WEB SNIPER's book review
これからの対抗運動の創造的なありかたを
伝える希望の書
伝える希望の書
本書は2014年3月に勃発した台湾における立法院占拠騒動――通称"太陽花運動"の去就を捉えた写真集兼"理論書"である。私たちはまさにここから「革命のつくり方」の原理に肉薄できる。政権の馬総統が国民党の代表を辞任し事実上のレームダック化した今、"太陽花運動"は一定の成果を上げたと言える。本書はそのかつての臨場感を伝える最良の手引きであると同時に、その個別的な問題を通じて本質的で普遍的なものに繋がる経路が開かれた書物となっている。私は本書最大の意義をその理論的な射程に感じる。
その理論的な内容を暴力的に要約すれば、政治を言語の水準から考え直すということだ。しかし、これは極めて抽象的なことである。言語というのはその場その場の言葉遣いであるのはもちろん、認識を可能にする象徴秩序やその作用、主体の在り方、それから階級闘争や植民地主義――即ち権力――の問題を含んでいる。このような知的問題設定は、運命的に暴力的でなければならないような革命行動の実力とどうしても乖離してしまう。とりわけ革命による王政からの権利獲得の前史を持たない日本においてはその乖離がより切実な問題となる。
本書が優れているのは、ジャック・ランシエールに由来する言語的政治哲学観を受肉させるような分析が、著者の港千尋の手によって成されているからだ。この言い方はある意味で倒錯しているかもしれない。港が見た台湾の風景にまさに受肉した革命行動の姿があり、それがランシエールの議論を召喚したものと言うべきかもしれないからだ。台湾の事件はランシエール的な理論に牽引されて起きたわけではない。しかし、ランシエールが前提にしていたような革命の現実はまさにこのようなものだった可能性がある。もちろん、散文として単独で成立する理論枠組であれば喜ばしいが、理論に対応する実感がなければ読み解くことが難しい文章があることは認めなければならないだろう。具体的には以下のような場面に臨場感が宿っている。それは、占拠によって機能が停止した立法院での一幕である。
ここで奇妙なことが起きる。議長席に着けない委員会招集人は自ら持参したマイクロフォンを取り出し、議場全体に向けて協定は審議されたものとし、本会議に送付すると宣言したのである。(...)
この招集人が取り出したマイクロフォンは議会に備えられているわけではなく、個人的に用意したものであったという。すると、こういうことが考えられる。議場が混乱すれば議長席のマイクを使えないことを知っていた彼は、あらかじめ拡声用にマイクを持って議会に臨んでいたのだろう。これは代表制民主主義が成立している、空間の具体性を示している。議会の開催を宣言する人とその身体的な移動、その人の発声を可能にする配置、声を拡大するためのメディアの存在......といった空間と身体の条件を招集人は彼なりに理解した。拡声用のメディアを使うことによって例外的な状況を有利に使用すること、それ自体はひとつの工夫である。彼は法の空間を彼なりに調整し、その上で審議の打ち切りを宣言したのだった。それはたった一人の人間による行為だが、民主主義的に選ばれた「代表」の一人による、代表された国民にたいする裏切りの行為であった。(本書一六~一八頁)
この状況を改めて概観すれば、オキュパイに臨んだ側は、宣言などの象徴的行為を物理的に停止させることで、民主主義の悪用を阻止したと言える。確かに占拠は実力行動だし暴力的でもあるのだが、民主主義を破壊したわけではない(暗殺を典型とするようなテロリズムやクーデターとは全く言い難い)。むしろ、代表権を悪用した政権の横暴を、民主主義のルール内で身体を張って停止させたものである。このような民主主義の悪用とは、簡単に言えば解釈権の濫用である(政権は集団化した市民を「暴徒」と呼ぶことができる!)。その点で、法曹や医師と同等以上に政治家にも高度な倫理観が求められる。そしてそこに倫理観の欠如が見られたなら、私たちは自らの権利を守るために立ち上がらなければならないだろう。もちろん、現実的に考えればイシューごとにいちいち選挙=占拠をして信を問うわけにはいかないが、だからこそ政治は、自分たちの正統性の期限や限界に敏感でなければならない。
