『帰って来たヨッパライ』ザ・フォーク・クルセイダーズ (東芝音楽工業株式会社)1967年発売 |
本誌・web連動企画 『新宿アンダーグラウンドの残影』 〜モダンアートのある60年代〜 文=ばるぼら S&Mスナイパー4月号の誌面では紹介できなかった「モダンアート」をめぐる新宿とアングラの親和性。現在までつながるいくつかの残影を集めながら、いま再び光をあてる新宿アングラ詳論の決定版! |
アングラという言葉と地下映画
言葉の原義に戻れば、アングラとは元々アンダーグラウンド・シネマの略称、つまり海外の実験映画や自主映画のことを指した。アンダーグラウンド・シネマは、またの名をプライヴェート・フィルムとも言うが、非商業的映画作家の運動「ニュー・アメリカン・シネマ」を源流とするものである。彼らの映画のテーマとなったのは、これまでタブーとされてきた性・暴力などが多く、非商業的、反社会的、反画一主義的、反体制的な内容なため、彼らの映画の多くが地下にある劇場で上映されたことに由来する。代表的な監督にスタン・ブラッケイジ、ブルース・ベイリー、ケネス・アンガー、アンディ・ウォーホル、ジャック・スミスなどがいる。ジョナス・メカスの「稚拙であっても血の色をした映画が欲しい」という言葉が象徴的である。
実験映画を日本で上映/制作していた組織は、大辻清司らの「キネカリグラフィ」、足立正生らの「日大映研制作グループ」、高林陽一や松本俊夫らの「実験映画を見る会」、飯村隆彦や赤瀬川源平らがいた「VAN映画科学研究所」、新橋の内科画廊による「内科シネマテーク」、佐藤重臣もいた「フィルム・アンデパンダン」などがあったが、後続に直接つながるような大きい流れを生むことはなかった。
『アンダーグラウンド・シネマ/日本・アメリカ』ポスター(1966年/ポスター制作・細谷巌)
|
1962年には草月会館ホールで既にピーター・クーベルカの試写が、1965年に紀伊国屋ホールで行なわれた「前衛と実験」ではロバート・ブリアやスタン・ヴァンダービークの作品が上映された例もあったようだが、「アンダーグラウンド」という名称を初めて使用し本格的に紹介したのは、1966年に金坂健二がアメリカからフィルムを持ち帰って、同年6月29日〜7月2日に草月アートセンターで企画・上映した「アンダーグラウンド・シネマ/日本・アメリカ」であり、これがすべての始まりだと言われている。同時期に国立近代美術館で「アメリカ短編映画の20年」が催され、短期間にアメリカの実験映画が日本に紹介されたことで、それに触発された日本人アングラ作家が活発に動き始めた。
そうして先鋭的な表現の舞台である草月アートセンターで行なわれた催し全般が、前衛・実験=アングラ文化として認知されていくことになる。もっとも、当時の若者風俗──演劇、映画、イラストレーション、ファッション等の「ちょっと変な」ものに対して「これってアングラだね」と言うように、言葉だけが独り歩きし、一種の風俗/感覚を表すようになっていったのは、1967年12月に発売されたザ・フォーク・クルセイダーズの大ヒットEP『帰ってきたヨッパライ』の影響が大きい。この曲が日本初のアングラ・レコードとして全国的に広まったことで、「アングラ」ブームが訪れ、同時期に話題になった「ハレンチ」や「ハプニング」(1950年代からあったが、アングラブームによって再発見された)、「ヒッピー」(この言葉は1967年に『TIME』誌がヒッピー族特集を組んでから世界中に広まった)に「サイケ」などと同様、現象として語られることになる。
『帰って来たヨッパライ』ザ・フォーク・クルセイダーズ/レコード盤面
・裏ジャケ(東芝音楽工業株式会社)1967年発売 |
詳細は別の機会にするが、アングラ映画はその後、1967年にコンペ形式の「草月実験映画祭(フィルム・アート・フェスティバル)」が個人作家の作品発表の場として機能し、1968年には『映画評論』誌で積極的にアングラを取り上げてきた佐藤重臣が主宰する「ジャパン・フィルムメーカーズ・コーポラティブ」が作家組織団体として動き出す。しかし1969年に「フィルム・アート・フェスティバル」は造反によって中止となり、「ジャパン・コーポ」も組織内のいざこざが起き、佐藤をはじめとする一部のメンバーが脱退。佐藤は新たに「日本アンダーグラウンド・センター」を組織し、そこから分裂する形で1971年にかわなかのぶひろが「アンダーグラウンド・センター」(「イメージ・フォーラム」の前身)をスタートさせ、現在に至っている。
『JAPAN UNDERGROUND CINEMATHEQUE』1号(日本アンダーグラウンド・センター)発行年月日記載なし・1971年2月頃 |
『S&Mスナイパー』本誌の2007年4月号の川上譲治インタビューで、川上の後輩がかわなかのぶひろらと一緒に実験映画の上映を行なっていた話が出てくるが、それはこの「アンダーグラウンド・センター」が、寺山修司の渋谷天井桟敷館地下劇場で行なっていた上映プログラム「アンダーグラウンド・シネマテーク」のことだろう。寺山は天井桟敷館が地主の要請で立ち退きを迫られた1977年6月まで、好意で上映のために場を提供してくれていたという。
関連記事
ジョウジ川上55歳の決意 ストリップと共に生きた興行師の30年
構成・文=ばるぼら ネットワーカー。周辺文化研究家&古雑誌収集家。著書に『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』『ウェブアニメーション大百科』など。なんともいえないミニコミを制作中。 |
07.03.17更新 |
WEBスナイパー
>
ばるぼら 執筆記事一覧