1回:カキノキ
第2回:ツタ
第3回:ネコジャラシ
第4回:ツバキ
第5回:ウメ
14.11.29更新 |
WEBスナイパー
>
となりのみどり
| |
| |