WEB SNIPER's book review
『さりながら』の著者による刺激的な日本論
「テル・ケル」の影響を隠さないフォレストが体現する仏文学者としての態度は、極めてテマティックなものである。それは彼がエピグラフとして利用するプルーストの言説からも明らかだ。「美しい本はみな一種の外国語で書かれている。読者は[...]往々にして意味を取り違えたものだ。しかし美しい本の場合には、そのような意味の取り違えがすべて美しいものである」(40頁)。むろん、この言葉は誤読が単に美しいと言っているわけではない。そこにある言葉が、運命的に、そこにないものを指し示してしまうとき、その亀裂や歪みにおいて、ある種の夢が垣間見えてしまうこと――。そこに美が宿るとプルーストは言っているのである。この考え方は、『失われた時を求めて』において、マドレーヌの一口の味わいから、過ぎ去った一生分の世界が不意に現前してしまったようなことと対応している。そこで思い出されたことはある種の夢のようなものであり、ここにあった現実ではない。しかし、にもかかわらずそこで想起された経験は極彩色のものとして長大な作品の根幹を支えたわけだ。
このような発想は、後に、テマティスムの旗手であったジョルジュ・プーレやジャン=ピエール・リシャールによってより鮮明に理論化されることとなる。そこではすなわち、テクストを構成する言葉たちが、読者に見出されるにおいて不意にテクストとは異なった別の体系を暗示してしまうのであり、そこにこそテクストの固有の生命や可能性があったとされた。このように現われてくるテクストの可能性はなるほど夢に似ており、しばしばそれは「テクストの見る夢」などとも表現されたりする。美とは、このような夢の現われに伴う、読者とテクストの間の、固有の経験の目眩として表現できるだろう。
読者が記号と戯れることによって生じる夢の領域が美的だということを言い換えれば、そこにはある種の楽園的経験が現前していることになる。フォレストが「取り違え」を重視するのは、このような楽園をまさに経験するためである。すなわち、彼の理論においては、いわばテクストと読解の間に乖離があることによって、むしろその乖離がひとつの距離を生み出し、そこを行き来する主体があるからこそ、楽園的経験が可能になっているのである。ゆえに本書は『夢、ゆきかひて』と名付けられている。
しかしながら、こういう楽園の想定はそれ自体がノスタルジックな営みである。ノスタルジーとは郷愁を意味するが、本書におけるそれはまずもって文体的な水準に現われている。それはむしろエキゾチズムと言ってもよい。本書は、フォレストが欲望した日本の姿の再現たるテクストだ。しかもそれは手の込んだものである。小林秀雄や中原中也、大江健三郎などに言及する本書の様子はいっけん明治から昭和初期にかけての失われた日本を舞台としているように見えるが、むしろその文章の雰囲気は、それこそニューアカデミズムを準備したような日本的フランス文学・思想受容をまさに体現したものとなっている。つまり、現代のフランス人日本文学者が書く文章が、昭和後期における日本人フランス文学者・思想家の書くような文章に似通ってしまっているという逆説がある。ここに現われた無邪気さは、すでに日本では手放しでは受け入れられないものとなっているように思われる。にもかかわらず、本書がそのままに受け入れられるのだとすれば、それはもはやノスタルジックというよりもアイロニカルであろう。
ノスタルジーのもう一つの問題は、上記のように、本書があるタイプの日本人にとってまさに懐かしいテクストとして現われていることのほかに、本書が理論的に探求するところの「取り違えの美しさ」それ自体がノスタルジックな機能を持っているということだ。私が考えるところ、ノスタルジーは単なる思い出の想起である以上に、「失われたものに対する感情移入」である。そのとき失われたものは、むしろ私たちがかつて経験したことがなかったような風景の経験である。たとえば『ALLWAYS 三丁目の夕日』の風景は郷愁を誘うが、その風景は少なくとも私のような、あるいは私よりも若い年齢層の人間にとっては自明ではない。しかし、にもかかわらずそれはノスタルジックなものとして扱われる。これは上述の映画ばかりのことではない。それこそ小林秀雄は「故郷を失った文学」という文章で、むしろ故郷とは失われたものであるということを論じている。
少なくとも本書が捉える美とは、このような意味でノスタルジックである。フォレストは、取り違えによって生じた距離の間で躍動するものを美と捉えているが、それは単にベルクソン的な生の躍動(エラン・ヴィタール)というものではない。そのような躍動が、常に取り逃される真なる対象としての美を隠喩するものとして働いているがゆえの美の感覚である。真なる対象――それはまさにマドレーヌによって惹起された夢の全容とも言えるものだが、しかし、それは夢である。それは篝火を頼りに暗闇の洞窟を探求するような営みだ。小説をめくっているその運動の間だけ篝火は灯される。後に残るのはせいぜい地図のようなものだけ。しかしそれは生きた経験ではない。常に取り逃がされ、動き続ける中でしか隠喩されない対象が本書における美であり、ゆえにそれを求めることはノスタルジックなのである。
