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さて東京公司設立の少し前、1992年11月に、青山は初の著書『危ない薬』を出版している(この本自体についてはこの連載の第1回で解説した)。データハウスから以前に出た別の著者による『悪い薬』(中山純/1990年11月)の第二弾的存在として出版され、連載「フレッシュ・ペーパー」で毎回取りあげていたドラッグ話のデータ的な部分を中心に全面的に加筆されているが、根っからの研究家でもある青山がドラッグ本を書くにあたって意識したのは2点あった。1つはアカデミックな解説に終始しないこと、もう1つは抽象的なドラッグ体験談にしないこと。目ざしたのはドラッグの「実用」書であり、そのドラッグにどのような効用があって、どのように使用すればいいかを、文献からの情報と体験から得られたディティールを合わせて記述した決定版だった。
これまで存在しなかった役立つドラッグ本『危ない薬』はベストセラーとなったわけだが、これが90年代前半に広く取り上げられたのは時代的な背景も大きい。ちょうど80年代後半に生まれた海外のレイヴ・カルチャー、大音量でハウス/トランス/テクノをかけて、エクスタシーと呼ばれるドラッグをキメて、皆で踊り明かすというライフスタイルが、まだ少ないとはいえ日本にも波及しはじめていたからだ。90年代、ドラッグは最新の流行アイテムだったのである。
しかしドラッグが違法である日本では満足な情報・入手手段がなく、ほとんどの日本人は「ドラッグで気持ちよくなりながら音楽で踊る」姿を想像していただけの、陶酔の真似事であったと思われる。そういったドラッグへの姿勢が屈折しがちな日本で、初めてマニアックかつ初心者にも読める、手軽なガイドブックが出たことが、レイヴ/ダンス/クラブ・カルチャーともリンクしてヒットしたのでは、と分析することは可能だろう。もちろん書店に「サブカルチャー」の棚が出来はじめた時期と重なって、「変わった本」が単純に流行っていたこともある(『危ない薬』を出した後の反響で多かったのが「ドラッグを売ってくれませんか」という読者からの素朴すぎる要望だったという話は、情報だけ先行しがちの日本的な出来事であると思う)。
もともとドラッグについて詳しいライターとして知られていた青山は、この本のおかけで完全にドラッグ第一人者的な立場を獲得し、様々な媒体で伝道者のように振舞うことになる。反面、警察にマークされる危険性も伴うことになった。
『えじゃないか』1月号
1992年1月11日発行/アレック情報出版
立川談志が編集長をしていた「非常識マガジン」で、アダルト、犯罪、プロレス、芸能三面記事、ストリート・カルチャーなどをごった煮にした、正直言って何がしたいのか判らない謎の雑誌だった。青山は「過剰なる刺激を求めて──危ない本の10年を振り返る」と題した記事を執筆し、第三書館やデータハウスの書籍を中心に取り上げている。最後の『悪い薬』レビューにこんな一文が。「惜しむらくは、いわゆるドラッグに関する記述は前3分の1だけで、残り3分の2は市販&処方薬の副作用に当てられており、情報量的に物足りなさは否めない。鵜野社長、パート2は是非、私に書かせて下さいませ」。
『えじゃないか』3月号
1992年3月11日発行/アレック情報出版
『えじゃないか』に青山が書いた記事はもう一つ、3月号掲載の「ドッキリ幻覚キノコ教室」である。内容はマジック・マッシュルームの分類と効用、およびそれらを採るときの注意点(朝早く行こう、など)について。「ぼくは植物学を勉強したワケじゃないし医学的な知識も全く無い(略)でも、ほとんどの箇所は実際に体験したことを元にして書いているので、科学的じゃないかもしれないけど、充分具体的だと思うよ」という一文は、のちの『危ない薬』に通じる青山の基本姿勢である。それにしても、毒キノコ(と一般に言われる幻覚性キノコ)のトリップ効果についてカラー4ページもあてがう雑誌の姿勢の特殊さは見習いたい。
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【プロローグ】 【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】 【7】 【8】 【本文註釈・参考文献】
ばるぼら ネットワーカー。周辺文化研究家&古雑誌収集家。著書に『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』『ウェブアニメーション大百科』など。なんともいえないミニコミを制作中。
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08.07.06更新 |
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