A tribute to Dan Oniroku
追悼 団鬼六 |
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証言「私と団鬼六」〜谷ナオミの時代へ
日本人のSM観に多大な影響を及ぼした小説家・団鬼六氏。それは団鬼六というひとつのジャンルであり、日本における官能という文化を語る時、避けては通れない歴史の分岐点でもあるでしょう。去る5月6日に永眠された氏を悼み、WEBスナイパーでは「追悼 団鬼六」と題した特集記事を掲載して参ります。第4弾では往年に団鬼六氏と交流のあった方々にお話を伺い、その頃の空気や団氏の人柄について、ささやかながら証言をいただきました。団鬼六氏との出会いは、新橋駅前の旧闇市の飲み屋。1971(昭和46)年にニュー新橋ビルとして再開発されるまでは、300以上の店舗が連なる横丁であった。ある日、隣で2、3度顔を見たことのある男から「よく会いますね」と声を掛けられて意気投合、これが高校教師時代の団鬼六だった。1962(昭和37)年頃のことである。
「三崎のうまい魚で一杯やろうということになって、三崎で酒を飲み交わした。団さんは、深酒するとすぐに寝ちゃうんだ。それから急速に仲良くなって、思いつくとそのまま水戸黄門のような旅に出かけた。金も持たない、予定なし、めくらめっぽうにね。団さんは風呂が好きで温泉のあるところに出掛けることが多かったな」
当時はお米の購入に米穀配給通帳が必要だった時代。そのため旅館での宿泊には米持参が条件だった。
「団さんは自分の家に「米送れ」と電報を打って、私が「金送れ」とやったもんで、何とかムチャクチャの旅を続けることができたんだよ」
1966(昭和41)年、団氏は前年に教師を辞めて上京、就職していたが会社は倒産し、真鶴に転居。英語の家庭教師をする傍らでピンク映画の脚本を多数手がけるようになる。すでに『花と蛇』の連載が好調だった時期で、この頃にも賀山氏は泊り込みで真鶴に出かけてはアブノーマルな話をしながら飲み明かしていたそうだ。そして翌年、ピンク映画会社ヤマベプロから谷ナオミがデビュー。当時の谷ナオミのスナップ写真が、賀山氏の連載『裸足で歩いたSM道』(「S&Mスナイパー」2005年3月号、100P)にて紹介されているので右に転載する。
賀山氏と団氏の親交はその後も続く。団氏は賀山氏の仲人をされており、晩年にはお互いが先に死んだ相手の葬儀委員長をする、といった約束等もされていたという。
もう一人お話を伺ったのがカメラマンの田中欣一氏。氏はWEBスナイパーの前身である雑誌「S&Mスナイパー」にて長年にわたり緊縛グラビアの撮影を手がけて下さった。氏のキャリアの源流にはピンク映画のスチールカメラマン時代があり、携わった作品の未公開カットを抜粋してまとめられた写真集『SEX CINE-MATRIX』も小社より発売されている。
氏がスチールカメラマンとして活躍されたのは1970年から86年までの16年間。キャリアをスタートさせた年の前年となる1969(昭和44)年、団鬼六はピンク映画プロダクション、鬼プロを立ち上げるが、2年後には映画制作から離れて「SMキング」を創刊する。その頃に田中氏と故人との邂逅があったという。
「目黒に凄い黒塀の自宅があったんですよ。『SMキング』の編集を杉浦則夫さんがやってるかやってないかって頃じゃないかな。私がピンクの世界に入って最初の頃、谷ナオミがデビューした頃ですね。谷ナオミを秘蔵っ子にしてたんですよ、鬼六さんが。だから谷ナオミが出る映画のセットとして自宅を貸してたんです。母屋があって、後ろに物置があって、その物置に梁があって、そこから女をぶら下げたりしたんだ。そこへお邪魔したんですよね。もちろんピンク映画のスチールカメラマンとして。だから覗き見る程度のことだったけど。ただ一度だけ卓球をやったことがあって。鬼六さんはね、負けると怒るんだよ(笑)。でね、勝つとまた怒るんだ」
団氏が目黒に居を構えたのは1971(昭和46)年。キャリア開始から数年、いくつもの現場を渡り歩きながら忙しい毎日を過ごしていた田中氏は、ピンク映画の現場でスチールカメラマンのみならず、女優を縛るようにもなっていったという。
「最初は助監督が縛っていたんです。でもそれがどうしようもない(笑)。こっちはSM雑誌の撮影にも行っていたから、色々な縛り方を分かっているんですよ。だから、それじゃダメだよって言ったら、じゃあ縛って下さいよって。カメラを頭にぶら下げながら縛った(笑)。何百本とやったなあ。縛りの撮影だっていうと呼ばれたんですよ」
田中氏が携わった現場は、主に新東宝制作のものが多かったという。渡辺護、高橋伴明といった監督たちがSM作品を撮っていた。当時のピンク映画にSM要素は当然のものとして存在していのだ。
「縛り師の話とか、縛りが趣味のお父さんとかお爺さんがいて、若い子が売られてきて、手をつけられるっていう話が多かったね。縛って悪戯されてとか、手篭めにされるとかね。そのうちに目覚めちゃうんだ。あとは女教師もの。学校で縛られちゃう。一人くらい先生とデキちゃってる生徒がいたりして、そういうのを見せしめで縛っちゃうとか。やっぱり鬼六さんの小説の世界みたいなのが、オーソドックスだったよね。女がだんだんよくなってくるという。官能というかね。暴力じゃないんだよ。暴力的なのは事件みたいなもの。それはもう、縛りがどうとかいうものじゃないから。監禁だからね。もっと、情念というか、縄によって愛情が芽生えてくるとか、男と女の縄を介した愛情表現みたいなもの。団さんが確立したようなもんだからね、そういう世界は」
日活ロマンポルノの開始は1971(昭和46)年で、日活で谷ナオミが『花と蛇』に主演するのは1974(昭和49)年。その後に原作・団鬼六というタイトルキャッチがロマンポルノ作品で並び始めるのだが、これについては安田理央氏の追悼記事を参照していただきたい。
田中氏がピンク映画に携わった時代は、団鬼六と日活ロマンポルノの蜜月時代であり、ピンク映画へ団氏は関わっていなかった。しかしながら団鬼六原作ではなかったピンク映画も彼が描いたSMの影響下にあった。
1980年代になると、団鬼六はSM誌への連載を数多く手がけるようになる。司書房でSM誌の撮影をしていた田中氏曰く「団鬼六の小説がなかったらSM雑誌が売れない時代だった」という。1979(昭和54)年の『S&Mスナイパー』創刊号にも巻頭小説として『鬼畜の街』が掲載されている。
そして私たちの持つ多様な性的嗜好が、様々な手段によって明るみにされた現在では、団鬼六によって与えられたSMという言葉の魔力は失われ、すでに過去のものとなったように感じられる。だが作品のなかで描かれる人間たちの懊悩は変わらず、またどのような言葉で呼ばれようとも作品から与えられる官能もまた変りないものだ。此度の追悼企画が、膨大に残された氏の作品に触れる端緒となることを願う。
文=編集部
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