『危ない1号 第4巻:青山正明全仕事』裏表紙
初版1999年9月20日/データハウス
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青山正明の訃報が(公で)最初に流れたのはインターネットだった。メールマガジン「サイバッチ!」が6月19日20時45分に配信した「鬼畜のカリスマ逝く! 青山正明追悼号」という記事である。ゲスやサイテーを標榜するメルマガであるだけに、その書き方も鬼畜らしく煽り立てたものだった。
「今月17日、あの青山正明が逝った。/自宅の部屋で首をくくって死んだそうだ。昼過ぎ、部屋から出ないのを不審に思った母親が、ドアを開けると青山が天井からブラ下がっていたそうだ。/恐るべし青山正明。死ぬときまで、ただでは死なない。俺たちにちゃんとネタを残す心使いを忘れてはいないのだ」
21世紀に入ってからまだ半年しか経っておらず、あと10日で41歳の誕生日をむかえるという時だ。仕事らしい仕事といえば死ぬ直前まで行なっていた業界誌『ビデオ・インサイダー・ジャパン』でのクロスレビューくらいで、何か大きな達成をした、というわけでもなさそうである。なぜこのタイミングで、と表向きの理由が推測しづらい、謎の自殺だった。
当然ながら、青山正明の死は“ある方面”の人間にとってセンセーショナルな出来事として受け止められ、ネットからマスメディアに飛び火する。この時、かつて青山と仕事をした少なくない人々は追悼記事を書いている。いくつか見てみよう。前回取り上げた『BURST』2001年9月号での「青山正明追悼座談会」(木村重樹、吉永嘉明、園田俊明)でも自殺の理由については触れられていない。
園田 自殺の翌日に別れた奥さんから連絡をもらったんだけど、ただただ驚きだった。
木村 僕は友人の編集者からの留守電で知ったんですが、現実感がなかったですね。数年間会ってなかったし、ただ時期的に何故今なんだろう? って疑問はあるにはあった。
吉永 僕は勿体ないなと思いましたよ。
園田 死にたいとか言ってなかったんですか?
吉永 周期的に落ち込む人なんだけど、詳しいことはわからない。落ち込んでるときに「死にたい……」と、よく言ってたことは確かだけど。
木村氏は『Quick Japan』38号でも「追悼企画 『危ない1号』編者、青山正明【故人】の世界。」と題した、青山の軌跡を辿りながら追悼する文章を書いている。そこには興味深い一文がある。これがもう在りえないことだとわかっていても、夢想してしまう。
「余談ではあるが、この\x87\x80孤立・孤独\x87≠ニいったタームは、青山氏の中ではライフワーク的な探求課題のひとつだったらしく、かつて彼は私に向かって「『危ない1号』の特集で、いっぺん「孤独」というテーマで一冊やってみたいんだけど……(上が)企画を通してくれないだろうなァ」というようなことをボソッと語っていたことを、ふと思いだした」
『裏モノJAPAN』2001年9月号では小沢豊氏が連載「不道徳な暮らし」の冒頭で追悼文を書いている。一時期はFAX文通をしていたというくらいの仲だったというだけに、普段は不謹慎ネタを連発していた連載も、この時だけは少し姿勢が違う印象を受ける。
「何が原因で自殺したのか、そんなことは誰もわからない。でも私は、青山さんが現世成仏=死という行動に走ったのではなく、永遠の安らぎを求めて新たな世界に旅立っていった、希望ある死であったと思いたい」
更に『ダークサイドJAPAN』2001年10月号では夏原武氏、永山薫氏、斉田石也氏らによる「伝説の編集者 青山正明氏のこと」と題した追悼文が掲載された。特に夏原氏の指摘には注目したい。『危ない薬』を出したあとの青山に対する見解である。
