Monthly Column "Green is located next to us".
日本は雨量に恵まれた国である。気候も概して温暖だ。ゆえに、私たちの身の回りは緑、ミドリ、みどりで溢れかえっている。
思い浮かべて欲しい。あなたが今日、自宅を出て駅に辿り着くまでのわずかの間にも、実に多様な植物を見かけているはずだ。
お隣の庭木、街路樹、路傍の雑草......名前は分からなくとも、きっと両手両足の指で足りない種類のみどりを目にしているはずだ。
この連載では、それらのごく身近な植物に少しだけスポットを当ててみようと考えている。明日からの生活の中で、あなたがとなりのみどりに少し興味を持つようになれば、本稿のささやかなもくろみは成就する。
今回は、サツマイモの後篇をお届けする。まずは、皆さんご存知の「甘藷先生」から。
それでは、となりのみどりを巡る旅に、しばしお付き合い頂ければ幸いである。
前篇の最後で紹介した芋代官・井戸正朋に遅れること三年、ついに江戸でも甘藷の栽培に乗り出した男がいた。
ご存知、甘藷先生こと青木昆陽である。
昆陽は正朋と違って、江戸の一市民の出である。そんな彼が立身出世を遂げたのは、その学識と人脈の要を捉えた立ち回りの上手さに理由があったと思われる。
昆陽は江戸日本橋の魚商佃屋半右衛門の息子として生まれた。諱は敦書(あつのり)というが、号の昆陽の方が有名である。父の半右衛門はもともと、大坂の淀川河口に近いあたりで農業を営んでいたというが、江戸に下って商人となり成功したらしい。昆陽にもこの父の血が、しっかりと流れていたのだろう。
昆陽は学問を志し、京に上って伊藤東涯(いとうとうがい)の門下に学んだ。様々な学を修めたようだが、なかでも経済に明るかったという。
さて、井戸正朋を非業の死に追い込んだ享保17年の大飢饉は、昆陽にとっては一世一代のチャンスとなった。かねてより甘藷の救荒作物としての有用性に目を付けていた昆陽は、懇意にしていた与力・加藤又左衛門枝直(又左衛門のいとこが昆陽の大家であった)に依頼し、又左衛門の上司である町奉行・大岡忠相(ご存知、大岡越前である)への売り込みに成功する。
大岡忠相はこれを時の将軍・徳川吉宗(特に暴れん坊ではなかったようだ)にも上申し、昆陽の進言がめでたく採用される運びとなる。時に1735年(享保20年)、儀間眞常による栽培開始から130年を経て、サツマイモはようやく江戸に到達したのであった。
その後の甘藷試作について簡潔に述べておこう。
昆陽のために用意されたのは、幕府直轄の小石川薬園(現在の小石川植物園)内の土地で、なんと333坪もあった。この試作は成功し、種芋と昆陽の書いた小冊子『甘藷記』が近隣の村々や、流刑地である伊豆へも送られた。昆陽の「甘藷によって世人の餓えを救う」という思想は、彼の経済学とも結びついたものであった。そして幕府の政策として採用されたことで、この後、短期間にサツマイモは驚くべき普及を遂げる。江戸の市内には芋問屋ができ、寒天に声を響かせる焼き芋屋など、お馴染みの風景が出現することになる。
明和の頃に最初に焼き芋屋が多く出現したのは、日本橋堀江町であったらしい。
堀江町風静まって薩摩藷
などという川柳が伝わっている。「風静まって」というのは、夏の間は団扇を作り、冬になると焼き芋屋に転業していたところから来ているのだそうである。
1769年(明和6年)、昆陽は72歳で目黒に没した。墓は生前に作られており、正面には自ら選んで「甘藷先生墓」と刻まれていた。
どうにも自讃の気が強く、昆陽らしいと言えばらしいのだが、私個人としては井戸正朋のほうが人物として好みである。
昆陽は年代的に考えて、晩年には冬の堀江町に焼き芋屋が出現するのを見ることができただろう。正朋と異なり、昆陽は最後まで幸福な人生を送ることができたのである。
長々と江戸甘藷関連人物伝をお送りしたが、こうして江戸期を通じサツマイモは普及し、身近なものとなっていったのである。
それにしても、琉球への伝来から江戸での栽培まで130年を要したのは、当時のこととは言え些か時間がかかりすぎの感がある。もしも、幕府が鎖国政策をとっていなければ、サツマイモはもっと早く全国に普及し、多くの人を飢餓から救ったのではないかという気がしてならない。