さてこのとき、オキュパイという戦時下ないしは例外状態において「委員会招集人」が取った行動は示唆的である。議会のマイクを使わなければならないという規則がおそらく存在しない中で、彼は「宣言」を可能にする条件として、肉声の大声では駄目で、拡声器による空間の占有――あたかも市民の占拠に対抗するように――が必要だと認識していた。本書ではそこまで強調されていないことを述べれば、マイクを利用して審議の打ち切りをしたことは論理的かつ法的に正しい手続きに則っている。だがそこには二つの問題がある。一つは実際に審議が行なわれていないということだ。従ってこの打ち切り宣言は、(機能的に)嘘ではないが、全く空虚な言葉に成り果てている。まさに「解釈権の濫用」だ。そしてもう一つは、この例外状態にも拘わらず、手続き的に言えばいつもと同じことをしようとしたという点で政治の空虚がある。つまり、ここには一切の調整がない。通常と同じように見える表衣をまとっていながらも、むしろそのことによって政権側は決定的に民主主義を裏切っていたのだ(もちろんそれを民主主義や制度の欠陥と言い換えても構わないのだが......)。
閑話休題。何よりも重要なのは、ここに物理的操作による象徴秩序への干渉があることだ。この干渉経路のリアリティが抵抗や革命の源泉ではないだろうか。この構図は、日本人にとっては、国家の基本法というメタレベルそのものであるような規律としての憲法が、そうでありながらも戦争や天皇制そして自衛隊といった極めて日常的な問題と伴走していることにより、抽象的でありながらも臨場感を持って思考することが可能だという状況とパラレルであるようにも思われる。
私はこのようなことを考えていると、一つの歴史的議論を思い出す。それは三島由紀夫と東大全共闘が、東大の900番教室で交わした討論である。そこでは、革命暴力の具体性と比較して極めて抽象的な肉体概念・空間創出・時間持続の問題が議論されていた。それに加えて美や天皇や日本人の問題も議論されていた。前者に比べれば後者は具体的である。だが、それが何だというのだろうか。革命とどのような関係を結ぶというのだろうか。私は長らくそれが分からないでいた。三島と全共闘の司会が議論している中、聴衆の全共闘が「そんなのは観念界のお遊びなんだよ!」と野次を飛ばす場面があった。その通りとしか言いようのない瞬間が幾重にもある。だが、なぜ彼らはそれに拘ったのだろうか。
もうこの場では展開することができないが、すでに問題は分裂している。三島には文学があった。全共闘にはそれがなかった。しかしながら全共闘は占拠によって政治的実力行動を行なっていた。実力と文学はどちらが優越するのだろうか。全共闘の熱狂は、この討論が行なわれた翌年には消沈していた。と同時に、三島もまた翌年には壮絶な自決を遂げていた。そのことは、実力も文学も空虚であることを示唆しているのだろうか。それとも、その両者ともが革命的な「力」には到達していないということなのだろうか。台湾や香港の「運動」が、遅れてきた全共闘でない保証がどこにあるのだろうか。それともウクライナのユーロマイダンがそうであったように、血を伴った暴力的弾圧が発生し、民主主義そのものを破壊するような本当の「内戦」が発生してしまうのだろうか。そしてそれはそうであるべきなのだろうか。
この点から言って、本書は独立した記録であるが、それのみを以って扱われるべきではないと考える。むしろ、ウォール街占拠やアラブの春を皮切りとする現代的な革命事件史の一つの典型例として、あるいはその入り口として読まれるべきであるだろう。それと同時に、東アジア的に言って、私たち日本人が背景としてきたはずの戦後史の中でずっと駆動し続けていた、進行中のプログラムとしての民主主義を分析したものとして読まれるべきであろう。私たちは、いつでも「運動」の当事者になりえるし、すでになっているのかもしれないのだ。
文=村上裕一
『革命のつくり方』(インスクリプト)
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