web sniper's book review 平坦な戦場で僕らが生き延びること 『リバーズ・エッジ 愛蔵版(宝島社)』 著者=岡崎京子 文=さやわか
90年代の閉塞感を圧倒的な力量で描いた傑作「リバーズ・エッジ」。ゼロ年代を今まさに通りすぎようとしている私たちは、この物語をいかにして読むべきだろうか。 |
岡崎京子「リバーズ・エッジ」のハードカバー愛蔵版が出るそうだ。
この本はもともと93年から94年にかけて連載され、出版されたものである。実に15年の歳月が流れているわけだ。今、この物語がもう一度出版されるとして、そこに何か意味があると言えるだろうか。
改めて読み直してみると、この物語は「繰り返される日常」に対して非常に意識的であろうとしている。全編を通して、同じセリフ、同じシチュエーション、同じ構図が繰り返されることがあまりに多い。例えば冒頭にも登場する、「ポチ」という犬を連れて河原を散歩する老人。あるいは「そんなマズイうどんよく食べられるにゃあ」「だってくせになっちゃったんだもーん」という昼食中の一見すると他愛ない会話も繰り返されるものだ。そして不吉な噂話をダベり合う夜釣りのシーン。大きな橋を渡るシーン。志村けんのテレビ番組名。二度とも失敗する「UFOを呼ぶ」という行為。「ここから海はそんなに近くないんだけどたしかに海の匂いがした」というモノローグ。物語の冒頭とラストに掲げられる「あたしたちの住んでいる街には河が流れていてそれはもう河口にほど近く広くゆっくりとよどみ、臭い」という文章。ありとあらゆるものが繰り返され、日常はループし続けている。
このループする日常の中では、もはやすべてのことはやり尽くされている。ここに新しい出来事はなく、あらゆることが起こりうる。そのことは、この本のあとがきの次のような書かれ方によって端的に表現されている。「惨劇が起こる。しかし、それはよくあること。よく起こりえること。チューリップの花びらが散るように。むしろ、穏やかに起こる。ごらん、窓の外を。全てのことが起こりうるのを。」登場人物たちには、もはやその「すべてのことが起こりうる」ループを、いかにやり過ごすかということしか選択肢として与えられていない。いかなる努力をもってしても新たな選択肢は出現しない。
ループしているかのように繰り返される日常を物語構成上の反復として描くという手法は、フィクションにおいてはむしろゼロ年代以降になってから、さらに盛んに描かれるようになったものだ。今ではサブカルチャー一般にとってごくありふれた表現であると言ってもいい。顕著な例を挙げれば多くの美少女ノベルゲームは、こぞってそのようなループ構造を作品の中に持ち込んでいる。それらのゲームはプレイヤーがゲームを繰り返しプレイし、同じテキストを繰り返し読むという経験自体をループする日常の象徴として扱う。そして「ひぐらしのなく頃に」(二〇〇二、07th Expansion)や「CROSS†CHANNEL」(二〇〇三、FlyingShine)などの作品は、そのループからいかにして抜け出すかということを主題とすることで、フィクションの表現と我々の生の両方が置かれた現状を示唆しつつ、そこからの脱却を目指す、ある種のメタフィクション的として結実した。
では、それらの物語から15年も先行してこのようなテーマを描いた「リバーズ・エッジ」はループからの脱却を考えることはなかったのだろうか。必ずしもそうではない。登場人物の一人である山田は、彼が河原で発見した死体に「ループする日常」の外部を感じて、「この死体をみると勇気が出る」と述べる。彼は「いつか終わりが来る」ことの象徴としてある死体を偏愛したのだ。あるいは繰り返される「UFOを呼ぶ」という行為とは、「外部」や「物語」に対する、「終わりなき日常」からの絶望的な呼びかけに他ならない。登場人物たちは日常の中にあってゼロ年代のメタフィクションの登場人物のようには振る舞えず、あまりに消極的な手段しか採れないでいるが、しかしそこには確かにループの外部に対する憧憬が伺える。
しかしこの物語においては、もちろんそんな安易な外部などは許されない。登場人物たちにとって重要な拠り所になるかもしれなかった死体は物語の半ばにはあっけなく失われてしまい、そこから外部を感じようとする試みは断念させられる。またUFOだって何度呼ぼうがもちろん降りてこない。だからここには救いがない。この物語は死体の存在やUFOへの呼びかけによってループの外部を志向しつつ生きながらえていこうというものではなく、ループの外部を断念せざるを得ないところで行き詰まりを向かえるものとしてあるのだ。
では登場人物たちは、もはや何をもすることはできなかったのだろうか。90年代の閉塞感を描いた物語として、そういう結末はふさわしいものであるようにも見える。しかし、そうではない。親友が妊娠していたことを全く知らなかったことに気づいた結末において、それまで物語において最も日常を安寧に生きていたように思われた友達が、「あたし達仲よしだったけど何もルミちんのこと知らなかったね」「何か…何も出来ないけどきっと…でも…何か言ってくれれば…喋ってくれれば…良かったのに…」と初めて自覚的なことを述べる。そこで主人公は気づくのだ。「本当にそうだ/あたし達は/何かを隠すために/お喋りをしてた/ずっと/何かを言わないで/すますために/えんえんと放課後/お喋りをしていたのだ」と。
彼らが隠そうとしていた「何か」とは何だったのか。それを隠さないでいれば、少なくともループの中で彼らは満たされたかもしれないし、あるいは後に世に出た「ひぐらしのなく頃に」がまさにそうであるように、互いが打ち明け合い、理解し合うことが、ループの外部へと至る道を発見する唯一の方法であったかもしれないのだ。岡崎京子はそのことをよく理解し、間違いなく最後にその可能性を示唆している。だからこの物語は、ゼロ年代には珍しくなくなった「ループする日常」を描いた作品として嚆矢であるだけでない。その隘路に至った我々が、そこからいかにして脱却すべきなのかということを知るためにも、これは今なお参照し続けられるべき物語である。
文=さやわか
『リバーズ・エッジ 愛蔵版(宝島社)』
著者=岡崎京子
ISBN:978-4796666985
価格:1680円
発売日:2008年10月10日
発行:宝島社
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さやわか ライター/編集。『ユリイカ』(青土社)、『Quick Japan』(太田出版)等に寄稿。10月発売の『パンドラ Vol.2』(講談社BOX)に「東浩紀のゼロアカ道場」のレポート記事を掲載予定。
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