■森鴎外の焼き芋
さて、ここで明治期に下り、義務教育でもお馴染みの文豪・森鴎外に登場していただくとしよう。
鴎外はなんと、大の焼き芋好きであったという。ドイツ医学を身につけ、山県有朋をバックに陸軍で大出世を遂げた鴎外というと、どうも夏目漱石に較べて親しみにくいイメージがある。
彼を追って日本にまできた舞姫・エリスを結果的に追い返し、日露戦争では白米信仰から脚気による死者も多く出したと言われるので、よりよろしからざるイメージを持っている読者もいるかも分からない。しかも、細菌学を修めたせいで潔癖性となり、果物まで温めて食べていたというから、どうにも取っ付きにくい人物である。
しかし、彼は案外親しみやすいところもあった。
甘党であった彼の好物に、饅頭茶漬けというものがある。鴎外の長女・森茉莉によると、饅頭を四分割したうちのひとつを白米の上に載せ、煎茶をかけて食べるそうである。顔をしかめる勿れ、これが意外にも、さっぱりして美味いのだという。
軍服を身に着けたいかめしい顔の写真ばかりが知られている鴎外だが、美味そうに饅頭茶漬けをすすりこみ、焼き芋をほおばっていたところを想像すると、少しは親しみやすくなるのではないだろうか。
さて、ここでもう一人の明治人の登場である。名は町田金六という。
金六は有名な和菓子屋で、なんと乃木希典や東郷平八郎とも交友があったという。その縁で、鴎外とも知己を得て、交わるようになったらしい。
あるとき、鴎外を勤め先(というからには予備役となる大正7年以前であろう)に尋ねて昼時となり、昼食として出されたのが焼き芋だったという。
しかし、このとき金六は胃腸を壊しており、出された焼き芋を平らげられなかった。そこで、食べた風を装ってそのうちひとつを持ち帰り......なんと自宅で大事に保存した。
この焼き芋、現在は不明だが、戦災を免れて1970年代の終わり頃にはまだ大事に保存されていたらしい(実に半世紀以上も保存されていたことになる。日本人の物持ちの良さは一体どうなっているのか)。
ものの本によってその芋の保存状態をご紹介しよう。
紫の袱紗を開くと桐箱が現われる。表にはなんと、摺沢静夫陸軍中将が「甘藷先生云々」ではじまる箱書をものしている(日付は大正11年6月となっており、これは鴎外の没する前月である)。箱の裏にはまた、大迫尚敏大将の箱書があり、なんとも微笑ましい。
肝心のイモはというと、箱の中に和紙に包まれた状態で保存されており、黴るでもなく腐るでもなく、イモらしい状態だったという。
文豪というものは、女性関係をつぶさに調べられた挙句、こんな珍妙なものまで残されてしまうのだから、少々可哀想である。
なお、鴎外の焼き芋好きについては、長男・於莵(おと)も認める証言をしている。どうやら、焼き芋は加熱消毒されているから、それも潔癖性の彼にとっては都合が良かったらしい。
それにしても、60年も原形をとどめているくらいだから、鴎外は相当しっかりと加熱させたものらしい。
■代用食としてのサツマイモ
鴎外が好物として焼き芋を食べた時代が去り、日本は泥沼の戦争に突入していく。
補給線は伸びきり、前線の兵士たちは敵軍よりも餓えで命を落としていく。働き手を兵卒として送り出した影響で、銃後の本土でも食料事情は悪化していく。
そこで編み出されたのが「代用食」という言葉である。金属がないから陶器や木材で、石油がないから松根油で間に合わせるのが「代用品」であり、コメが足りぬからダイズやダイコンを混ぜて嵩増しし、嵩増しするコメすらなければイモを食うのが「代用食」というわけである。
学校の校庭もイモ畑となり、農林水産省は、美味くはないが、とにかく巨大なイモができるような品種の栽培を奨励した。
生産能力に乏しく、人口の多い都市部では、食料事情は特に悪かった。
たとえば、昭和2年東京青山生まれで、食料事情芳しからざる青春を過ごした北杜夫は「農林何号とかいう、大きいがパサついて美味くないサツマイモ」を食べざるを得なかったことなど、食糧難についてエッセイに度々記している。