「もっと後には、本を出したことによるメリットとデメリットをより強く感じていた。これまでの体験の集大成として作り上げたという自負、それに伴う評価。反面、取締り対象になってしまったのではないかという恐怖。ドラッグではなくてこれからは健康法だ、リラクゼーションだ、精神世界だという逃げを売ったのもそうした恐怖感があったのではないだろうか。いや、本人がそう言ったこともあったのだから、一因ではあったのだ」
逮捕されるかもしれない恐怖を抱えながらドラッグにのめりこもうとして、しかしバッドトリップと更なる恐怖が待ち受けていて、そこから逃げようと更にドラッグをキメこむという悪循環にとらわれた果ての、健全のポーズとしての精神世界・諦念だったのかもしれない。そして『アウトロー・ジャパン』1号に掲載された村崎百郎氏の「非追悼 青山正明──またはカリスマ・鬼畜・アウトローを論ずる試み」にある、特に重要と思われる部分は以下だろう。
「次に主張しておきたいのは「青山正明が鬼畜でも何でもなかった」という純然たる事実である。これだけは御遺族と青山の名誉の為にも声を大にして言っておくが、青山の本性は優しい善人で、決して俺のようにすべての人間に対して悪意を持った邪悪な鬼畜ではなかった。(中略)『危ない1号』に「鬼畜」というキーワードを無理矢理持ち込んで雑誌全体を邪悪なものにしたのはすべてこの俺の所業なのだ」
これは前出の『BURST』座談会でも言われていたことだが、周りにいた人間にとって、『危ない1号』のイメージから連想する「青山正明=鬼畜」の図式が当てはまらないようなのである。これは自殺後に明らかにされた本性の一つだった。当時、ここに違和感を持った人も少なくなかったのではないだろうか。読者側が抱いていた「ドラッグ/鬼畜のカリスマ」という一方的なイメージが解体されていったのはここからだったし、この連載が始められた遠因にもなっている。
ここで、青山が言っていた「人生なんて死ぬまでの暇つぶし」という言葉の意味をもう一度考えたい。昔はそこに単純な無気力・虚無感しか見出せなかったが、自分の興味に忠実に生きていく青山の姿を追ってきた今なら、暇つぶしだからこそ楽しくなきゃ損じゃん、という解放的な意味で捉えることも十分可能だと思う。
今、手もとに『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』(1969年3月15日発行/田畑書店)という古い本がある。著者の一人である村木良彦氏は、序章で以下のように書いている。
「恥のみ多かりし三十余年の人生で<私>とは一体何であったのか。/私、私の眼、私の耳、私の声、私の手、私の血、私の存在、私の記憶、私の死、私の街、私の反逆、私の時間、私の虚妄、私のあなた、そして私のテレビジョン……。そこにはまっ白い空間の中をスローモーションで走るようなもどかしさがあるだけだ。/所詮、<生きること>は死ぬ迄の暇つぶしでしかない」
ワタシには、この文章はなんとなく死ぬ直前の青山の姿とダブって見えてしまう(妄想にタブーなし)。「\x87\x80多幸感\x87≠竍\x80快感\x87≠ナ心を満たす、ハイな気分で一生を送る」ことを目的に、ドラッグその他もろもろに手を出し続けてきた青山は、結局ハイな気分でい続けることはできなかった。しかし「死ぬときまで、ただでは死なない。俺たちにちゃんとネタを残す心使いを忘れてはいないのだ」というわけで、ある種の反面教師として使うのもアリだろうし、彼の軌跡を選択肢を修正しながら辿るのもいいし、その姿勢から学べるものは多いだろう。単行本化されていない膨大な量の原稿もまだまだ時代の隙間に眠っている。しんみりしている余裕などない。こんな無茶をするハッピーな人間がいたことを世界中に知らしめてやらないと、いつまたこんなヤツが出てくるかわからないのだから!
