『これがアングラだ!』グルッペ21世紀 編(双葉社) 1968年7月1日発行 |
本誌・web連動企画 『新宿アンダーグラウンドの残影』 〜モダンアートのある60年代〜 文=ばるぼら S&Mスナイパー4月号の誌面では紹介できなかった「モダンアート」をめぐる新宿とアングラの親和性。現在までつながるいくつかの残影を集めながら、いま再び光をあてる新宿アングラ詳論の決定版! |
現代演劇の歴史は膨大な量になるので適度に省略し、ここではアングラ演劇について、モダンアートの60年代当時の企画室代表・糸文弘が語っていたので引用しよう。糸は喜劇集団・三文館に演出などで参加していて、モダンアートで三文館が「セックス考現学」(原作=大山人士/脚色・演出=糸文弘)を上映したこともある。
「演劇本来の姿は舞台と客席が混然一体になるところに意味があるわけです。コマーシャル・ベースの商業劇団や、貴族趣味の既成新劇にそれは望めない。混然一体とは、本当のナマのコミュニケーションがうまれることで、アングラ演劇が\x87\x80肉体主義\x87≠ナあるのも、ナマの肉体でぶつかってこそ、ナマのコミュニケーションがうまれるということなんですね」(『これがアングラだ!』1968年7月/双葉社)
これは非常に60年代的な思想である。今なら客席にいる人々は完全に観客として見物に来ているだろうし、劇自体に参加するわけもなく、傍観者の立場でそれを眺めるだろう。良い悪いではなく時代の姿勢だ。ただし、思想的な面はさておき、当時のモダンアートの出し物はヌードが売りだった。それについてはこう説明している。
「たとえばウチではアングラ・ヌードというのをやっています。むろんストリップ劇場のストリップとはちがう。振りつけの中にベトナム戦争反対の思想を試みたりする。だけどそれをお客がどう受けとるかはお客の側の問題。私たちは問題を提起してお客に考えてもらえばいいわけです」(前出)
とは言うものの、それに続く以下のレポートを読む限り、それはあくまで思想のポーズにすぎなかったようにも感じる。糸は65年頃にピンク映画の監督をしていた経験を持つので、体質的に女の裸は儲かると判っていて、確信犯で企画していたのではないだろうかと邪推もできる。
「なるほどここのアングラ・ヌードは風変わりなものだ。専属ヌード嬢が三人いて、アングラ演劇や軽演劇の合い間にヌードを披露する。曲に合わせて踊りはじめたかと思うと、すぐに客席に降りてきて、客(むろん男性)のヒザにおすわり、ヌードのまま首を客の首にまいて、いろいろとおはなし。エッチな話をしながら、時折り、『ねえあなたあン、ベトナム戦争どう思う?』などと\x87\x80思想ヌード\x87≠スるユエンをみせてくれるわけ」(前出)
モダンアートのこうした運営意識については、情報誌『東京25時』が1970年7月号で若干批判的に紹介した。
左/『東京25時』1970年7月号(アグレマン社) 1967年7月1日発行 |
「“アングラ”という言葉がまだ耳慣れない頃、いち早く実験小劇場としてスタート。演劇だけでなく、前衛舞踊、イベントなどの公演をやってきたが、今ではすっかりヌード劇場になってしまった。それでも経営者は“アングラ・ヌード”と称しているが……」
1970年の時点でこう言われてしまうのだから、実験小劇場としてアングラ演劇を中心にしていた時期は、思ったより短いのではないかと推測できる。1968年の時点で益岡社長は下記のように語っていたが、アングラ・ブームが去ってから、いよいよ思想と裸が逆転してしまったのだろう。
「本当をいえば、女の裸が一番人気がありますね。アクトが喜ばれるのがそれです。だが、ヌード中心にしたら、折角のいいお客が逃げちゃう。(中略)なにしろ、こっちは商売ですからねえ、お客が入らなくちゃ困る」(『アングラ'68 ショック編』)
余談だが、映画雑誌は売上を伸ばすために誌面にヌード写真をよく載せていた。読者は建前は映画ファンだが、お目当てはヌードだった。これはアングラ映画にも言えることで、アングラ映画は女性器や裸のシーンを挿入することが多かったため、エロ目的でアングラ映画に足を運ぶ人も多かったという。芸術を隠れ蓑にしたエロ・コンテンツとして、映画雑誌やアングラ映画が財政的に存在できた面も確実にあるのは、忘れずに指摘しておきたい。
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構成・文=ばるぼら ネットワーカー。周辺文化研究家&古雑誌収集家。著書に『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』『ウェブアニメーション大百科』など。なんともいえないミニコミを制作中。 |
07.03.21更新 |
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