本誌・web連動企画 『新宿アンダーグラウンドの残影』 〜モダンアートのある60年代〜 文=ばるぼら S&Mスナイパー4月号の誌面では紹介できなかった「モダンアート」をめぐる新宿とアングラの親和性。現在までつながるいくつかの残影を集めながら、いま再び光をあてる新宿アングラ詳論の決定版! |
アートシアター新宿文化と蝎座
ここからは、新宿にモダンアートが生まれた理由を考察するため、60年代の文化的背景を解説していく。
新宿にはモダンアート以前にも劇場はあった。例えば戦前から含めると「光音座」「帝国館」「朝日ニュース劇場」「新宿シネマ」「ムーラン・ルージュ」「第一劇場」「ヒカリ座」「新星館」「地球座」「新宿コマ劇場」などがあるが、きりがないので60年代以降のアングラ演劇が観られる場所に限れば、先に挙げた「新宿文化」と「蝎座」がそれである。
「新宿文化」は1962年に活動を開始し、葛井欣士郎が支配人を務める、芸術映画と前衛劇の上映を中心とした劇場で、アートシアターギルドの映画配給のメイン劇場の一つでもあった。初期は映画上映のみだったが、1963年頃から映画のあと閉館間際まで芝居を上演するようになる。『朝日ジャーナル』1967年12月31日号の新宿特集では「かつてのムーラン・ルージュに相当するものは、アート・シアター・ギルドの新宿文化劇場で、ここで映画がおわったあとで上映される前衛演劇は、若干ハイブローなムーラン趣味にとってかわっている」と触れられている。
その「新宿文化」地下に1967年6月20日にオープンしたアングラ小劇場が「蝎座」である。同年7月1日の「ユリディスの手」(原作=ペドロ・ブロッホ/演出=宇野重吉)公演を皮切りに、定期的に映像と実験演劇の上演を行なっていた。同年8月に上映した「銀河系」(製作・脚本・監督=足立正生)が大ヒットし、その存在を知られるようになる。
その他、『テアトロ』1968年5月号の新劇評を読む限り、3月3日にはモダンアート特集週間が行なわれ、「ガリバー船長ヤポポン公国に上陸す」(作・演出=棟方三郎・村山庄三・長崎朗)という演劇が上演されていたはずである。「スマイル・ショウ<狂った色彩>」(構成・振付=樋口四郎/照明=丸山浩一/出演=マーガレット・純、京マリ、夢みとひ、三鷹ジュン、園山多吉)や、「サイケデリック・アート」(立見忠広)といった、光で演出したサイケデリックなライト・ショーが行なわれていた記録もある。前衛集団の「黒の会」や「薔薇卍結社」も人気が高かったらしい。
この「蝎座」が出来る少し前、『テアトロ』誌1967年2月号に、葛井欣士郎が新宿文化地下に劇場を作る計画を語っているので引用しよう。
「アートシアター演劇公演の場合は、映画終了後の公演のため、開演夜9時30分、終演11時という時間的制約があり、映画→演劇の繰り返しのため、道具は仕込んだままにしておけない、夜おそくの舞台稽古等の労働力の冗費、その他諸々の制限がある。そこで考えたのが地下の小・小劇場。別に地下を掘る必要はなく現在従業員控室などの小部屋に分かれた、その昔、映画館の実演のため楽屋に使っていたところがある。(中略)ここを改造して小さい劇場をつくることを思いついたのである。演劇と16ミリ、8ミリのアンダーグランド・シネマ上映のための劇場である」
葛井はニューヨークのアンダーグラウンド・シネマに強く興味を持ち、オフ・ブロードウェイ/オフ・ハリウッド(反映画資本)の劇場や、プラハのチノヘルニクルブ(定員150人位の小さな劇場・実験劇場の意)を参考にしたようである。モダンアートはそれら「新宿文化」「蝎座」の次に、新宿でアングラ演劇が観られる場所として登場した。この先行する二つの小劇場の成功を無視してモダンアートを語ることはできないだろう。
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構成・文=ばるぼら ネットワーカー。周辺文化研究家&古雑誌収集家。著書に『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』『ウェブアニメーション大百科』など。なんともいえないミニコミを制作中。 |
07.03.13更新 |
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