参考文献
「鬼畜のカリスマ逝く! 青山正明追悼号」(2001年6月19日配信/サイバッチ)
『BURST』2001年9月号(2001年9月1日発行/コアマガジン)
『Quick Japan』38号(2001年8月28日発行/太田出版)
『裏モノJAPAN』2001年9月号(2001年9月1日発行/鉄人社)
『ダークサイドJAPAN』2001年10月号(2001年10月1日発行/ミリオン出版)
『アウトロー・ジャパン』1号(2002年1月18日発行/太田出版)
『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』萩元晴彦、村木良彦、今野勉(1969年3月15日発行/田畑書店)
『裏モノJAPAN』2001年9月号/鉄人社
『アウトロー・ジャパン』1号
太田出版
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初版1999年9月20日/データハウス
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青山正明の訃報が(公で)最初に流れたのはインターネットだった。メールマガジン「サイバッチ!」が6月19日20時45分に配信した「鬼畜のカリスマ逝く! 青山正明追悼号」という記事である。ゲスやサイテーを標榜するメルマガであるだけに、その書き方も鬼畜らしく煽り立てたものだった。
「今月17日、あの青山正明が逝った。/自宅の部屋で首をくくって死んだそうだ。昼過ぎ、部屋から出ないのを不審に思った母親が、ドアを開けると青山が天井からブラ下がっていたそうだ。/恐るべし青山正明。死ぬときまで、ただでは死なない。俺たちにちゃんとネタを残す心使いを忘れてはいないのだ」
21世紀に入ってからまだ半年しか経っておらず、あと10日で41歳の誕生日をむかえるという時だ。仕事らしい仕事といえば死ぬ直前まで行なっていた業界誌『ビデオ・インサイダー・ジャパン』でのクロスレビューくらいで、何か大きな達成をした、というわけでもなさそうである。なぜこのタイミングで、と表向きの理由が推測しづらい、謎の自殺だった。
当然ながら、青山正明の死は“ある方面”の人間にとってセンセーショナルな出来事として受け止められ、ネットからマスメディアに飛び火する。この時、かつて青山と仕事をした少なくない人々は追悼記事を書いている。いくつか見てみよう。前回取り上げた『BURST』2001年9月号での「青山正明追悼座談会」(木村重樹、吉永嘉明、園田俊明)でも自殺の理由については触れられていない。
園田 自殺の翌日に別れた奥さんから連絡をもらったんだけど、ただただ驚きだった。
木村 僕は友人の編集者からの留守電で知ったんですが、現実感がなかったですね。数年間会ってなかったし、ただ時期的に何故今なんだろう? って疑問はあるにはあった。
吉永 僕は勿体ないなと思いましたよ。
園田 死にたいとか言ってなかったんですか?
吉永 周期的に落ち込む人なんだけど、詳しいことはわからない。落ち込んでるときに「死にたい……」と、よく言ってたことは確かだけど。
木村氏は『Quick Japan』38号でも「追悼企画 『危ない1号』編者、青山正明【故人】の世界。」と題した、青山の軌跡を辿りながら追悼する文章を書いている。そこには興味深い一文がある。これがもう在りえないことだとわかっていても、夢想してしまう。
「余談ではあるが、この\x87\x80孤立・孤独\x87≠ニいったタームは、青山氏の中ではライフワーク的な探求課題のひとつだったらしく、かつて彼は私に向かって「『危ない1号』の特集で、いっぺん「孤独」というテーマで一冊やってみたいんだけど……(上が)企画を通してくれないだろうなァ」というようなことをボソッと語っていたことを、ふと思いだした」
『裏モノJAPAN』2001年9月号では小沢豊氏が連載「不道徳な暮らし」の冒頭で追悼文を書いている。一時期はFAX文通をしていたというくらいの仲だったというだけに、普段は不謹慎ネタを連発していた連載も、この時だけは少し姿勢が違う印象を受ける。
「何が原因で自殺したのか、そんなことは誰もわからない。でも私は、青山さんが現世成仏=死という行動に走ったのではなく、永遠の安らぎを求めて新たな世界に旅立っていった、希望ある死であったと思いたい」
更に『ダークサイドJAPAN』2001年10月号では夏原武氏、永山薫氏、斉田石也氏らによる「伝説の編集者 青山正明氏のこと」と題した追悼文が掲載された。特に夏原氏の指摘には注目したい。『危ない薬』を出したあとの青山に対する見解である。
「もっと後には、本を出したことによるメリットとデメリットをより強く感じていた。これまでの体験の集大成として作り上げたという自負、それに伴う評価。反面、取締り対象になってしまったのではないかという恐怖。ドラッグではなくてこれからは健康法だ、リラクゼーションだ、精神世界だという逃げを売ったのもそうした恐怖感があったのではないだろうか。いや、本人がそう言ったこともあったのだから、一因ではあったのだ」
