WEB SNIPER's book review
日本の現在に切り込む、若き俊英の徹底討論!
震災が露呈させたものとは何か? 情報社会とサブカルチャーの戦後から最先端までをふまえ、日常と非日常が交差する日本社会の現在を徹底分析する――。『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)の宇野常寛と『アーキテクチャの生態系』(NTT出版)の濱野智史が、ありうべき日本社会の姿を探り出すべく、迫真の対話を展開。本書の序文で宇野常寛は、『希望論』というタイトルが「嫌で嫌で仕方なかった」と述べている。その理由は「まるで、「君たちは絶望的な世界で生きている」という前提でものをとらえ、考え、生きることを強いられているようだ」からだという。
近頃、『絶望の国の幸福な若者たち』(古市憲寿)という著書が話題になっているが、どうもこの国が「絶望」的であることは大前提となっているようだ。たしかにここ二十年以上、この国は政治が混迷し、経済が停滞し、おまけに昨年は東日本大震災というダメ押しの一発に襲われた。こうした現実を見るに、日本は「絶望」に覆われているように思われて仕方ない。しかし、だからといってシニカルに「絶望」を言い募る(もうこの国はダメだ)のも、アイロニカルに「希望」を語る(ダメでも何となく幸せだからいい)のも安易にすぎる。本書で宇野と共著者の濱野智史が探ろうとしているのは、そのどちらでもない第三の道――どこまでも「マジ」な「希望」である。
本書の内容は、震災復興や政治の未来といった話から、ニコニコ動画やAKB48といったサブカルチャーの話まで多岐にわたる。まさにこの二人だからこそ、といった射程範囲の広い本だ。そのため、本書の内容を要約するのは難しいが、彼らの試みは大まかに言って日本のインターネット環境に(アイロニカルではなくマジな)「希望」を見つけ出そうというものである。
それでは、その「希望」とはどのようなものなのか。一例を挙げておこう。本書で濱野は、『ウェブ進化論』の著者・梅田望夫と「2ちゃんねる」の管理人・西村博之の比較を行なっている。梅田の主張は、ブログなどのインターネット技術によって総表現社会が到来し、日本にもアメリカ的個人主義が浸透するだろう、というもの。対する西村の主張は、日本のインターネット環境では2ちゃんねるやニコニコ動画といったネタ的なものしか流行らない、というものだ。濱野はその両者に対して批判的である。梅田的な主張はすぐにシニカルな絶望論へと落ち込んでしまい(梅田は自分の当てが外れたことに対し、「日本のWebは残念」と述べている)、西村的な主張は「ネットは面白ければそれでいい」というアイロニカルな希望論に直結してしまう。そこで濱野は、そのどちらでもない第三の道があるはずだと主張する。それは、2ちゃんねるやニコニコ動画といった、日本独自のネットサービスを現実の政治や地域サービスへと実装するというものだ。
こうした方向性は、本書では「拡張現実」と呼ばれる。この概念は宇野の近著『リトル・ピープルの時代』でもキーワードとなっているもので、虚構(ヴァーチャル)によって現実(リアル)を読み替えるような技術、現象のことを指している。具体的には、iPhoneのアプリ「セカイカメラ」(カメラ機能によって現実の風景に店舗情報などが付与されるというもの)やアニメにおける「聖地巡礼」(アニメの舞台となった土地をオタクが訪れるという現象)などが挙げられる。宇野と濱野はこうした事例を挙げて、リアルとヴァーチャルの間に垣根がなくなっていると述べている。
両著者はこうしたリアルとヴァーチャルが渾然一体となった現状を冷静に分析しつつ、そこに「希望」を見てとる。なぜならば、資本主義経済とインターネットが国民国家の枠を超えて拡がっている今、何がリアルで何がヴァーチャルなのかを区別することは非常に難しくなっているからだ。たとえば、宇野はその例として「政治」と「文学」の関係を挙げている。冷戦構造がつづき国民国家が機能していたかつてにおいては、「政治」=リアルに対して、「文学」=ヴァーチャルによって対抗できるという幻想を持つことができた。しかし、現代社会においてはそのような幻想はもはや機能しえない。
それでは、こうした世界の現状において、どのような見通しを持てばよいのか。ここで宇野の発言を引いておこう。
貨幣と情報のネットワークによって世界がひとつに繋がると、当然〈外部〉はなくなってしまいます。〈ここではない、どこか〉が存在できなくなってしまう。そんなときに、人間の想像力はどこへ向かうのか。内部に逼塞するほかないのかというと、そんなことはない。〈内部〉の、〈いま、ここ〉にどこまでも深く潜っていくことで想像力を発揮できると僕は思っています。
つまり、リアル=〈内部〉に対して、単純にヴァーチャル=〈外部〉を立てるのは現状では不可能になっており、それならば〈内部〉に徹底して潜るという戦略を取るべきだということだ。ここで注意しておくべきは、宇野が「内部に逼塞するほかないのかというと、そんなことはない」と述べていることだ。〈内部〉に「逼塞」することと、〈内部〉に「潜る」こととは異なる。宇野が述べているのは、〈内部〉と〈外部〉の二項対立で考えるのではなく、〈内部〉の奥底にこそ〈外部〉を見出そうということだ。
本書の第\x87T章では、原爆と原発の比較がなされている。原爆はアメリカという〈外部〉によって、広島、長崎に投下されたものであった。それに対し原発は、日本という〈内部〉の問題である。東日本大震災によって引き起こされた原発事故は、核が〈外部〉からもたらされるものではなく、〈内部〉に抱え込んだものであるという認識を、私たちに再確認させた。これを受けて、日本人の多くはシニカルな絶望論とアイロニカルな希望論に二分されてしまったように思われる。
震災は多くの命を奪い、原発事故は放射性物質を日本中にばらまいた。これはもはや取り返しのつかない事実である。そこで、この国はもうダメだと言い募ったり、ダメでもいいやと開き直ったりするのは楽だ。だが、そんなことで本当によいのか。この国が未曾有の危機に置かれている今だからこそ、われわれは「マジ」な「希望」を語らなくてはならないのではないのか。この現実=〈内部〉を誠実に受け止め、その奥底に眠っているはずの「希望」を見出し、掘り起こすこと。今必要とされているのは、そのことであるはずだ。
最初に紹介したように、宇野は本書のタイトルが「嫌で嫌で仕方なかった」と述べてはいる。しかし、この状況において『希望論』と題する本を出したこと、しかも著者二人の言葉がどこまでも「マジ」であること。まずはその勇気に敬意を表したい。
文=しねあい
希望論―2010年代の文化と社会 (NHKブックス No.1171)
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