The ABLIFE October 2011
「あぶらいふ」厳選連載! アブノーマルな性を生きるすべての人へ
縄を通して人を知り、快楽を与えることで喜びを得る緊縛人生。その遊行と思索の記録がゆるやかに伝える、人の性の奥深さと持つべき畏怖。男と女の様々な相を見続けてきた証人が、最期に語ろうとする「猥褻」の妙とは――
悪人たちがふりまわす縄が私の目に入る。
私の欲情は高揚する。
このとき、このドラマを観ているのが
私一人であることを確かめると、
私はベルトをゆるめ、尻を浮かして、
いそいでズボンの前をひろげる。
私の欲情は高揚する。
このとき、このドラマを観ているのが
私一人であることを確かめると、
私はベルトをゆるめ、尻を浮かして、
いそいでズボンの前をひろげる。
私の家が、初めてテレビを購入したのは、私が何歳のころだったろうか。
当時の資料をこまかく調べればわかるはずだが、いまそれをやっているひまはない。
まだようやく二十歳をすぎたころだったろうと思う。
私の家には、私の両親がいて、弟妹たちがいた。
テレビは、玄関の戸をあけてすぐ入ったところにある四畳半のせまい洋間に置かれた。
そこは、家族の者ぜんぶがテレビを観るのに、つごうのいい部屋だった。
玄関の横開きのガラス戸をあければ、すぐに上がれる部屋は、近所の人たちがやってきて、気やすくテレビを観ることができた。
家にテレビを置いてある家庭が、まだすくない時代であった。
いまでは信じられないくらいに隣近所の付き合いが親密で、電話を貸したり、風呂に入らせてもらったりすることが平気な時代であった。
テレビ映像は、もちろん白黒である。
現代とは比較にならないくらいに技術的に低く、内容もチープなものであった。
電気紙芝居などと呼ばれていた。
しかし、たとえ小さな白黒の画面とはいえ(考えてみれば、映画館で上映される映画も当時はすべてモノクロであったが)時代劇や現代劇が、家庭の中の、自分の目の前で観られるのである。
映画館へ行かなければ観ることのできない俳優たちの芝居を、自由に独占できるのだった。
ドラマとはエロティックなものだ。
『白頭巾現わる』というタイトルの連続時代劇があった。主演は外山高士。
三十分で一話完結の時代劇であり、毎回のストーリーは、おそろしく単純であった。
悪人たちが娘を誘拐する。
それを、白頭巾で顔を隠し、白い着流しの衣装をつけた主人公の外山高士が、どこからともなく出現し、刀をぬいて、チャンバラの果てに悪人たちを斬り倒し、娘を救出してまたいずこへか去っていく。
私が夢中になって、この時代劇を毎回観ていたのは、クライマックスには、かならずと言っていいほど、ヒロインが縛られ、誘拐され、監禁されるからである。
美しい町娘が、一人で家を出て、すこし歩き、さびしい林の中の道を行く。
すると、とつぜん娘の前方に、パラパラッと立ちふさがる悪人たち。
この段階で、私はもう「縛り」を予感し、興奮して、勃起状態になってしまうのである。
話がここまできたら、あとはもうヒロインは、悪人たちの手に捕まるより他はない。
悪人たちがふりまわす縄が私の目に入る。
私の欲情は高揚する。
このとき、このドラマを観ているのが私一人であることを確かめると、私はベルトをゆるめ、尻を浮かして、いそいでズボンの前をひろげる。
パンツのかげから、勃起しているものをつかみ、ひきずり出す。
そして、画面の進行を、まばたきもせず凝視しながら、オナニーの準備をする(この準備の間に味わう快楽の、なんとも甘美なワクワクと言ったら、何物にも代え難いのだ)。
『白頭巾現わる』のような子供っぽいチャンバラ劇を、この時間に興味をもって観るのは、ありがたいことに、たいてい私一人だった。
父は仕事、母は夕飯の支度、弟妹たちは学校、近所の人たちも、こんなチャンパラ劇をわざわざ他人の家へ行って観るほどの物好きはいない(そう思うと、なぜこの時間帯にテレビなど観ているヒマが私にあったのだろう。ふしぎな気がする。いま考えてもわからない。六十年以上も前のことだ。わからないのは当然だろう。だが、心をせつなくふるわせ、快楽にまみれながら、『白頭巾現わる』を観ていたことだけは確かなのだ。このときの快楽があまりにも深く大きかったせいで、鮮明に記憶にのこっているのだ)。
三十分以内で完結するチープなチャンバラ劇は、たいてい私の期待どおりに話は進展し、娘は悪人のために危機におちいる。
私にとって、娘が縛られている時間は、長いほどいい。
が、どんなに長くても、せいぜい二、三分間で娘は助け出され、私の快楽の時間はあえなく終息する。
平均すれば一分間以内で、娘は縄を解かれる。
この一分間以内に、私は自分の快楽を自在にあやつり、絶頂に導いて、射精する。
映画館の客席のように、
「ガタガタ震えないでくれよ」
と隣席の人に叱られる心配はない。
家の者に怪しまれることがあっても、なんとかごまかすこともできる。
テレビのチャンバラ劇を観ながら、夢中で自慰行為をいる男が、同じ屋根の下にいるなんて、家の者は夢にも思わないであろう。
射精と同時に、すべての欲望は消滅し、私はテレビの前で目をとじる。
体内にふたたび精液が溜まるまでは、私の脳裏には、もう「縄」もなければ「女体」もない。
空漠たる灰色一色になる。
テレビの初期のモノクロ時代に、私の心にのこっているのは、この『白頭巾現わる』だけなのである。
この時代に高度な録画技術があって、あの低予算のチープな単純素朴な三十分間の時代劇を、そのままの形で観ることができたら、私はどんなにうれしいだろうか。
そして、どんなに興奮することだろうか。
高度な映像技術を駆使して、女体を虐待しぬくシーンを克明に撮る現在のビデオとくらべた場合、手作りの竹とんぼと、リモコンで空を飛ぶ精巧な模型飛行機ほどのちがいがあるだろう。
もちろん私は竹とんぼのほうに興奮し、欲情する。
その興奮も欲情も、「むかしはよかった!」式の、単なる追憶や懐古趣味ではないことを断言する。
私は緊縛マニアとして、またSMマニアとして、勃起する対象があれば、むかしのものでも、いまのものでも、正直に勃起するし、どんなに股をひろげて挑発してくれても、勃起しないものには、頑として勃起しないのである。
(続く)
『濡木痴夢男の秘蔵緊縛コレクション1「悲願」(不二企画)』
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