The ABLIFE November 2011
「あぶらいふ」厳選連載! アブノーマルな性を生きるすべての人へ
縄を通して人を知り、快楽を与えることで喜びを得る緊縛人生。その遊行と思索の記録がゆるやかに伝える、人の性の奥深さと持つべき畏怖。男と女の様々な相を見続けてきた証人が、最期に語ろうとする「猥褻」の妙とは――
私は頭でっかちの、いわゆる「ませた」ガキであった。
うわべだけは従順な優等生に見せかけていても、
心の奥底では、体制側の人間たちが忌み嫌うものを、
ひそかにはぐくんでいたような気がする。
うわべだけは従順な優等生に見せかけていても、
心の奥底では、体制側の人間たちが忌み嫌うものを、
ひそかにはぐくんでいたような気がする。
「縛」という一つの活字を見ただけで、勃起してしまうという少年時代が私にあったと前に書いた。
「縛」という文字からは、ふつうは「縛る」あるいは「縛られる」という行為のイメージに想像がつながる。
しかし、どんなに「縛」という字に衝撃や執着を感じても、子供の私には、人間がとくに女性が縄で縛られているという具象的なイメージにつながることはなかった(いや、いくら子供でも、もしかしたら、そういう具体的なイメージも、意識下にあったのだろうか)。
「縛」という一字にそんなに興奮するのだった、妄想だけでなく、だれか他人を縛りたい欲望とか、あるいは自分自身が縛られたいとかいう願望が、そのとき私にあったのか、と考えると、それはなかったように思う。
昭和初期という世界的大戦争が始まる前のキナ臭い、不穏な時代である。
そんな不気味に緊張した息苦しい時代に、「縛る」などというおそろしい、非論理的なことは、イメージするだけで、自分が途方もない、反社会的な、犯罪者にでもなったような気がする。
私は教師たちには評判のいい優等生で、無口でおとなしい性格の、臆病な少年だった。
ただし、妄想は自由であり、そして、縄で縛られた人間を、物語の中ではいつでも見ることができた。
それは小説の挿絵であり、映画であり、その他の物語、つまり絵本とか紙芝居のようなものの中にも、縛られている人間はいた。
架空の物語に登場するのだったら、どんなに不道徳な、反社会的なものでも、自由に生き生きと躍動させることができる。
私は頭でっかちの、いわゆる「ませた」ガキであった。うわべだけは従順な優等生に見せかけていても、心の奥底では、体制側の人間たちが忌み嫌うものを、ひそかにはぐくんでいたような気がする。
少年の私が、縛りのシーンをもとめて場末の映画館へ通い、やがてテレビが娯楽の王者として普及される時代に入ってからは、小さなフレームの中で、おもしろおかしく下品に展開するドラマ群に夢中になったのは当然であった。
現在に至っても、私は中断することなく、映像の中に現われる縛りのシーンを愛好し、興奮し続けている。
少年期を脱してからは、他人のつくった縛りのシーンに夢中になるだけでなく、自分でその種の映像をつくる側になり、それがいつのまにか職業になってしまった。
そのきっかけやら何やら、その時おりおりの私の心の動きについては、のちにこまかく書くことになるだろう。
ここで私はもう一度、少年期の自分に話をもどさなければならない。それは私にとってたいせつなことなのだ。
女性器の中に男性器が挿入され、精液が射精されて、その結果、妊娠して子供が生まれるという、驚愕すべき事実を私が知らされたのは、小学校六年の終わりの頃であった。
近所にいる尋常小学校高等科(そういう二年制の教育が当時はあった)へ通う先輩が、いたずらっぽい口調で、からかうように私におしえてくれたのだ。
その先輩はいわゆる「悪童」タイプであり、教師に媚びて優等生ぶっている私の心を、なぶるように、卑しく下品に、大人の性の秘めごとを、くり返して私の耳にささやくのだった。
そういうことが本当にあるのか、と私は思い、信じた。私は大人の性に関しては、まったく無知な少年だった。
先輩からおしえられたその極彩色の男女の秘めごとのイメージは、私に衝撃を与えた。
醜い形をもった男根で、自分の肉体を侵されねばならない女とは、なんという哀れな存在なのだろう、と私は直感し、胸を痛めた。
女は、男からそういう「乱暴」をうけるとき、きっと、かなりの「苦痛」を味わうにちがいない、と私は思った。
その毒々しいイメージは、性に関しての私の観念を、さらにドラマティックに発展させた。
つまり、男と女の性行為というものは、男には快楽であっても、女性側の身になってみれば、快楽どころか、かなりの苦痛に違いない、苦痛ではあっても、女は男の一方的な快楽のために、じっと歯を食いしばって、耐えねばならない、というイメージであった。
あの忌まわしい、暴力的な形状をもった男性器を、体内深くねじこまれて、女性が快楽なんて感じるはずがない、と私は信じた。
ずいぶん長いあいだ、二十歳をすぎることになって、春本その他のエロ小説を読むまでは、そう信じていた。
そして私はまたここで告白してしまうと(ああ、これこそ恥ずかしい、本来ならば秘めておかねばならないことなのだ!)多くの男たちが憧れ、そして執着する女の性器に対し、魅力とか愛着などを感じたことはなかったのだ。
さらに告白すると、女の性器は不潔で醜怪で、汚らしいもの、見苦しいもの、というぬきさしならない観念が、私にある。いまでもある。
こんな私が、皮肉にも、のちのち、緊縛写真の撮影現場で、数千人の若い女性の、むきだしの性器と対峙しなければならない職業につくことになるのだ。
もう一つ言ってしまえば、女の股倉に関心のない分だけ、私の性の欲望は、「縄」そして「緊縛」に向かうのである。
私の縛りが、レイプを目的としたものでないことが、これでおわかりだろう。
そしてまた、さらに言わせていただければ、レイプを目的とした「縛り」に、「魂」がこもるはずはないのだ。
私の「縛り」は、「縄」自体に、私の欲情のすべてが刻みつけられ、「魂」しみこんでいるかたまりなのだから。
(続く)
『濡木痴夢男の秘蔵緊縛コレクション1「悲願」(不二企画)』
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