この議論においてむしろ重要なのは「無意味」や「意味の免除」である。しかし、それは少なくとも本書前半においては単に回避されるものとしてしか存在していない。しかも、仮にそれが重要な問題であるとしても、そのことすらすでに繰り返された議論でしかない。いきいきとした記号の自然を描こうとしたヌーヴェル・クリティックに対し、記号の廃墟としてテクストの物質性を体現しようとしたヌーヴォー・ロマンがそうであったように――しかしそれすらもすでに半世紀近く前の出来事である。
本書がその後半において東日本大震災を取り上げているのは、たまたまこの時期に震災が起きたからであるという点では偶然である。しかし、その偶然は、本書の思考に独特の意義を与えている。というのも、本書の立論に対する厳しい批判としての「記号の廃墟」という問題を、記号ですらない「廃墟」の惨状から考え直す必要性に衝迫されているからだ。
その多くは苛立たしい饒舌である。紙幅を割けば割くほど、知識人の言説で彩れば彩るほど、むしろそこで言葉は空虚な廃墟の記号となる。「その日、日本が経験したすさまじい難破の真の犠牲者たちの命を断った悲劇について、本人ならばどのように語っただろうか、わたしたちはその物語を知ることはけっしてない」と言いつつも、彼は言葉を織るのをやめない。ここでは、そもそもこの文章が日本人に向けて書かれたのではなく、フランス語読者に向けて書かれたのだという事情を考慮すべきだろう。そう考えれば、日本人にとっては苛立たしく思われる典雅な饒舌も、むしろそれ自体が、記号が真実を直視できないことへの持ち堪えであることが窺えてくる。それは、なるほどかつて文学として考えられた営為であり、むしろ、本書前半にて描出された楽園的な文学観よりも遥かに切実である。しかし、まだそれは通りすがりの人物の随想という域を出ていない。
フォレストの言語が、その限界に肉薄し始めるのは、畠山直哉の写真に言及し始めてからである。本書では、畠山の手になる「ナチュラル・ストーリーズ」という展覧会と、その写真集である『気仙川』が扱われている。『気仙川』の特徴は、2000年代前半に取られた写真と、震災後に取られた同じだったはずの写真が並置されていることだ。その並置はむろん断絶を否応なく強調するが、フォレストは、むしろそのような写真集のコンセプトが、むしろ畠山の震災以前からの作品性として通底していたものだと考える。なぜならば、写真はそもそもが瞬間を切り取ることしかできないものだが、しかし切り取られたものはもはや「瞬間」という時間=現在ではありえないからだ。並置された震災前と震災後の風景には、なるほどその破局の瞬間そのものが欠如している。そのような条件を召喚せずとも、そもそも写真とは「喪の試練(プリント)」だったのではないか、と彼は語る。
このような視点は、本書の意義をアイロニカルに書き換えるだろう。というのも、写真は、目の前の生き生きとした風景を切り取りたいと欲望しようとしても(あるいはしなかったとしても否応なく)、別な瓦礫を生産してしまう。それは切り取りたかった生き生きとした瞬間そのものではない。ところで、隠喩の体系に生き生きとしたもう一つの「故郷」を見出そうとしたフォレストの視線は、むしろ写真家の営みと正反対のものに見えてこないだろうか。だとしたら、彼が写真について語ることは何を意味してしまうのか。
――それは佇むことである。喪の作業とは、多様な感情を含みこんだ儀式であるが、いずれにせよ明らかなことは、過去を召喚して取り戻そうとする作業ではないということだ。むしろそれは、しばしば失われたものに拘泥してしまう我々と、失われてしまったものとの決別の作業として行なわれる。しかしながら、そのような決別は容易には行なわれない。私たちは過去に縛られて生きているし、だからこそ現在や未来というものを想定して生きていくことができる。きらびやかな悲劇でなかったとしても、私たちの経験は、ポジティブに言えば躍動的に流れ、ネガティブに言えば常に失われ続けるものとして生起する。小林秀雄が「様々なる意匠」について語るとき、他の様々なもので有りえたはずなのに今このような自己である、という認識について述べたことは、その点で、過去に縛られざるを得ない人間というものに対する憐憫であり、これ自体が彼の「喪の作業」である。彼は決して、そのとき、他のありえたかもしれない選択肢に対して執着を語っているのではない。即ち、喪の作業とは、そのありのままの現実に佇むことである。そこでは、ありとあらゆる可能性と、いかなるものも排除した瓦礫のような無意味が表裏一体となっている。写真という瓦礫は、生き生きとしたものを取り逃がし、別なものを表象してしまった。そして、それに相対する体験は、私たちの時間を一時停止させる。その一時停止は黙祷に似ている。もちろん、黙っているかどうかは大した問題ではない。停止を受け入れることが必要なのだと、躍動的な美の経験について語っているはずの本書が、期せずして述べてしまっているように私には思われる。だからこそフォレストは、写真の経験から容易に脱出してしまわないように、華美にすら思われるような饒舌でもって、その写真のフレームからはみ出さないように、ひたすら耐えようとしているのではないだろうか。
文=村上裕一
『夢、ゆきかひて』(白水社)
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