食糧難は戦後しばらくまで続き、この時期の作家の日記を見ると、皆食べるものを確保するのに苦労をしている。また、文化人類学者の宮本常一が、餓死者を出さないように大阪で奔走したのも終戦直後のことであった。
なお、代用食には思わぬ恩恵があり、なんと脚気の患者数が顕著に減少したというのである。律令時代より、コメばかり食べて副菜をおろそかにすることを政府は警告してきたが、それが敗戦のもたらした食糧難によって改善するとはなんとも皮肉である。
話をサツマイモに戻そう。
大戦末期の時期、北杜夫の言うように収量重視で味は二の次といった品種が農水省によって開発されている。
終戦直前の昭和19年に出版された『芋』という本がある。この本には当時の農林大臣が題字を寄せている。中身をめくってみると、筆者・木村昇の芋にかける研究者としての情熱と、当時の国策が悪魔合体したものであり見ていてなかなか面白い。近年に出版された本にも参考文献として明記されているくらいだから、内容も充実している。
イモの伝来史は勿論のこと、品種や栽培法、レシピまで実に行き届いたつくりで、思わず熟読してしまった。本書を、私は古本屋で入手したのだが、発売当時入手した人物の手になると思われる赤線が随所に引いてある。
こちらも往時の状況を忍ばせて興味深いので、以下に幾つか抜き出してみよう。
特にイギリスの如きは「馬鈴薯、小麦、牛乳の生産は、飛行機、戦車、大砲を作ると同様に大切である」と古くなった牧草地などを掘り返して増産に大童であり(...)
終局の完全なる勝利を約束するものは、何と云つても食料の絶対的確保である。
植え方よりも寧ろ、天候を見計らつて植えることが肝要である。
他にも種芋を節約して使うことを述べた章や、病虫害対策の章、サツマイモのつるを利用した料理の章などは、ページのほとんどに赤線が引かれている。
本書の最初の所持者はおそらく、自らイモの栽培を行なおうとしていたのであろう。彼のイモ栽培が上手くいったことを祈らずにはいられない。
さて、『芋』ではジャガイモ・サツマイモの品種についても詳しい。北杜夫が美味くないと評したものはどれであろうかとページをめくっていくと、「農林一号」「農林二号」などというのが目に留まった。
「普及が急がれている」ともあるゆえ、恐らくはこれらであろうと思ったのだが、本文の記述では「澱粉の含有量が多く美味」「味も捨てがたい」などとある。おかしく思って他の資料を見てみると、なんのことはない、「澱粉採取用食用兼用」などと記されている。やはり、美味くはなかったのである。
今一度、『芋』の記述を注意深く読んでいくと、「源氏(優秀な品種)よりわずかに劣る」「早生」「収量が極めて多い」とある。やはり、食料確保のため、早く、大きく育つ品種を優先していたのである。
実際、農林10号などは昭和12年に開発されたものの当時は採用されていない。どうも、美味だが収量が少なかったようだ。他の資料には「上質を望まれる時代となり、昭和24年に改めて採用」とある。
やはり、北氏らが戦中に食べていたサツマイモはあまり美味くなかったのである。
■品種について
農林○号について述べたついでに、代表的な品種を幾つか紹介しておこう。
紅あずま 関東で人気のある品種。千葉県四街道市の農業研究センターで作られた品種で、1985年に品種登録。甘みが強く、皮や果肉の色も美しい。関東のスーパーでは多く並んでいる。「紅こがね」は茨城県のJAなめかたが出荷の際に使用している選抜品種としての名称。
高系14号 終戦の年に高知で開発された品種である。各地で改良が進められ、多くの子孫を輩出している。代表的なものに、徳島の「なると金時」、石川県の「五郎島金時」、宮崎県の「宮崎紅」、鹿児島県の「べにさつま」などがある。肥大性に優れ、貯蔵性も高い。
クイックスイート 1993年に農水省によって開発された新しい品種。通常、サツマイモの澱粉は70℃で糊化するが、クイックスイートではこれが50℃と低めである。つまり、電子レンジでチンしても美味しく食べられる、というわけである。親は「紅あずま」と「九州30号」で、外見は「紅あずま」と見分けがつかないくらい似ている。