逮捕されるかもしれない恐怖を抱えながらドラッグにのめりこもうとして、しかしバッドトリップと更なる恐怖が待ち受けていて、そこから逃げようと更にドラッグをキメこむという悪循環にとらわれた果ての、健全のポーズとしての精神世界・諦念だったのかもしれない。そして『アウトロー・ジャパン』1号に掲載された村崎百郎氏の「非追悼 青山正明──またはカリスマ・鬼畜・アウトローを論ずる試み」にある、特に重要と思われる部分は以下だろう。
「次に主張しておきたいのは「青山正明が鬼畜でも何でもなかった」という純然たる事実である。これだけは御遺族と青山の名誉の為にも声を大にして言っておくが、青山の本性は優しい善人で、決して俺のようにすべての人間に対して悪意を持った邪悪な鬼畜ではなかった。(中略)『危ない1号』に「鬼畜」というキーワードを無理矢理持ち込んで雑誌全体を邪悪なものにしたのはすべてこの俺の所業なのだ」
これは前出の『BURST』座談会でも言われていたことだが、周りにいた人間にとって、『危ない1号』のイメージから連想する「青山正明=鬼畜」の図式が当てはまらないようなのである。これは自殺後に明らかにされた本性の一つだった。当時、ここに違和感を持った人も少なくなかったのではないだろうか。読者側が抱いていた「ドラッグ/鬼畜のカリスマ」という一方的なイメージが解体されていったのはここからだったし、この連載が始められた遠因にもなっている。
ここで、青山が言っていた「人生なんて死ぬまでの暇つぶし」という言葉の意味をもう一度考えたい。昔はそこに単純な無気力・虚無感しか見出せなかったが、自分の興味に忠実に生きていく青山の姿を追ってきた今なら、暇つぶしだからこそ楽しくなきゃ損じゃん、という解放的な意味で捉えることも十分可能だと思う。
今、手もとに『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』(1969年3月15日発行/田畑書店)という古い本がある。著者の一人である村木良彦氏は、序章で以下のように書いている。
「恥のみ多かりし三十余年の人生で<私>とは一体何であったのか。/私、私の眼、私の耳、私の声、私の手、私の血、私の存在、私の記憶、私の死、私の街、私の反逆、私の時間、私の虚妄、私のあなた、そして私のテレビジョン……。そこにはまっ白い空間の中をスローモーションで走るようなもどかしさがあるだけだ。/所詮、<生きること>は死ぬ迄の暇つぶしでしかない」
ワタシには、この文章はなんとなく死ぬ直前の青山の姿とダブって見えてしまう(妄想にタブーなし)。「\x87\x80多幸感\x87≠竍\x80快感\x87≠ナ心を満たす、ハイな気分で一生を送る」ことを目的に、ドラッグその他もろもろに手を出し続けてきた青山は、結局ハイな気分でい続けることはできなかった。しかし「死ぬときまで、ただでは死なない。俺たちにちゃんとネタを残す心使いを忘れてはいないのだ」というわけで、ある種の反面教師として使うのもアリだろうし、彼の軌跡を選択肢を修正しながら辿るのもいいし、その姿勢から学べるものは多いだろう。単行本化されていない膨大な量の原稿もまだまだ時代の隙間に眠っている。しんみりしている余裕などない。こんな無茶をするハッピーな人間がいたことを世界中に知らしめてやらないと、いつまたこんなヤツが出てくるかわからないのだから!
文=ばるぼら
参考文献
「鬼畜のカリスマ逝く! 青山正明追悼号」(2001年6月19日配信/サイバッチ)
『BURST』2001年9月号(2001年9月1日発行/コアマガジン)
『Quick Japan』38号(2001年8月28日発行/太田出版)
『裏モノJAPAN』2001年9月号(2001年9月1日発行/鉄人社)
『ダークサイドJAPAN』2001年10月号(2001年10月1日発行/ミリオン出版)
『アウトロー・ジャパン』1号(2002年1月18日発行/太田出版)
『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』萩元晴彦、村木良彦、今野勉(1969年3月15日発行/田畑書店)
『裏モノJAPAN』2001年9月号/鉄人社
『アウトロー・ジャパン』1号
太田出版
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新宿アンダーグラウンドの残影 〜モダンアートのある60年代〜
【プロローグ】 【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】 【7】 【8】 【本文註釈・参考文献】
ばるぼら ネットワーカー。周辺文化研究家&古雑誌収集家。著書に『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』『ウェブアニメーション大百科』など。なんともいえないミニコミを制作中。
「www.jarchive.org」 http://www.jarchive.org/ |
08.09.07更新 |
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