安納芋 種子島の在来品種で、「安納こがね」というものもある。糖度が高く、粘り気が強い。じっくりと時間をかけて焼くと、糖度は何と40度にも達する。品種登録は昭和63年と案外遅く、第二次大戦後に帰還兵がスマトラ島のセルダンから持ち帰ったものにはじまるという。したがって、種子島久基が琉球から取り寄せたものとは無関係である。
源氏 戦前には、全国のサツマイモの作付け面積のうち三割をこの源氏が占めていた。明治26年に広島県安芸郡(当時)の久保田勇次郎氏によってオーストラリアから輸入された。久保田氏はかつてオーストラリアで、源氏を食して脚気を治したという。品種名は、果肉が白色に近く、源氏の旗色に似ているところに由来するという。収量は少ないものの、味や澱粉含有量がよいため普及した。戦前には、他にも七福などの輸入品種が多く作付けされていた。
他にも面白い品種はいくらでもある。
これを読んでいる方々の地元にも、固有の品種があっておかしくない。興味があれば調べてみるのも一興であろう。
■サツマイモ料理幾つか
秋晴れのある日、思い立って芋掘りに出かけた。
電車に一時間余り揺られて都心を離れ、駅からは本数の少ないバスに乗って30分、ようやっと目的地の農園に着いた。
農園は盛況であった。受付で猫車とバケツを借り、道路を渡ると一面の芋畑である。
この農園で栽培しているのは紅高系とのこと、事前に調べた限り、貯蔵性が高く食味も良好とのことで、期待してせっせと掘る。キロあたり300円の支払いなのだが、昔、祖母の畑で培った勘を思い出し、なるたけ沢山の芋がなっていそうな株を捜して、掘る。
あった、あった。柔らかい土の下から、ゴロゴロと芋が出てくる。
掘り始めると、どうも我を忘れてしまう。芋代官のことも食糧難のことも忘れて、ひととき童心に帰って夢中で芋を掘った。
帰路、ひと声かけて、サツマイモの葉とつるを分けてもらう。
「ああ、いくらでも持って行って下さい。たまに欲しがる人がいますよ」
とのことであった。
帰宅したら、早速料理である。
メニューは、サツマイモごはん、つるのきんぴら、葉の煮浸しである。
まずは定番のサツマイモごはん。紅高系はなかなか甘いようだったので、塩を少しばかり多めにしたのだが、それがよかったようだ。イモ自体もねっとりし過ぎておらず、かといってパサパサでもなく、イモごはんには適しているようだった。
お次は、つると葉を使った料理。サツマイモのつるを食べる描写は『はだしのゲン』にもあったから、かねてから一度食べてみたいと思っていた。先述の『芋』でもそれなりの紙幅を割いてこれらの料理を解説していた。
つるはなるべく繊維質でなさそうなところ、葉もできるだけ若いものを選び、軽く灰汁を抜く(食べてみた感じ、ほとんど必要ないかも知れない)。
つるは切りそろえ、ニンジンとごま油で炒め、味を付けてきんぴらにする。葉は油揚げと一緒に煮て、煮浸しに。
少々おっかなびっくり口に運んだのだが、結論から言うと両方とも美味であった。特につるの部分はほのかな甘みがあり、食感もよい(ニンニクの芽に少し似ている)。他の食材では代用できない良さがある。また、葉の煮浸しも、他の青菜のものと引けを取らない味である。どちらも常食しても良いと思われる味であった。
なお、使える部分を選別すると、つるや葉は思ったよりも随分少量になってしまった。リュック一杯につめて持って帰ればよかったと、少々後悔した次第である。
つると葉は食べてしまったけれど、イモ自体はまだ沢山残っている。
これらは冬を待って焼き芋にし、江戸の日本橋堀江町を想像しながら食べてみようと思っている。
夏渋く冬甘くなる堀江町
冬の甘いのはもちろん焼き芋、「夏渋く」というのは、柿渋を塗った渋団扇を売っていたことに由来する。
堀江町の団扇産業は、関東大震災で壊滅的な打撃を受けたという。団扇屋は焼き芋屋も兼ねていたわけだが、そちらも多くは廃業してしまったのだろうか。私はまだそれについては知らない。
となりのみどり 第6回:サツマイモ 了
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14.12.07更新 |
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